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☆☆「読書交換日記 《3冊目》〜長文歓迎〜」☆☆

1 :吾輩は名無しである:2006/12/09(土) 22:32:20

本の読了後の感想、意見などを「読書交換日記ふう」に綴るスレです。
長文歓迎します。
荒らし予防のためにも「sage」進行でお願いします。

【前スレ】
☆☆「読書交換日記 《2冊目》〜長文歓迎〜」☆☆
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1143986357/

2 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 22:33:52

1です。

新スレも前スレ同様、どうぞよろしくお願いいたします。

前スレで、一定期間内に20レスつけないと即死判定と伺いましたので、
頑張って感想文をつけたいと思います。
文学板の連投は5レスまでですので、ひとつの感想文で間が空きますが
どうかご了承ください。

3 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:01:17

以下、感想文です。

ブローティガン『西瓜糖の日々』の感想です。
浮遊感のある不思議な世界観を持つ作家ですね。
この世のどこにもない世界で暮らす人々の日常が、日記風にごく短い章に
分けて淡々と綴られています。
人々の関係も濃密さはなく、さらさらと砂が流れていくような淡い関係です。
解説では1960年代のヒッピー族、フラワー・チルドレンの先駆けとして
書かれた作品であり、60年代に入って大ヒットした、とあります。
そうした時代背景を知らずに読んでも充分楽しめる作品だと思いました。

「失われた世界」、「虎の時代」そして、今のアイデスの時代。
おそらく「失われた世界」とはかつての私たちが住んでいた世界ですね。
すなわち、繁栄した文明と法治国家。
そして、次の「虎の時代」とは、弱肉強食の無法地帯。
アイデスとはかつての文明や法が崩壊し、また次の時代が弱肉強食ゆえに
仲間うちで殺戮が繰り返された結果、簡素な生活と仲間内で助け合って生きようと
集まった人たちがつくりあげたユートピア。
ユートピアの真の意味は、どこにもない国。
そう、アイデスとはこの地上のどこを探しても見つからない国なのですね。


(つづきます)

4 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:02:04

解説で柴田元幸氏はアイデスの名前から「死」の世界を連想する、と書いて
おいででした。確かにこの世のどこにもない世界、次の世界とは死の世界
なのでしょう。。。
わたしはアイデスとは人々の観念、空想がつくりだした架空の世界だと
思います。つまり、実体のない世界。そこでは血も流れない、労働しても
汗をかくこともない、棺は永遠に消えない灯りに囲まれて美しく彩られたまま
時がとまっているかのよう。それゆえ死体は腐臭を発することはない。
従って人々の感情も淡いものであり、濃密な感情に襲われた住人は必然的に
アイデスからはみ出してしまうのです。
たとえばかつての「私」の恋人マーガレットは、「私」がポーリーンにこころを移して
しまった途端に激しい嫉妬の嵐に襲われます。
そして、その日から「失われた世界」へと急速に惹かれていきました。
また、日々穏やかに過ぎていく世界に物足りなさを感じたインボイルと彼の仲間
たちは、刺激を求めて「失われた世界」の残骸を集め始めるのです。
強烈で何もかもが色濃く覆われていた「失われた世界」。
酒、タバコ、ドラッグ、感覚を高揚させ狂わせるものたちが充満していた世界。


(つづきます)

5 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:02:45

アイデスの世界ではあらゆる感情が希薄で、悲しみさえも淡くとおりすぎて
いくかのようです。
無論、悲しみを濃く味わいたい人間などこの世にひとりもいないでしょう。
けれども、それは例えば人の死を悼むという深い感情も失われてしまうことに
他ならないのですね。
うろ覚えですが、吉本ばななさんが新聞のコラムでこんなことを書いていました。
「今の時代は悲しみに深く向き合おうとしない時代です。
淡い関係こそがお洒落であり、ひとつの関係が壊れても替えはいくらでもある。
人々は悲しみを避ける術が上手くなり、親しい者の死にもきちんと向き合わない。
ヒーリング、娯楽、、、手を伸ばせば何と簡単にそれらは手に入ることだろう。
けれども、そうしたものは一時的なものに過ぎず、必ずあとでしっぺ返しがくる。
人は悲しみに対してきちんと対峙しないと、次の段階には決して進めない」

例えば「私」が子供の頃、目の前で両親を虎に食い殺されたこと。
虎は「すまない。こうしないとわれわれも飢えて死んでしまうのだ」と言います。
「私」は目の前で両親を殺された悲しみときちんと向き合えたのでしょうか?
いいえ、おそらく「私」がとった手段はアイデスという架空の国への逃避でしょう。
あまりにも悲しみが大きすぎたとき、人は自分のこころを守るために悲劇は
なかったことにしようとする心理がはたらきます。


(つづきます)

6 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:04:11

そしてケアされなかった悲しみは、同じように悲しみを持つ人たちを呼び寄せて
ひとつの王国をつくりあげるのです。
その国は、西瓜のように甘すぎず、希薄な関係を好む人たちの集まり。
気づいてます? 西瓜って甘くないのに鮮やかな赤い色をしているでしょう?
あの赤はね、血の色、情熱の色なんですよ。
生きている証し、それが血の色。こころが動く瞬間の激しい迸りの激情の色。

インボイルは指を切り落とし、アイデスの聖地・鱒の孵化場を血で染めて
死んでいきました。マーガレットは林檎の木に首を吊って自殺しました。
西瓜糖の大地の下には虎が埋まっていることをどうか忘れないで。
生きるために人間を食い殺した獰猛な虎の魂は、アイデスの世界で腑抜けの
ようになっている人々に呼びかけます。
目覚めよ! 眼を覚ませ! そしてよく眼を開けて辺りを見るんだ。
おまえがいる地はまやかしの国だ。嘘で塗り固められた平和だ。

ところで、鱒はライ麦畑の番人のように、人間の見張り役なのでしょうか?
アイデスから落ちこぼれる人たちを普段は静観していて、時々気まぐれに虎の魂を
吹き込んでいるような……。


(つづきます)

7 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:05:02

虎の魂を吹き込まれた人間はマーガレットやインボイルのように血の気が多くなり
アイデスから離れていきます。
これ以上人口がふえぬための、それはひとつの自然の摂理なのかもしれません。。。

どこにもないとわかっているのに、どうして人はユートピアを求めるのでしょう?
もし仮に探しあてたとしても、その瞬間からユートピアはユートピアではなくなります。
そうしたら、また新たなユートピアを求めずにはいられなくなるだけなのに、、、
理想郷が神の住まう平穏な国とすれば、イエスはいみじくも言いました。
――さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、
イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものでは
ありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものでは
ありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」――
(ルカ17章20 -21節)

夢見るようなやさしい、ほんのり甘い西瓜糖の世界。
だけど、一皮向けば血で塗り込められた凄惨で残酷な美しい世界。
指を切り落とした血で染められた西瓜をあなたは平然と食べられるでしょうか?
つるつるした舌触りの西瓜の種は実は針かもしれませんよ。
あなたは、何の疑問も抱かずに目の前の西瓜を食べられますか?
そう、これは西瓜糖の住人になれるかどうかの「踏み絵」なのです。
え? わたしですか? わたしならば**********です。そう、あなたと同じです。


……西瓜糖で灯されたランタンの橋を渡り、今宵こそ夢の世界に出発ですね。

8 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:37:20

ブッツァーティ短編集『待っていたのは』読了しました。

恐怖小説、SF小説、不条理小説、となかなかバラエティに富んだものが所収
されています。

なかでもとりわけ表題の『待っていたのは』は苛立ちを残す作品です。
ひと組の男女がとある街に降り立ち、すべてのホテルから拒否されます。
連れの女性は暑さのあまり涼をとりたくて公園の噴水のなかに入ります。
周囲の人々が彼女を咎め立て、連れの男性共々見せしめの檻に吊るされ
挙句の果ては唾やら汚物を浴びせられる……。
なぜ、そうされなければならないのか、詳しい説明は一切書かれていません。
……もし、この男女がこの街ではなく他の街に降り立っていたとしたら。
……もし、あのとき彼女が噴水のなかに入らなかったならば。
この世の出来事はあらゆる偶然によって引き起こされるのです。
そして、その偶然を引き起こしているなにものかがいる。
そのなにものかにとって、偶然とは必然なのですね。

ブッツァーティはそうした予測不可能な偶然によって引き起こされた必然としての
結果がもたらす暗部をとりわけ好んで描くのです。
偶然という意地の悪い運命のいたずら、迷路にふとしたことで迷い込み、
転落していく人間の姿をある種の諦念を込めて描く作家ですね。


(つづきます)

9 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:38:09

『夕闇の迫るころ』は、狡猾な手段で高い地位にのし上がった男が、
廃屋で子供だった頃のかつての自分に遭遇するお話。
少し教訓めいていますが、少年だった彼が理想として描いていた未来の自分との
あまりの隔たりに愕然とするも、時を取り戻すことはできず、男はひとり夕闇の
なかで絶望的に佇むしかすべがない……。
我欲と名誉欲が強い男が最後に手に入れたものは、深い孤独だけ。

ブッツァーティは人間の孤独についても深い観察眼をもって描き出します。
孤独とは他者との関係云々以前に自分が満たされていない状態。
家族や伴侶、親しい友人たちに囲まれていても、疑心暗鬼だったり
こころが通い合わずに空虚な状態を指すのですね。
自分で自分を認めてあげることができない、つねに何かに餓えていて充足する
ことがない。欲望が深ければ深いほど、孤独の度合いも深いといえましょう。


(つづきます)

10 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:38:48

『夜の苦悩』
病気の弟の枕元に毎夜立つ死神。兄は何とか死神を部屋に入れまいとしますが
死神はどんなに扉を堅く閉ざしてもどこからともなくするりと忍びこんでくるのです。
幾夜もそんな夜がつづいたある夜、兄は死神が眠っているのを見ます。
ようやく待ち望んでいた夜明けの光が射し、ふたりは死神がどこか遠くへ行った
ことを知り、喜びを分かち合うのでした。

ブッツァーティの作品にしては珍しく最後は希望に満ちています。
夜、闇、病がもたらす幻想的な恐怖を描いています。
死というものの前で人間はなすすべはありませんが、それでも時折奇跡は起こる。
神の恩寵によるものか、はたまた死神が年若い命を奪うのは気が引けたのか。
朝の光は天の国の光のように歓喜にあふれ、ふたりの兄弟を祝福します。
それは、ふたりが幾夜もつづいた夜の恐怖から解放された証でもありました。
ここでブッツァーティは人間の幸福について、言及しています。
そう、幸福とは自分を取り巻く苦悩が取り去られた瞬間にこそ訪れる。
逆説的ですが、毎日が平和で穏やかな人には、そのようなあふれる幸福感を
味わうことはできない。人生において願わしくない課題を与えられ、その課題から
解放された瞬間の喜びはなにものにも勝る幸福であると。
それは、曲がりくねった険しい山道をひたすら歩き続ける人の前に何の前触れも
なく、いきなりふいに眺望が開けた瞬間の喜びに似ています。
爽やかで清々しい朝の光。幸福とは明け方の光に象徴されているのですね。


(つづきます)

11 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:39:32

『戦さの歌』
勝利しているにも拘わらず兵士たちの歌う悲しい調べ。
王でさえも彼らの歌を止めようがありません。
戦勝に浮かれた王は、戦さを終結するどころか兵士たちをさらに先へ先へと
行進させます。
そして、気の遠くなるような年月が流れ、兵士たちが行進した跡にはあの悲しい
歌の詩のままに十字架が列をなしてどこまでもつづいているだけ……。
いくら勝利しているとはいえ、人が向かう先は最終的には死であるのです。
誰も死を阻むことはできない。
兵士たちは誰に教わるでもなく、そのことを知っていたのでした。
知らぬはただ王ひとりのみ。。。
勝利がもたらす喜びは、確実に待ち受けている死を思うとたちまち吹っ飛び、
暗澹とした気持ちに襲われてしまう。
兵士たちが悲しい歌を止めないのは、この行進は死へとつづいているから。
この世の権勢を誇る王でさえ、やがては朽ちて土に還る。
この世はまさしく、諸行無常……。
今日もどこかの見知らぬ国で兵士たちの悲しい調べは延々と流れる。


(つづきます)

12 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:40:09

『アナゴールの城壁』
これはまさしくカフカの『門』をほうふつとさせます。
人々は行列をなして門の前で門が開くのを待っていますが、なかなか開かない。
幾年か前に、たった一度だけ門は開き入ったのはひとりだけ。
それも開いた門は数ある門のなかでも最も小さくみすぼらしく誰もが省みない門。
そこにたまたま訪れた男は数秒も待たずに中に入りました。
何年も待ち続けた人々は唖然と見送るのみ。。。
最後には教訓としてこんな一文が。
「あなたは人生で多くのものを求めすぎるのですよ」

ブッツァーティの作品の特徴として、登場人物たちはふとした運命のいたずらで
転落したり、待ちぼうけを食らったり、延々とつづく荒野をさすらったり、
命が尽きるまで迷宮をさ迷うはめに陥ります。
彼らの運命の糸を操っているのはいったい誰なのか?
人智を超えた大いなるもの(=プロンプター)でしょうか。
彼(=プロンプター)が気まぐれにほんの少しサイコロを振るだけで人の運命は
大きく変わります。それも一瞬で。人生が、流れが激変します。


(つづきます)

13 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:09:10

彼(=プロンプター)の出来心できられたカードには、瞬時に変えられた人の
運命が記されています。スペード? キング? それともジョーカー?
そのカードを見て彼(=プロンプター)の脳裏には、どんな想いがよぎるのでしょう。
あまりにもたくさんの人々のカードをきりすぎて、感情は麻痺してしまったので
しょうか。彼はいったい何を思い、また今日もひとりでカードをきるのでしょう?
彼には人生を狂わされた人々の慟哭が聞こえるのでしょうか。
わたしは知りたい。彼にはこころがあるのでしょうか?
あるとしたら彼のこころは、どんなかたちをしているのでしょう?
わかっているのは、彼は人間よりもずっとずっと孤独な存在であるということ。

運命のカードをきる者のこころのかたちとは?
映画「レオン」のエンディングに流れていたスティングの《Shape of My Heart》
(私のこころのかたち)のyoutubeを見つけたのでupします。

映画「レオン」の映像も合わせてお楽しみください。↓
http://www.youtube.com/watch?v=88uy47jylTo

こちらはスティング本人の動画 ↓
http://www.youtube.com/watch?v=KX4jAplZb0Y

14 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:11:29

< Shape of My Heart / STING>

He deals the cards as a meditation
And those he plays never suspect
He doesn't play for the money he wins
He doesn't play for respect
He deals the cards to find the answer
The sacred geometry of chance
The hidden law of a probable outcome
The numbers lead a dance

I know that the spades are swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart

He may play the jack of diamonds
He may lay the queen of spades
He may conceal a king in his hand
While the memory of it fades

15 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:12:23

I know that the spades are swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart

And if I told you that I loved you
You'd maybe think there's something wrong
I'm not a man of too many faces
The mask I wear is one
Those who speak know nothing
And find out to their cost
Like those who curse their luck in too many places
And those who smile are lost

I know that the spades are swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart

16 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:13:42

【訳詞】

< Shape of My Heart / STING>

瞑想するように カードをきる男
賭ける者も その手先に信用を置く
彼の勝負は 金のためではないから
媚びた競い方もしない
カードをきるのは 答えが欲しいから
聖なる奇跡にも似た 幾何学的な偶然
予測可能な結果 隠された法則
誰もが 数字に踊らされてゆく

僕は知ってる
スペードは 騎士(ナイト)の剣(つるぎ)
クラブは 戦いに備える武器を意味する
ダイヤは この芸術に捧ぐ金の輝き
だけど どれも僕の心を かたどりはしない

17 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:14:52

ダイヤのJackを 使うだろうか
スペードのQueenを 手放すだろうか
行き交う記憶の狭間で 彼がその手に隠すのは切り札
キングかもしれない

僕は知ってる
スペードは 騎士(ナイト)の剣(つるぎ)
クラブは 戦いに備える武器を意味する
ダイヤは この芸術に捧ぐ金の輝き
だけど どれも僕の心を かたどりはしない

……違う
僕の心を埋めるのは そんなものじゃない
もしも「愛している」と伝えたら
君は信じるよりも 驚くだろうね
仮面を使い分ける器用さのない僕だから
身に付けた「顔」は ひとつ

18 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:31:55

知識ばかりで良く話すやつほど
ほんとうは何も知らない
そのうち 大きなしっぺ返しをくらう
人をうらやんでばかりの 不幸自慢をする奴らと同じ
そしてただ微笑む者は 道を見失う

僕は知ってる
スペードは 騎士(ナイト)の剣(つるぎ)
クラブは 戦いに備える武器を意味する
ダイヤは この芸術に捧ぐ金の輝き
だけど どれも僕の心を かたどりはしない

……違う
僕の心を埋めるのは そんなものじゃない

19 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:32:40

連投失礼致しました。

今日はこの辺で失礼します。
皆さま、すてきな日曜日をお過ごしください。
おやすみなさい。

――それでは。

20 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 20:16:39

すみません。

前スレが途中のまま、
「このスレッドは512KBを超えているのでこれ以上は書けません」とメッセージが
でてしまいましたので、改めて『虹を架ける』2レス分をこちらに書かせて
いただきます。

21 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 20:42:45

前スレの途中で容量を超えてしまいました。。。
以下、美智子皇后様が子供時代の読書の思い出を語られた『虹を架ける』の
抜粋です。

――だ小さな子供であった時に一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことが
ありました。不確かな記憶ですので今恐らくはそのお話の元はこれではないかと
思われる新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。

でんでん虫はある日突然自分の背中の殻に悲しみが一杯つまっていることに
気付き友達を訪ねもう生きていけないのではないかと自分の背負っている不幸を
話します。友達のでんでん虫はそれはあなただけではない、私の背中の殻にも
悲しみは一杯つまっていると答えます。
小さなでんでん虫は別の友達、又別の友達と訪ねて行き同じことを話すのですが、
どの友達からも返って来る答は同じでした。そして、でんでん虫はやっと悲しみは
誰でも持っているのだということに気付きます。
自分だけではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなければならない。

この話はこのでんでん虫がもうなげくのをやめたところで終っています。
あの頃私は幾つくらいだったのでしょう。母や母の父である祖父、叔父や叔母たち
が本を読んだりお話をしてくれたのは私が小学校の2年くらいまででしたから、
4歳から7歳くらいまでの間であったと思います。
その頃私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。


(つづきます)

22 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 21:17:12

だからでしょう。 最後になげくのをやめた、と知った時、簡単にああよかった、と
思いました。
しかし、この話はその後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。
殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、
もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていた
のでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは
済まされなくなりました。生きていくということは楽なことではないのだという、何とは
ない不安を感じることもありました。

どのような生にも悲しみはあり、一人一人の子供の涙にはそれなりの重さが
あります。
私が自分の小さな悲しみの中で、本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。
本の中で人生の悲しみを知ることは、自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、
他者への思いを深めますが、本の中で過去現在の作家の創作の源となった喜びに
触れることは読む者に生きる喜びを与え、失意の時に生きようとする希望を取り
戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます。――美智子皇后・『虹を架ける』より

「でんでんむしのかなしみ」新美南吉 ↓
http://nagoya.cool.ne.jp/ksc001/snail.htm


――皆さま、よい読書の旅を!

23 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/10(日) 23:31:38
Cucさん、新スレ出産おつかれさまでした!

ブローティガンについて少し。
>ごく短い章に分けて淡々と綴られています。
ブローティガンの作品は断章形式が多いですね。
『西瓜糖』も『鱒釣り』も『ビッグ・サー』も『芝生の復讐』も。
「西瓜糖」や「鱒」や『ビッグ・サー』の「鰐」などを象徴的に掲げ、
独特の文体で独特のファンタジックな世界を紡ぐブローティガン。
難しいことを考えずに音楽を聴くように読める作品ながら、
いつも読後に不思議な余韻を残してくれます。

>どこにもないとわかっているのに、どうしてユートピアを求めるのでしょう?
《アイデス(iDeath)》は観念(idea)の国ですが、
「私」の死(Death)の国でもあるのでしょうね。
どこにもないからこそ求められるユートピア――。
「どこにもない」という意味を持つユートピアは,
その定義からしてどこかにあってはならないのでしょう。

24 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/10(日) 23:38:25
ブッツァーティについても少し
>人智を超えた大いなるもの(=プロンプター)でしょうか。
ブッツァーティには『偉大なる幻影』というSF的作品もありますが、
そういう《何か見えないもの》をテーマに書くようなところは、
『タタール人の砂漠 』にも共通していますね。
『待っていたのは』や『七人の使者』という短編集でも
不気味なもの=不可視なもの、を描くのがなかなか達者。
ブッツァーティの『ある愛』は未読なので、
来年はぜひ読んでみたいなと思ってますヨ。

「アナゴールの城壁」という短篇について
>これはまさしくカフカの『門』をほうふつとさせます。
と書かれていましたね。
ブッツァーティの作品のトーンやテーマには
時々カフカを彷彿させるものがありますが、
『タタール人の砂漠 』を読んだときも、
たしかカフカ「万里の長城」を想起させられた記憶が。  〆

25 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/10(日) 23:42:24
追伸

スティングのリンクどうもありがとう。
スティングを聴いていると
黄昏時に橋の上から川の流れを眺めているような雰囲気に
なぜかなってしまうのでした。  〆

26 :(OTO):2006/12/12(火) 14:22:29
アク禁で遅れた。すまん。

Cuc乙。SXY乙。いよいよ3冊目か。先日「私についてこなかった男」の
2人の感想を再読しようと思い、1スレ目を読み始めたら、
ついつい現在まで通読してしまったが、感慨深いものがあるなww
これからも、2人ともよろしく。できるだけ続けていこう。

前スレ末尾の「不可能なもの」と「私についてこなかった男」に関するCucの
感想・返レス、非常に興味深く読んだ。バタイユにおける信仰のかたちを見据えた上での
読みは、もうかなり完成しているようで、安心して読める。文章ものびやかで
Cuc独自のの「口調」と「持っていきかた」が自然に出ているなあ、と感心。
そして書かれたことに寄り添うように漂う、書かれていないことをさえ
我々は読むものだ。書いた者の生きる「世界」。やわらくいえば「ひととなり」と
言えばいいのだろうか。誠実さややさしさが深いところから伝わってくるな。
それは美智子皇后の「虹を架ける」の引用にも感じる。
「その箇所」を静かに切り取り、貼る「手」のやさしさ、というのかな。

おれは、1スレ目だったかな?SXYのあざやかな引用に感心して以来、
感想文でも引用を多用するようになったが、同一であるはずの原典が
読む者の引用、そのサンプリングによってさえ違うテクストのように機能するのは
おもしろいと思うな。

>自分以外の人が書いた文章を再認し、自身の言葉で再構築する行為とは、
>結局は読み手であるわたしの一方的な思い込みや誤読に過ぎないものかもしれず、
>また、再構築された言葉とは自分の世界でしか通じないものなのかもしれません。
>なぜなら、作家がとらえた世界・それを構築した言葉と、それを読んでわたしが感じ、
>とらえた世界とでは当然ながら差異が生じるからです。 (前スレ504、Cuc)

「感想文」という言葉の持つ個人的なニュアンス。同意や差異を楽しみ、
それぞれのパルタージュを尊重しながら、ゆっくりと続けていきたいね。
んじゃまた。まだこのスレの上の方読んでないんだww
ゆっくり読ませてもらうよww

27 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/16(土) 23:13:43
>1スレ目を読み始めたら、
何を書いていたかはほとんどの忘却の彼方。
どうも人より多く頭の中に消しゴムがあるようで。。。
OTO氏のいう「あざやかな引用」なんてあったかな?
という感じではあるのだけど、どうもありがとう。

>同意や差異を楽しみ、
>それぞれのパルタージュを尊重しながら、
まったくの同感。
差異があるからこそ理解しようとする欲望も沸き、
二人への尊敬、といえばおおげさかもしれないけれど
それに似た感情を持ってしまうのだから。  〆

28 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:46:31

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>23-25

さっそくいらしていただき、ありがとうございます!
このスレもどうぞよろしくお願いします。

>難しいことを考えずに音楽を聴くように読める作品ながら、
>いつも読後に不思議な余韻を残してくれます。
そうですね。コージー・コーナーのような心地よい空間のなかで聴く音楽は
そよ風のようにこころを和ませ、いつしかまどろむとそこは異次元の世界へ
つづく扉が。
「不思議の国のアリス」のように、わたしたちは次々に扉を開けてゆきます。
扉を開けるたびに違う世界があり、最後の扉を開けたとき、そこに見えるのは
砂と岩だけの砂漠だったり、あるいは一面の海だったり、雪景色だったりと
色のないモノクロームの世界に立っている自分に気づきます。
寂しさと、なつかしさで胸がしめつけられるのです。
眼前に広がる世界はわたしの記憶がつくりだしている世界。
追憶の世界に入り込めるのはわたしだけ。。。

ブローティガンはそんな不思議で物静かな世界をつくりだす作家ですね。

29 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:47:17

>不気味なもの=不可視なもの、を描くのがなかなか達者。
本当にその通りですね。
ひたひたと音もなく忍び寄ってくる気配のぞっとするような怖さ、
正体不明の何者かが迫ってくるのがわかっているのに逃げられない恐怖を
描くと抜群に筆が冴えますね。

>ブッツァーティの『ある愛』は未読なので、
>来年はぜひ読んでみたいなと思ってますヨ。
あ、わたしもぜひぜひ読んでみたいです!
年明けに図書館にリクエストする予定ですヨ♪
そしたら、またこのスレで同じ本についての感想を語りあえますね。
今から楽しみにしておりますヨ。

30 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:47:56

>スティングを聴いていると
>黄昏時に橋の上から川の流れを眺めているような雰囲気に
>なぜかなってしまうのでした。
ああ、とても綺麗で素敵な表現ですね!
そうですね、哀愁を帯びた彼の曲は、どこかもの悲しくて、せつなくなります。
込み上げてくるものがありますね。
灰色の凍えた冬空にせいいっぱい翼を広げて飛び立つ鳥を見て
湧きあがってくる愛しさに似た感情。
ロックってもっとこう、ハードなものなのかな、と思っていたのですが、
こんなにも切々とした美しい調べもあるのですね……。

もの思いに沈んだとき、この曲を聴けばカタルシスに浸れます。。。
そして、思い切り沈んだらあとは静かに浮上するのを待ちましょう。

31 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:48:30

(OTO)さん

>>26
ようこそ、新スレへ! このスレもよろしくお願いします。

>バタイユにおける信仰のかたちを見据えた上での
>読みは、もうかなり完成しているようで、安心して読める。
ありがとうございます! とてもうれしいです♪

>やわらくいえば「ひととなり」と言えばいいのだろうか。
>誠実さややさしさが深いところから伝わってくるな。
ここを読んでうれしさのあまり泣きそうになりました……。
こんなふうに言っていただけて、ほんとうにとてもうれしいです。
ああ、言葉にしていないところまで丁寧に読んでくださっているのだなあ、
書くことの不安と怯えを払拭させてくれる揺るぎない友情と、
寛容であたたかなまなざしに守られているのだなあ、と。
ありがとうございます。

>同一であるはずの原典が読む者の引用、そのサンプリングによってさえ違う
>テクストのように機能するのはおもしろいと思うな。
そうですね。人それぞれの感じ方や引用部分が異なるからこそ、面白い。
あ、そんなふうにも読めるんだ。う〜ん、さすが鋭いところを突いているな、と
互いに刺激され、それを糸口にそこからまた「新たな読み」が始まります。
おそらくこれは弁証法に近いのではないかと思います。

32 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:49:02

行きつ戻りつの対話は、一見戻っているようで実は登山鉄道のように、
最初の地点より高度は上がっている。それも確実に。
レールの終点は次のより高い地点を目指す始点でもあるということですね。
何だかブランショの「終わりなき対話」みたいですね。
だからこそ彼は「今、終わりと書く」と記してあえて終わらせたのですね。
ほんとうは終わっていないのに。書かれていないだけで対話はつづいているのに。

>「感想文」という言葉の持つ個人的なニュアンス。同意や差異を楽しみ、
>それぞれのパルタージュを尊重しながら、ゆっくりと続けていきたいね。
はい。これからも急がずに互いのペースを守りつつ歩みましょう。
本の読み方はそれこそ人の数だけあり、それはその人の今までの人生の
歩みそのものです。ですから、ひとつとして同じものはない。
真摯に綴られた感想とはその人の人生観、軌跡であるならば
どのような人の人生も、わたしにとっては未知の世界との出逢いであり、
新しい発見であるのですね。
そうした出逢い、発見を大切にしていくことが、パルタージュを尊重することなの
でしょうね。

先週、感想文をどっとつけたので、今日はおふたりに返レスのみにしました。
ブッツァーティーの「七人の使者」の感想は次回にupする予定です。

――それでは。

33 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/21(木) 23:57:28
>ブローティガンはそんな不思議で物静かな世界をつくりだす作家ですね
ブローティガンより前に高橋源一郎の初期の作品を読んでいたので、
ああ、源一郎のルーツにはブローティガンがいたのか、と感じたっけ。
ちょっといびつでなげやりで、それでいてリリカルなファンタジー。
二人とも根っこには詩があるのかな。

>年明けに図書館にリクエストする予定ですヨ♪
ギクッ。Cucさんは読むのが早いからなあ。
ちょっとハンデをもらわないと追いつけないかも。
とりあえず読み始めたら報告しますね。

実は今、いくつかの写真論に手を出し始めたところで、
ベンヤミン『写真小史』、ソンタグ『写真論』、
そしてバルト『明るい部屋』を遍歴する予定。
これは特に文学とは直接の関係はないけれど。  〆

34 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:15:12

>>33
SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>ブローティガンより前に高橋源一郎の初期の作品を読んでいたので、
>ああ、源一郎のルーツにはブローティガンがいたのか、と感じたっけ。
そうなのですか? わたし高橋源一郎さんの作品は未読なんですよ。
初期の作品を中心に読んでみたいですね。

>ちょっといびつでなげやりで、それでいてリリカルなファンタジー。
>二人とも根っこには詩があるのかな。
そういえば、ブローティガンは詩人でもあるのですよね。
高橋源一郎さんが詩作をされる方かどうかは知りませんが、
詩が好きならば充分読んでいた可能性が考えられますね。

>ギクッ。Cucさんは読むのが早いからなあ。
いえいえ、最近は平日の夜は全然読んでないんですよ〜。

>とりあえず読み始めたら報告しますね。
はい。よろしくです♪ また同じ物語について語り合えたらいいですね。

35 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:15:44

>ベンヤミン『写真小史』、ソンタグ『写真論』、
>そしてバルト『明るい部屋』を遍歴する予定。
写真論ですか! これはまた多趣味ですね。
わたしは写真のことはよくわからないのですが、江戸東京博物館で
開催されていた荒木経惟の写真展「東京人生」を先月鑑賞してきました。
中年女性の顔だけのアップとか、なかなか多彩に富んだ作品でした。

こちらにカキコするのは年内で今日が最後になりそうです。
SXYさん、OTOさん、そしてROMされている皆さま、
少し早いですが、良い年末年始をお迎え下さい。
来年もよろしくお願いします。
年明けにまたお逢いしましょう。


以下、今年最後の『七人の使者』の感想です。

36 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:16:30

『七人の使者』の感想を記します。

ブッツァーティーの短編集です。
このなかでもっとも有名なのがSXYさんがコメントされていた『七階』。
ひとりの男が少し熱があるので某有名な病院に診察にいくと、
次々と階を降ろされていくというお話しです。
訳者の脇功氏が解説で指摘しているように、軽症だと本人には思わせておいて、
実は重症でした、というオチのある話。
わたしは各階とは人生におけるその人の年齢の象徴だと思えました。
例えば七階が三十代と仮定します。まだまだ身体は二十代には負けないという
自負心があります。ところがそう思っているのは本人だけで、身体は確実に
三十代なのです。本人はまだまだ若いつもりで、いつでも二十代に戻れるつもりで
いる。そうこうしているうちに四十代になり、階はまたひとつ下へと降ろされます。
医師は差し当たりのないことしか言いません。それはそうです。
会社という組織を考えてみてください。年配の上司に面と向って「もうトシですね」
などという輩はひとりもいないでしょう。上司はまだまだ自分がイケルと思い
若い人たちとやたらに張り合おうとします。
けれども、現実に肉体は確実に年をとっているのです。。。
これは自分の年齢を最後まで認められずにいた男の物語として読みました。
自分の年代を受け容れてしまえば、生きることはずっと楽でしょう。
かつて自分も若者としてこの世を享受していたことにいつまでもしがみつくよりは、
これからの実りある日々を充実させるほうが豊かな人生を送れます。


(つづきます)

37 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:17:04

『七人の使者』、『急行列車』。まさに人生そのものを描いた作品。
父の治める王国を踏査しようと七人の忠実な家臣をつれて旅に出た男。
七人のうち、一人ずつ使者を出し都からの頼りを受け取るも、その使者が
戻ってくる間隔が次第に遠くなる。国境はいつまで経っても見えない……。

人生という『急行列車』に乗って旅するひとりの男。
途中駅で下車して恋人とともに歩むこともできたのに、男は恋人が待ちくたびれて
去っていく後姿を見送るだけで列車から降りない。
母が待っている駅で下車し、今度こそは母とともにここに残ろうと決意するも
「お前は若いんだし、お前の道を行かなくちゃあ。早く汽車にお乗り」と説得され
またも列車に乗り続ける。何年もの時が流れ知っている乗客は誰もいなくなる。
終着駅がどこなのか誰も知らない。それでも今日も列車は走りつづける……。

ブッツァーティーは人生を果てのない砂漠、終わらない旅ととらえます。
答えの見つからない旅、それが人生である、と。
ひとたび列車(=人生)に乗ったら途中下車できない、放棄できない旅。
なぜなら、誰にとっても人生は一回性のものであり、時間は後戻りしないから。
それならば、ひとたび列車に乗った以上、世の果てまで走り続けるしかない。


(つづきます)

38 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:17:40

わたしはここに、深い悟りと諦念にも似た信念を見るのです。
彼らは走り続けるしかないと悟った時点で、決して自暴自棄にならない。
それが自分の運命ならば受け容れるしかない、そうした潔ささえ感じるのです。
目標の国境は無きに等しい。にも拘らず死ぬまで旅をやめない国王の次男、彼に従う
忠実な臣下、ひとたび列車に乗ってしまったからには恋人とも母親とも別れ、ひたすら己の
道を進む男。彼らは人生にありきたりでわかりやすい幸福を求めない。
いつ辿り着けるのかもわからない自分の信じた道をひたすら突き進んでいきます。

深い読後感に浸りながら、せつなさに打ちのめされるのはわたしだけではないでしょう。
なぜ、彼らは旅をやめないのか?
彼らの求めるものは見つからないかもしれないのになぜ、途中で旅を放棄しないのか?
そもそも人生とは確固たる答えが出るはずのものではなく、ひとたびこの世に生まれ
おちた以上、死に向ってただ行進していくしかないのだとすれば、数え切れない生き方が
あっても、死という終着駅はひとつであり、最終的には皆そこに向っているのですね。
どんな人も終着駅に着くまでは各々の旅を続けるしかないのです。


(つづきます)

39 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:37:35

『それでも戸を叩く』、『なにかが起こった』、『山崩れ』これらの作品群は不気味な
雰囲気をたたえており、さながらブラッドベリの恐怖小説を読んでいるようでした。
『それでも戸を叩く』の豪奢なお屋敷の女主人は、川が氾濫して大変な状況なのに
現実を認めたくないばかりに、最後まで威厳を見せつけてその場を離れません。
慌てふためいて非難することは、女主人の沽券にかかわる、その傲慢さが一家を
悲劇に陥れます。
『なにかが起こった』は列車から何気なく外を見ると民族大移動さながらみんなが
非難している様子が見えますが、列車は止まらない。惨劇の発信地へと走り
つづけるのです。
『山崩れ』は山崩れが起きたので記者は取材に赴くのですが、崩れた様子は皆無。
ところが帰り道、車を走らせている彼のすぐ後ろで土砂崩れの轟音が……。

人生の途上で、人は故意か偶然か自分の意志とは関係なしに惨劇の渦中にあえて
飛び込んでしまうことが多々あるようです。まるで魅入られたかのように。
迫りくる惨劇に途中で気づきながらも、あえて逃げずに留まってしまう人がいます。
あのとき、あの列車に乗らなければ事故には遭わなかったかもしれない、
あの場所にわざわざ行かなければ、命は永らえたかもしれない、
あの瞬間にすぐ逃げ出していれば、助かったかもしれない、
人の運命は数分、数秒、いえ一瞬の差でまったく違ったものになってしまうのです。
生に向かう際、生き方そのものには各々の意志がはたらき変えられることはあっても、
予め決められた死という運命の終着地は誰も変えられない、逃れようがないのですね…。


(つづきます)

40 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:38:19

『神を見た犬』はO.ヘンリーばりの最後のオチが効いておりストーリー・テラーとして
抜きんでたものを感じさせます。
神を見た隠者が可愛がっていた犬は、彼のために毎朝せっせとパンを運ぶのですが
隠者が亡くなったあとも、町の人々は犬の目を見るたびに神の目を思い悪行を
改めます。人々は犬が町に現れるたびに食べ物を与え丁重に扱います。
犬が死んだあと町を挙げて埋葬しようとすると、隠者の墓の上には犬の骸骨が。。。
風刺の効いた寓話ですね。
ただの犬なのに、隠者の犬だと人々は勝手に思い込み、神のまなざしに恐れ戦く。
犬は何の考えもなくただ気ままにうろついているだけなのに、悪さを企む人たちは
犬の目が神の審判として映る。
人々はその後も日曜日にはミサに出るし、風紀は乱れることはありませんでした。

人間の意識はほんのささやかなことで一変するものですね。
自分の人生における主役は自分であり、どう生きようと自由ですが、自由ななかで
己を律することを忘れてはならないのですね。神が強制的に人を律するのではなく、
たとえ神が不在でも自分自身を律する目をつねに備えていること。
まあ、これができたら法律は不要なのですが、、、
人は野放しにしておけば、水は低きに流れる如く烏合の衆となり果てる。。。
大いなるものを畏れ敬うことで初めて人は人として生き得るということでしょうか。


(つづきます)

41 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:38:57

『円盤が舞い下りた』は、宗教を持たないご立派で清く正しい生き方しか知らない
宇宙人をおちょくる話。彼らは神父が祈る姿を不思議そうに見るのです。
神父の彼らに対する最後の悪態がいいですね。
「へっ! 神様はご清潔で汚れを知らないお前らよりも、祈ることを知っている俺たち
人間のほうをお喜びにるはずだ。そうだろ?」
神父のこの言葉はまさに真理です。
人間が汚れもなく罪をひとつも犯さないならば、宗教は不要です。
まさに神は人間という罪びとのためにこそ、降りて来給う方なのですから。

『竜退治』は人間の傲慢さと醜悪さを描いた風刺的な作品。
伯爵の醜悪な名誉欲のため老いた竜とその子供たちはあえなく殺されます。
親竜が殺された二匹の子竜の亡骸を前にして白い涙を流す場面は、
哀切極まり、読んでいて胸が痛くなりました……。
けれども、この親子の竜も生きるために毎朝村人に一匹の山羊を生贄として
捧げさせていたのです。生きることとは他の生きものの命を食らうこと。
自然界の掟ではそうしないと生きていけないのです。。。それが摂理。
竜が天に向かって毒煙を吐く最期は復讐というよりも、悲しみのあまり吐いた息が
当の伯爵だけでなく村人をも殺してしまう結果になったのだと、わたしは受け取りました。

生きていく上で出逢う悲しみは周囲を巻き込み、無関係なものたちまで死に至らしめて
しまう。この上なく理不尽。けれども、それを承知で生きることが人生なのです。


(つづきます)

42 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:39:34

訳者あとがきで、ブッツァーティーはカフカとよく比較されることを知りました。
ブッツァーティーは「自分の小説は人生を描いたものである」と主張したそうですね。
わたしは、カフカの小説は読んだ後、苛立ちと怒りの感情にとらわれることが
しばしばです。内容が難解という以前に、時間が遅々として進まない、
停滞したかのようなもどかしさで焦燥感ゆえに気力が消耗してしまうのです。
ブッツァーティーの小説は人生の断片が描かれ、寂寥感と静謐な悲しみが全編に
漂い、読後は人生の悲哀に思いを馳せ、深い余韻をわたしにもたらすのです。
《時間》というものを軸に据えるならば、カフカの作品は時が停滞しており、
ブッツァーティーの作品は人生、すなわち生から死へと確実に時間が流れているのです。
共通点をあえて挙げるとすれば、両者とも小説を寓意的に表現したことでしょうか。
また、不条理という観点から見れば、カフカの描く不条理は《法に縛られた世の中》
であり、ブッツァーティーの描く不条理は《人生》そのものに目が向けられています。

人生とは旅でありますが、ブッツァーティーの小説には旅に出る人物が多いですね。
『七人の使者』、『急行列車』、『道路開通式』、そして『タタール人の砂漠』。
人はなぜ旅に出るのでしょう? 未知の国へのあこがれ、新しい人たちとの出逢い、
未体験な出来事への渇望、、、理由はさまざまでしょうが、一番の理由は
遙か彼方から自分を呼ぶ大いなる何者かの声に導かれたから。
砂漠に魅せられたアラビアのロレンスや、新大陸を目指して出航したコロンブスも然り。
自分を呼ぶ声をひとたび耳にしたものは、何かに駆り立てられるように旅立っていく。
もはや誰にも彼らを引き止めることはできないのですね。


(つづきます)

43 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:40:08

ところで、ブッツァーティーの小説の、声に導かれるまま旅立った主人公たちは、
なぜ、幾多の挫折を繰り返しながらも、途中で放棄しないのでしょう?
なぜ、止まらない列車に延々とこの先も乗りつづけるのでしょう?
なぜ、永遠に見つけられないものを探す旅を降りないのでしょう?
なぜ、来もしない敵を気の遠くなるような歳月、待ちつづけるのでしょう?

――The answer, my friend, is blowin' in the wind――by Bob Dylan
「友よ、答えは風の中に舞っている 〜byボブ・ディラン」

(前に野島伸司さん脚本の「愛という名のもとに」というビデオをレンタルしたら
ボブ・ディランの「風に吹かれて」の詩のワン・フレーズが引用されていました。)
♪Blowin' in the Wind♪ by Bob Dylan (本人) ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-6gI9YS6avA

♪Blowin' in the Wind♪ by Peter Paul And Maryのカバーバージョン ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ku4oZjg0rz4

ちなみにわたしの答えは、彼らが旅を放棄しないのは、それが使命だから。
それも決して強いられたものではなく、自らの自由意志で選び取った使命。
そう、彼らを導き招く声とは人生における、その人の使命を表すのです。


――それでは。

44 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 22:21:20

☆☆おまけ☆☆


〜Blowin' in the Wind〜 by Bob Dylan

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
How many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

How many years can a mountain exist
Before it's washed to the sea?
How many years can some people exist
Before they're allowed to be free?
How many times can a man turn his head,
And pretend that he just doesn't see?

45 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 22:21:57

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

How many times must a man look up
Before he can see the sky?
How many ears must one man have
Before he can hear people cry?
How many deaths will it take till he knows
That too many people have died

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

46 : ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 22:22:38

「風に吹かれて」 (訳詩) by Paul Kim

どれだけ多くの道を歩めば 人は人として認められるのだろう?
どれだけ多くの海の上を泳げば 白い鳩は浜の上で休めるのだろう?
どれだけ多くの鉄砲玉が飛んだら それらが禁止されるのだろう?
友よ、答えは吹いている風の中に 答えは風の中に舞っている

山は海に流されるまで 何年存在できるのだろう?
ある人々が自由を許されるまで 何年かかるのだろう?
人はどれぐらい顔を背けて 知らない振りをするのだろう?
友よ、答えは吹いている風の中に 答えは風の中に舞っている

どれだけたくさん空を見上げれば 人には空が見えるのだろう?
どれだけ多くの耳を持てば 人々の泣き声が聞こえるのだろう?
どれだけ多くの死者が出れば 多すぎる人々が死んでしまったことが
分かるのだろう?
友よ、答えは吹いている風の中に 答えは風の中に舞っている

47 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/01(月) 09:23:14
SXYさん、OTOさん、ROMされている皆さま、
あけましておめでとうございます
今年もこのスレをよろしくお願いします♪

猪年ということで折り句を意識して詠みました

「い」く久しきとしつき
「野」に山にさすらへる
「し」づかなる森陰にわれは見たり
「使」者七人ありてわれを待てり
われはふたたび旅立む
暁の星に送られて

48 :(OTO):2007/01/05(金) 13:57:05
ふたりともあけましておめでとう!今年もよろしく!
最近はふたりの感想読んでるだけで、だいぶ読んだ気になってるんだがww

生誕100年の去年にベケットの感想を交わせなかったのはちょっと心残りだなw
今は「エクリチュールと差異」の下を読んでて(上は何年か前に読了)、
今年はちょっとアルトーを読んでみようかなと思ってる。
「ヘリオガバルス」と「ゴッホ」は読んだ。
あと吉増について少し書きたいな。吉増のトランス発動機序について、
少し書けそうな気がしてきた。「詩をポケットに」まで読了。

今年も仲良くしてねww


49 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/07(日) 01:38:26
>>47
ブッツァーティがらみの折り句とはまた乙で!
 いつもながらの、
 野に咲く花のような、
 静かで力強い、
 シリウスの輝き

>>48
去年はベケット、今年はブランショが生誕100年だね。
ベケット、アルトー、吉増。いずれも興味津々。
ベケットについては機会があれば何か書いてみたいナ。

ベンヤミン『写真小史』、ソンタグ『写真論』、 バルト『明るい部屋』、
最近読めたのはこれだけだけど、『明るい部屋』は写真論でありながら
自伝的小説のテイストが融合されてて、結構楽しめました。

昨年から書き残していることは多々あるのだけれど、
それはまたの機会ということにして、
とりあえず今年もよろしく。

50 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:00:53

>>48
(OTO)さん

>生誕100年の去年にベケットの感想を交わせなかったのはちょっと心残りだなw
これはね、わたしの明らかな怠慢ゆえです・・・
何かね、ベケットって読もうと力むと逃げ水のようにすっと遠くに行ってしまう、、、
戯曲がちょっと苦手ということもあるのですが、こちらのこころを読まれているなあ、
という感じ。本は読んでほしい人を選んでいます。侮れない、、、

>今は「エクリチュールと差異」の下を読んでて
デリダですね! デリダは哲学にも文学にも造詣が深く、どちらにも精通して
いますよね。わたしは入門書レベルなのですが。。。

>今年はちょっとアルトーを読んでみようかなと思ってる。
>「ヘリオガバルス」と「ゴッホ」は読んだ。
あちらのスレでもご紹介がありましたね。早速、「ヘリオガバルス」をリクエスト
しましたよ♪

>あと吉増について少し書きたいな。
楽しみにしています♪ 詩に対して(OTO)さんはかなり入れ込んでますよね!
詩的で簡潔な文章からも並々ならぬ熱意が伺えます。
今年もよろしくお願いします♪

51 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:02:03

>>49
SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>ブッツァーティがらみの折り句とはまた乙で!
いえいえ、わたしの名前を入れて詠まれたSXYさんの折り句もかなり
みごとですよ♪ ありがとうです♪ うれしいデス♪

>ベケットについては機会があれば何か書いてみたいナ。
おふたりともすでにベケットを読まれておいでなのですね!
今年は、わたしも心機一転して取り組んでみようかな…、と思います。
とりあえず新年の第一冊目は「ヘリオガバルス」にしましたので、
ベケットは追い追いゆっくりと読んでいけたらいいかなあ、と。

>『明るい部屋』は写真論でありながら
>自伝的小説のテイストが融合されてて、結構楽しめました。
小説ならばわたしにも読めそうな気がしますね。
自伝的な要素が盛り込まれているといっても、完全な私小説とは異なり、
論文+小説のような感じなのでしょうかね??

今年もよろしくお願いします。
以下、ブッツァーティ短編集『石の幻影』の感想文です。

52 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:02:42

ブッツァーティ短編集『石の幻影』読了しました。

この短編集の表題にもなっている『石の幻影』はSF仕立ての作品です。
頭脳は亡き妻ラウーラそっくりに、身体は石でつくられた人造人間。
そして、彼女をつくった狂った科学者の悲劇です。
「第一号」と呼ばれる彼女は生身の肉体を持ちません。彼女の身体は崖の上に
そそり立つ石でできています。深い崖の地中には電気コードなどがびっしりと
埋め込まれています。人間の言語を話すことはなく、音声を記号化したグラフで
コミュニケーションします。
「第一号」は自分の性別を知りませんでした。ところがある日、美貌の女科学者が
自慢の肉体を誇示し彼女を挑発するのです。
そして初めて「第一号」は自分がかつて人間であり、女であったことを思い出す
のです。かつて自分がどれほど美しかったかを、跪かせた幾多の男たちの自分に
乞う熱いまなざしを。。。
それが、今や自分は肉体を持たず、城壁に縛りつけられ逃れられない。
「わたしの元の身体を返して!」彼女の怒りと嘆きは無関係の同性の女性に
向けられ、最後には破壊されてしまいます……。


(つづきます)

53 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:03:39

亡き妻への狂信的な愛がもたらした悲劇。
この短編を読んで真っ先に想起したのは「新世紀エヴァンゲリオン」でした。
あのアニメはいわゆる「オタク」と呼ばれ、気持ち悪がられ疎まれ、他者とまともに
コミュニケーションできない少年シンジの内面の葛藤と成長の物語としてとらえる
のが一般的なようですね。
わたしはオタク少年の物語云々よりも、シンジの父・碇博士の亡き妻への狂った
愛の悲劇のほうに興味がありました。
碇博士の妻・唯は、迫り来る敵・使途から人類を護る人造人間エヴァンゲリオンを
つくるために、生きたまま自らの命を実験台として捧げました。
碇博士は唯の意志を継ぎ次々とエヴァを完成させていきます。
彼がエヴァをつくるのは、表向きは人類補完計画のため、けれども本心はエヴァを
つくることで亡き妻・唯を蘇らせたかったというごく私的な理由のほうが強かった
ように思えるのです。そのためには手段を選びません。
本音と建前の使い分けの巧みさは愛に狂い「第一号」をつくったこの科学者そっくり
です。。。

碇博士は同僚の女性科学者の自分への一方的な愛を利用し、エヴァが完成したら
捨てました。彼女の娘もまた同様に…。


(つづきます)

54 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:04:22

『石の幻影』で「第一号」に呼びかける科学者は碇博士そのものです。
科学者には再婚した新しい妻もいるのに、未だこころから愛しているのは
亡くなった妻だけ。それも生前散々浮気をし、彼を苦しめた妻を。。。

けれども、これはたんなるSF小説にととまらず、人生を描く名手ブッツァーティの
鋭い洞察力に裏打ちされた深い真理の言葉が随所に光るのです。

――でも人間というものは、自分自身の心を悩ますように運命づけられています。
慰めというものは、すぐ手の届くところにあるものだということが、人間には
わからないのです。いつも新たな不安を自分から作ろうとしているのです――

人は何かひとつ困難を克服して安堵の思いに浸るや否や、次の瞬間にはもう新しい
心配事を自ら見つけてまたあれこれ思い悩むものですね。
これでいい、もう充分満足だという境地にはなかなか達しないようです……。
つまり人間の欲望というものは快楽を際限なく求めつづけるのみならず、
困難をも際限なく求めつづけて止まないということでもあるのです。
現状に充足しきれない生きもの、それが人間。


(つづきます)

55 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:03:33

――人生というものは、私たちにとって一番幸福な時でさえ、もしも自殺や
自己破壊の可能性が失われたら、たちまち耐えがたいものになるだろうと
いうことです。(略)恐ろしい牢獄です。私たちは狂人になるに違いありません――

機械は燃料がなくなれば動きませんが、補充すれば動きます。
けれども、機械は自らを破壊することはできません。意志を持っていないからです。
人間に与えられた自由意志の最たるものは「自らの命を滅ぼす自由」であると
ブッツァーティは述べています。
非常に危険な言葉でありますが真理ですね。
逆説的ですが、人はいざとなったらいつでも自殺できる可能性があるからこそ、
何とかつらい日々を耐えられる、正気を理性を保っていられるということですね。
「死」はすべての生きものに等しく与えられた最後の恩寵であるのです。

別板でOTOさんと『葉隠れ』について少し語ったのですが、あの有名な一節、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、毎朝目覚めたら自分の死に様を黙想し、
黙想のなかで一度死んでから一日を始めよ、死をつねに意識せよ、という
ことです。腹を括って死に臨む姿勢で生きよ、そうすれば怖いものは何もない。
わたしは『葉隠れ』にブッツァーティの人生観にも似た深いものを見るのです。


(つづきます)

56 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:04:19

同じ短編集に所収されていた『海獣コロンブレ』は、宿命の海獣コロンブレから
逃げようとして逃げられず、彼と対峙するために海に出て行く男の物語です。
子供のときに船乗りたちから恐れられているコロンブレと呼ばれる鮫を見て以来
彼は水夫になることをあきらめ、陸での生活を選びます。
事業で成功し豊かな日々を送る彼はふと思いついて海の見えるところにいくと
コロンブレが沖の方で彼を監視するかのように見ている。
いつどこの海に行っても必ずコロンブレは彼を監視しています。
ついに彼は意を決して海に出て行きます。そしてコロンブレとの一騎打ち。
「俺はただ海の王からお前に渡すようにとこの真珠を預かってきただけだ」。
二ヶ月後座礁した舟には白骨化した死骸があり、その手には小さな丸い小石が…。

ひとたび、運命=コロンブレに魅入られた男は抗っても抗っても逃れることは
できませんでした。しかも、コロンブレの姿は他の人間には見えない。彼にしか
見えないのです。人は無意識のうちに自分の運命の綱を握る主を探し求めて
いるのかもしれません……。
そしてひとたび探し当てた以上、自分の運命は自分しか生きることができない。
他の誰かが代わりに自分の運命を生きることはできないのですね。
運命という予測不可能なもの、人智を超えた大いなるものに対して人は抗うことは
できないということでしょうか。
短い寓話ながらもブッツァーティの本領が発揮された一編です。


――それでは。

57 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:04:58

(追 記)

『石の幻影』の、機械「第一号」に作り変えられたラウーラの嘆きと悲しみに、
ふと映画「イノセンス」のエンディングに流れていた伊藤君子の<Follow Me>を
思い出しました。……痛切で深い悲しみの漂う印象に残る曲です。
(奇しくも「イノセンス〜攻殻機動隊〜」のメンバーの数人は、こころ・魂は人間、
身体は全身サイボーグで出来ています。「第一号」ラウーラとどこか重なりますが、
決定的な違いは攻殻のメンバーは自らの意志で機械の身体を選んだことかな……)

「攻殻」の素子、バトーの映像もお楽しみ下さい。(OTO)さんなら分かりますよね♪

♪<Follow Me>♪
http://www.youtube.com/watch?v=kcqkiGLqn7o

58 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:05:43

<Follow Me> (Lyric: Herbert Kretzmer/Hal Shapey)


Follow me to a land across the shining sea
Waiting beyond the world that we have known
Beyond the world the dream could be
And the joy we have tasted

Follow me along the road that only love can see
Rising above the fun years of the night
Into the light beyond the tears
And all the years we have wasted

Follow me to a distant land this mountain high
Where all the music that we always kept inside will fill the sky
Singing in the silent swerve a heart is free
While the world goes on turning and turning
Turning and falling

Follow me to a distant land this mountain high
Where all the music that we always kept inside will fill the sky
Singing in the silent swerve a heart is free
While the world goes on turning and turning
Turning and falling

Follow me...
Follow me...


59 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:06:26

【訳詞】 <Follow Me> (※翻訳サイトを使ってみましたよ)


私についてきて あなたの知っている世界を超えて
輝きながら待っている海を渡って 夢のように 世界を越えて
私についてきて 私たちが味わった喜び、愛だけが
楽しい夜の数年を克服する道に沿うでしょう

私についてきて 涙の向こうの光へ 私たちが浪費したすべての年月
離れた土地へ この山へ
私たちの変わらぬ音楽 暗黙の曲がり角で自由なこころで歌う
満天の高い空を仰いで 世界は回り続ける

私についてきて 離れた土地へ この山へ 私たちが回転して落ちても
私たちの変わらぬ音楽 暗黙の曲がり角で自由なこころで歌う
満天の高い空を仰いで 世界は回り続ける
世界が回りながら落ちても
私についてきて…
私についてきて…

60 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/10(水) 21:57:44

☆☆緊急連絡☆☆

OTOさん、%さん、あちらのスレが472 KB でいきなり落ちてしまいました。。。
500 KBには達してなかったし、対話も今日の午後まで続いていたのに・・・
削除依頼が出されたのかなあ? とり急ぎ下記にいます。

http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1102188602/l50

61 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/11(木) 01:40:44
すみません
早とちりでした・・・
板が移転したため落ちたのだと勘違いしました。
復帰したようです。ふたたびあちらにカキコをつづけます。
尚、↑のリンクはあちらの次スレの対話の候補です。


62 :SXY ◆y/JZLW1j6M :2007/01/12(金) 02:07:33
ブッツァーティについてはいずれ考えをまとめてみますね。
しかし翻訳はもうほとんど読んでしまったんですね!

>論文+小説のような感じなのでしょうかね??
ロラン・バルト『明るい部屋』についてですが、
ちょっと曖昧な表現をしてしまったので補足です。
この本はあくまで写真論、写真についての批評で、
特に前半の第1部では記号学者バルトらしい語り口です。
ところが、後半の第2部に入ると、がらっと変わります。
バルトは亡き母の写真(少女時代の写真)を持ち出し、
それを中心に写真について語ってゆくのですが、
もう母への愛に満ち溢れた文章で(マザコン?)、
自伝的というか私小説的というかロマネスクというか、
リリカルにも感じられる甘く美しい作品になってます。
ややその甘さが舌に残る感じもありますが。

新板になったようのでトリップ変えてみました。

63 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/12(金) 02:18:24
アルトーも一時期読んだんだけど
これは語るのがとても難しい作家。
書き込みをROMすることになりそう。

ベケットで未読の小説は2作品ほど。
OTO氏はどのあたりを読んでるのだろう?
短いテクストなら再読したいな。 〆

64 :(OTO):2007/01/12(金) 13:51:11
>>50
>何かね、ベケットって読もうと力むと逃げ水のようにすっと遠くに行ってしまう、、、
>戯曲がちょっと苦手ということもあるのですが、こちらのこころを読まれているなあ、
>という感じ。本は読んでほしい人を選んでいます。侮れない、、、

そういうのはある。出会いだからな。別に怠慢とは思わないよww
「エクリチュールと差異」下のバタイユ論というか「バタイユのヘーゲル批判」論は痛快だ。
友だちに「デリダ読みながら吹き出すなよw」と言われたww

>>52
ブッツァーティは面白そうだなw
アニメを関連させた感想も読んでて楽しいww

>>63
書肆山田のは全部読んでるな。
「見ちがい言いちがい」「伴侶」「また終わるた めに」「いざ最悪の方 へ」
あとは「名づけえぬもの」「ワット」「モロイ」、
「マーフィー」も読んだっけかな?ちょっといま手元になくてあやふやww


65 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/13(土) 21:43:53
>>36-43
ブッツァーティについて

>わたしは各階とは人生におけるその人の年齢の象徴だと思えました。
なるほど。面白い視点だなあ。
『七階』はカフカ的な不気味な幻想作品として読んでいたけれど、
そういう視点で読むと、時の流れに抗えない人生を象徴化したもの、
という教訓的なテイストも感じられそう。

>『七人の使者』、『急行列車』。まさに人生そのものを描いた作品。
>その使者が戻ってくる間隔が次第に遠くなる。
>国境はいつまで経っても見えない……。
『七人の使者』の到達できない国境――。
ここでもカフカを引き合いに出すならば、
測量士Kが行けども行けども辿り着けない、
あの「城」が思い起こされるけれども、
両者のポイントの置き方はここでもちょっと違う。
カフカの場合は主人公の彷徨に焦点があったけれど、
ブッツァーティの場合は「到達不可能な構図」そのものが、
読後感として浮かび上がってくる感じ。』

ブッツァーティーとカフカ。
Cucさんが>>42でも書いているように
「両者とも小説を寓意的に表現したこと」
に共通点がありながらも、
確かにちょっとパースペクティヴが違うね。
>また、不条理という観点から見れば、カフカの描く不条理は《法に縛られた世の中》
>であり、ブッツァーティーの描く不条理は《人生》そのものに目が向けられています。
カフカの寓意は抽象的なものだけど、
ブッツァーティは現実的なところにつながってゆくね。

66 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/13(土) 21:58:38
>>52-56
>想起したのは「新世紀エヴァンゲリオン」でした。
『石の幻影』はSF風な作品だけれども
チャペック『ロボット』やリラダン『未来のイヴ』ではなく
エヴァンゲリオンを出してくるとは!

>運命という予測不可能なもの、人智を超えた大いなるものに対して
>人は抗うことはできないということでしょうか。
>短い寓話ながらもブッツァーティの本領が発揮された一編です。
『海獣コロンブレ』はブッツァーティらしさ全開だよね。


ようやく『ある愛』を読み始めましたヨ。
ちょっとびっくりした。
これまでの幻想的で寓話的な作風は消し飛んで、
ブッツァーティらしからぬリアリスティックな作品!
しかもテーマが娼婦との愛=性。舞台はミラノという都会。
うーん、これは予想してなかったナ。

67 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/13(土) 22:18:58
>>48
>今年はちょっとアルトーを読んでみようかなと思ってる。
>「ヘリオガバルス」と「ゴッホ」は読んだ。
そういえば2月に『アルトー後期集成』が出るんだっけ。
その時期に久しぶりに読んでみようかな。
「アルトー・ル・モモ」がちょっと楽しみ。
白水社の5冊のコレクションとのダブリが心配だけど。

>吉増のトランス発動機序について、
とても興味アルアル。ぜひ書いてほしいナ。
吉増のトランスとアルトーのとは異質かもしれないけれど
何かヒントが出てくるかもしれないし。

>>64
>書肆山田のは全部読んでるな。
じゃあ、「また終わるために」を毛馬内のあとにでも読み返してみよっと。
書肆山田の本の装丁はシンプルでかっこいいね。
そういえばベケットとブッツァーティとは同じ1906年生れ。
ブッツァーティに影響を受けたと思われるクッツェーは
若い頃にベケットを研究してたらしい。

そういえば、クッツェー『夷狄を待ちながら』には、
ブッツァーティの『タタール人の砂漠』と『ある愛』を
ひとつに合体させたようなテイストがあるような。 〆

68 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:48:32

>>62
SXYさん

>しかし翻訳はもうほとんど読んでしまったんですね!
ブッツァーティ、とても好きです。わたしのお気に入りの作家となりました。
ところで、前にブッツァーティと並ぶイタリアの作家、カルヴィーノの名前を
挙げていらしたのですが、カルヴィーノで何かお薦めはありますでしょうか?
読んでみたくなりました。

>バルトは亡き母の写真(少女時代の写真)を持ち出し、
>リリカルにも感じられる甘く美しい作品になってます。
ロマネスクかあ、モネの絵に描かれた白いドレスの貴婦人のようなイメージ?

>>63
>アルトーも一時期読んだんだけどこれは語るのがとても難しい作家。
確かに…。今「ヘリオガバルス」を読んでいるのですが、宗教論、神話論が
先ずあって、次に歴史物語(?)としてヘリオガバルスの出生、戴冠、そして死が
語られていくのですが、普通の物語のようにすらすらとは読めないのですよ。
ローマの歴史、それに関して作者の歴史観が語られていて、なかなかスムーズ
には進まない・・・・・

69 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:49:39

>>65

>カフカの場合は主人公の彷徨に焦点があったけれど、ブッツァーティの場合は
>「到達不可能な構図」そのものが、読後感として浮かび上がってくる感じ。
そうですね。両者とも到達不可能という結果だけ見ると同じでも、作家の視点は
まったく異なっていますよね。
カフカの作品は主人公がいきなりわけもわからず彷徨する設定ですが、
ブッツァーティの作品はちゃんと始まりがあります。起承転結がきっちりしている。
物語の深みという点から見たら、やはりブッツァーティのほうが人生を描く作家
だけあって生真面目さやずっしりとした重みを感じさせます。

>>66
>チャペック『ロボット』やリラダン『未来のイヴ』ではなく
>エヴァンゲリオンを出してくるとは!
上記の2作品、未読です。面白そうな感じですね。読んでみたいです!
エヴァンゲリオンは、昨年見たばかりなので記憶に残っていたのですよ〜。
碇博士がつくった、亡き妻・唯にそっくりな綾波レイを初めて見たとき、ピンとくる
ものがありました。碇博士は綾波レイの向うにいつも唯を見ていたのですね…。
彼の愛を純愛と見るか狂気の愛と見るか、意見が分かれるところでしょう。

70 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:51:42

>ようやく『ある愛』を読み始めましたヨ。ちょっとびっくりした。
驕慢な少女娼婦ライーデと、彼女に執着するアントニオの狂いようは
凄まじいものがありますよね・・・
今までの幻想的な作家のイメージは見事に吹っ飛んで、生々しく息苦しい
愛が克明に綴られています。

運命の女・ファムファタル「ライーデ」の名前は、男を迷わせ、裏切り、破滅させる
女の代名詞ともいえる、旧約聖書のサムソンとデリラの「デリラ」を捩っているのかな
と思いました……。
恋人に裏切られ正気を失った男の歌、ということでトム・ジョーンズの
題名もずばりそのものの「デライラ」をどうぞ♪
(感想文はもっとあとでupする予定です)

【動画】 Tom Jones - <Delilah>
http://www.youtube.com/watch?v=F0yCGcCwdYc
http://www.youtube.com/watch?v=lUN2bcDL8MI

原詩  <Delilah>
http://www.lyricsfreak.com/t/tom+jones/delilah_20138361.html

71 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:52:43

原詩  <Delilah>

I saw the light on the night that I passed by her window
I saw the flickering shadows of love on her blind
She was my woman
As she deceived me I watched and went out of my mind
My, my, my, delilah
Why, why, why, delilah
I could see that girl was no good for me
But I was lost like a slave that no man could free
At break of day when that man drove away, I was waiting
I cross the street to her house and she opened the door
She stood there laughing
I felt the knife in my hand and she laughed no more
My, my, my delilah
Why, why, why delilah
So before they come to break down the door
Forgive me delilah I just couldnt take any more

She stood there laughing
I felt the knife in my hand and she laughed no more
My, my, my, delilah
Why, why, why, delilah
So before they come to break down the door
Forgive me delilah I just couldnt take any more
Forgive me delilah I just couldnt take any more

72 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:53:29

【訳詩】  <Delilah>

その夜 窓辺に立つ彼女の姿を見た
窓に立つ人影 それは私の恋人だった
彼女は私を騙していたのだ 私は正気を失った
私の 私の 私のデライラ
どうして? どうして? どうして? デライラ
彼女は私につれなくした
私は彼女をあきらめることができなかった
私は彼女の奴隷だった
夜が明けて彼女の男が車で出かけるのを
私は待っていた
私は彼女の家の通りを横切った
彼女はドアを開けた 立ったまま笑いながら
私は手にしたナイフをふりかざした
彼女はもう二度と笑うことはなかった
私の 私の 私のデライラ
どうして? どうして? どうして? デライラ
ドアを壊す前に すでに私たちの関係も壊れていた
私を許してデライラ これ以上私を苦しめることはない
私を許してデライラ これ以上私を苦しめることはない

73 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 22:21:44

>>64

(OTO)さん

>そういうのはある。出会いだからな。別に怠慢とは思わないよww
ありがとうです。安心しました♪
とりあえず、おふたりとも読まれた「また終わるために」を読んでみようかと
思います。

>友だちに「デリダ読みながら吹き出すなよw」と言われたww
えっ! なに、なに、なに?
そんなに面白いのですか? 下巻だけならわたしにも読めそうですか?

>ブッツァーティは面白そうだなw アニメを関連させた感想も読んでて楽しいww
エヴァンゲリオンも攻殻もOTOさんの影響で見たのですよね〜♪
おかげで「石の幻影」を読みながら、2作品を思い出し再び堪能しましたよ。
ああ〜、碇博士の唯への愛がここにも書かれている、って。
それにしても、男性のほうがロマンティストですよね♪ 女性は薄情…?

>書肆山田のは全部読んでるな。
す、すごい、、、! (思わずしゅごいしゅごい、と書きそうになりましたよ…)

74 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/16(火) 01:54:30
>>68
>ブッツァーティ、わたしのお気に入りの作家となりました。
それは良かった! 単に名前を挙げただけだけれど、
Cucさんの気に入る作家が増えるのはうれしいな。
クロード・シモンを気に入ってもらえた時もうれしかった。

>カルヴィーノで何かお薦めはありますでしょうか?
カルヴィーノはブッツァーティとはまた違った魅力があり、
作品の幅も結構広く、多彩なテイストがあるんだけど、
もし一作選ぶとすれば、うーん、そうだなー、
『冬の夜ひとりの旅人が』かな。
この作品自体、様々な作家の文体を取り入れたもので、
一冊で何冊分ものカラーをプリズム光線で輝かせてる。
なんと出だしは、「あなたはいまイタロ・カルヴィーノの
新しい小説を読み始めようとしている」というもの!
いわゆる自らを語るというメタフィクションでもあり、
読者もまた登場させられているという奇書でもあって、
「読むこと」をテーマにした小説といえるでしょうかね。

75 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/16(火) 01:58:45
>>69
チャペック『ロボット』。ロボットという言葉は、
このカレル・チャペックの作品から生まれたんです。
チェコでは国民的な作家として愛されていました。
といっても当方は未読の作品も多々ありますが。

リラダン『未来のイヴ』。これはいわゆる人造人間もので、
フランスの幻想作家ならではのダンディズムが濃厚な作品。

>>70
>凄まじいものがありますよね・・・
たしかに! 『ある愛』はたぶんもうすぐ読了するでしょう。
結構引き込まれるようにして頁をめくってましたが、
こういう作品も書けるのか!と感心してしまった。
ディーノ、あなたはなんという奥深さを秘めてのか。。。

>「デリラ」を捩っているのかなと思いました……。
ああ、なるほど! 鋭い指摘です。
そういわれるまで気づかなかった。
<Delilah> の歌詞が見事にはまっちゃうね。

『ある愛』については今週末には何か書いてみますヨ。〆

76 :(OTO):2007/01/19(金) 13:48:16
「未来のイヴ」はタイトルは知っていたが、押井アニメ「イノセント」冒頭の

我々の神々も我々の希望も、もはやただ科学的な
ものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であって
いけないいわれがありましょうか

という引用を見て、読んでみたいと思ったな。まだ読んでないが。
カルヴィーノはSFのアンソロジーで幾つか読んだことがある。
どれも、とても面白かった記憶。
チャペックも未読だが「山椒魚戦争」というのも彼だよね。
ここらへんはSFの歴史を調べたときに出会った名前だ。
東欧と言えばストルガッキー兄弟もいるな。
未読だがソクーロフ「日陽はしづかに発酵し…」の原作者だね。

>>73
>えっ! なに、なに、なに?
>そんなに面白いのですか? 下巻だけならわたしにも読めそうですか?

下、全部読んだら、簡単な感想書いて見るよ。それ見て判断すればいいww


77 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/19(金) 23:40:09
>>76
アニメにもリラダンが引用されたりするんだね。

>カルヴィーノはSFのアンソロジーで幾つか読んだことがある。
『レ・コスミコミケ』か『柔かい月』所収の短篇だろうね。
この2冊はファンタジックなSF短編集で奇抜な発想が秀逸。

>チャペックも未読だが「山椒魚戦争」というのも彼だよね。
『石の幻影』のブッツァーティ、『レ・コスミコミケ』のカルヴィーノ、
『未来のイヴ』のリラダン、『山椒魚戦争』のチャペック、
そして、ストルガツキー兄弟と名前が挙がってくれば、
ここでどうしてもサムライSFイラストレーション物語の
『KEMANAI』について、今度時間のあるときに
ちょっと触れてみないわけにはいかないだろうね(微笑

78 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/19(金) 23:59:51
ソクーロフはストルガツキーの作品を映画化してたんだね。
タルコフスキーが映画化した「ストーカー」は有名だけど。

東欧・ロシアの作家の中で、レムの作品が筆頭に挙げられるけれど、
幻想小説やSF小説に優れたユニークな作品が多い印象があるなぁ。

>>73
A L R T !  警 告 !  w a r n i n g !
>>友だちに「デリダ読みながら吹き出すなよw」と言われたww
>えっ! なに、なに、なに? そんなに面白いのですか?
「デリダ読みながら吹き出す」人間は珍しいからね(微笑
OTO氏の笑いのツボはあまりあてにしないほうが。。。

79 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/20(土) 00:22:09
ディーノ・ブッツァーティの『ある愛』を読了したよ。

パヴェーゼ、モラヴィア、カルヴィーノらと並ぶほど
ブッツァーティはイタリアではよく知られた作家ながら、
日本ではまだまだ馴染みが薄いといえそう。
いくつかの邦訳はあるものの、文庫がないしね。
河出文庫にでも何冊か入ると状況が違ってくると思うし、
しばらくご無沙汰になってる翻訳にもチャンスが来ると思う。

ミラノを舞台にしたブッツァーティ『ある愛』は、
アントニオ・ドリーゴとマダム・エルメリーナの
電話でのやり取りから始まる。

マダム・エルメリーナは娼家の女主人で、
ドリーゴはそこに通うさえない独身の50近い男。
おそらくこれまで女に愛された経験も乏しい奴。
ドリーゴはエルメリーナの家でライーデという女に出会う。
ライーデを見た瞬間、ドリーゴにある過去の記憶が蘇る。
――それはかつて場末の街路で見かけ、後をつけたある少女に、
ライーデはとてもよく似ていたのだ。。。

80 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/20(土) 00:28:44
(承前)

ドリーゴは身もかえりみずにライーデに恋心を抱くが、
所詮ライーデは2万リラさえ払えば誰にでも体を売るコールガール。
ライーデにとって売春は、楽しめる仕事、金になる遊び。
たとえ相手が50近い男であっても割り切って身をゆだねられる。

一方、ドリーゴにとっては、ライーデは女神であり天使。
ライーデのような美しい女を抱くことは夢のような出来事。
ドリーゴとライーデのなんたる悲劇的なギャップ。

しかもドリーゴは肉体的にライーデを所有した次に
精神的にも所有したいと望む。かわいそうな男だ。
つれないライーデに対してドリーゴの妄想は膨らむ。。。

時折文章は句読点が省略されて一文が延々と続く。
これはドリーゴの妄想が制御不能に全開になるとき。
(この意識の流れは、まるでジョイスかクロード・シモンじゃないか!)

81 :SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/20(土) 00:39:55
(承前)

P162で気になった点が。
ドリーゴがベッドに横たわり天井を見つめるシーン。
――「何時間も天井にあるふたつの奇妙なくらいそっくりな
7の字型の漆喰の割れ目を凝視していた。」――

この7の字型の割れ目はP190とP244でも出てきて
ブッツァーティが何かを象徴させている気配ぷんぷん。

作品内では、7の字型の割れ目にドリーゴは
「苦悩と妄念とを凝縮させていた」とあって、
「彼自身の苦悩を形象化したシンボル」とされている。
彼女を失うことに対する恐れから妄想は広がるばかり。
余談だけど、「妄想」「妄念」の「妄」という字は、
女を亡くす(失くす)と書くね。)

ブッツァーティには「七階」「七人の使者」といった作品もあり、
この《7》という数字には特別な観念を持っている様子。

とりあえず、タイムアウトで今日はここまでにしますね。 〆

82 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:50:51

(OTO)さん

>>76

>押井アニメ「イノセント」冒頭の
冒頭の言葉、すっかり忘れていました・・・・・
神々も希望も愛もすべてが科学的に実現されうる、か。
深い意味を秘めていますね。
例えば愛。自分の愛する人から愛されなくても、その人とそっくりの
人造人間をつくり自分を愛するように脳をプログラミングすればいいわけです。
また、愛する人が亡くなってもそっくりな人間をつくれば悲しみは半減すると
いうわけか、、、
もはや科学の世界において人は、何かに耐えたり悲しんだり苦しんだりする必要が
なくなるのでしょう。
……そうした世界において、文学は読まれないし、新しい文学が生まれることも
ないのでしょうね。哲学も然り。。。
なぜなら文学や哲学は、人生やこの世が不備なところから始まるのですから。
懊悩や葛藤のない人間にそれらは不要ですものね。。。

SF作品、さすがにくわしいですね! 初めて聞く作家、作品名ばかりです。。。

>下、全部読んだら、簡単な感想書いて見るよ。それ見て判断すればいいww
はい。仮に読んだとしても感想が書けるかどうかは未定ですが・・・
でも、デリダには興味があります。
文学と哲学の両方に精通していますからね。
どんなふうに展開させているのでしょうかね。

83 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:51:27

SXY ◆P6NBk0O2yMさん
>>74

>Cucさんの気に入る作家が増えるのはうれしいな。
>クロード・シモンを気に入ってもらえた時もうれしかった。
こちらこそ、毎回いろいろな作家を紹介していただき、ありがとうございます。
わたしはスタンダードな作家くらいしか知らないので、驚きの連続です。
クロード・シモンの奔放な想像力には引き込まれますね。

>『冬の夜ひとりの旅人が』かな。
カルヴィーノも初めてです。今から読むのが楽しみです。

>読者もまた登場させられているという奇書でもあって、
>「読むこと」をテーマにした小説といえるでしょうかね。
作者と読者の両方が参加するのですね! なんかすごそう!

>>75
>チャペック『ロボット』。ロボットという言葉は、
>このカレル・チャペックの作品から生まれたんです。
そうだったのですか! ロボットという言葉の発祥の小説。
アンドロイド、レプリカント、サイボーグ、レイバー、現代ならば
さまざまな呼称がありますが、当時としては斬新なネーミングだったでしょうね。

>ラダン『未来のイヴ』。これはいわゆる人造人間もので、
クローンで生まれたパラサイト・イヴみたいな感じかなあ?

84 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:52:38

>>77-78
>『KEMANAI』について、今度時間のあるときに
>ちょっと触れてみないわけにはいかないだろうね(微笑
折りしもSF作品に話題が向いていますでぴったりのタイミングですね♪
あの作品は究極のサムライ魂を持つ男のロマンを描いた作品ですね。
ケマナイという男はもともと無口で寡黙なキャラクターですが、物語のなかでも
あえてせりふは極力抑えてありますので、読者はケマナイのこころのなかを
あれこれ想像するしかないのですが、それがまた楽しいんですよね〜♪
武器は日本刀一本だけ。信じるのは己の正義。男は黙ってサッポロビールと言い
そうなタイプなのに、ストローでオレンジジュース(レモンジュース?)を黙々と飲む。
このギャップがたまらなくいいんですよね〜♪ 今度また語りませうね♪♪♪

>A L R T !  警 告 !  w a r n i n g !
くすくす、これって『KEMANAI』からの引用ですよね〜♪
了解ですよん♪

>「デリダ読みながら吹き出す」人間は珍しいからね(微笑
>OTO氏の笑いのツボはあまりあてにしないほうが。。。
ううむ・・・、そうでしたか。
まあ、とりあえず今のところ、感想待ちですねえ。。。

85 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:53:18

>>79-81
わたしの感想は9レスほど用意してありますが、今日はSXYさんの感想に
レスのみをつけたいと思います。ゆっくり行きましょうかね。
本当にブッツァーティには驚かされましたね。
深い人生観に富んだ寓話が主流だと思っていましたが、不毛な恋愛の
狂気に陥った人間の執念深さと醜悪さをこれでもかと叩きつけてきます。
全編に亘る濃密な描写にひたすら圧倒されました。。。

>――それはかつて場末の街路で見かけ、後をつけたある少女に、
>ライーデはとてもよく似ていたのだ。。。
ライーデを過去に見たかもしれないという記憶の再生は、いかにも不穏な運命の
幕開け、ライーデにアァムファタル(運命の女)としての神秘を纏わせた登場の
させ方としてはうまいですよね。アントニオは一瞬で神秘的な彼女の虜になりました。
実際のライーデはアントニオが思っているような神秘的な女とはほど遠かった
わけですが。驕慢で身勝手で金に貪欲なただの娼婦にすぎないという。。。

>時折文章は句読点が省略されて一文が延々と続く。
>これはドリーゴの妄想が制御不能に全開になるとき。
>(この意識の流れは、まるでジョイスかクロード・シモンじゃないか!)
だらだらつづく文章はとても読みづらく、訳者が句読点を打たないのは意図的だと
気づいていましたが、手法はまったくクロード・シモンと同じですね!

86 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:54:10

>この7の字型の割れ目はP190とP244でも出てきて
>ブッツァーティが何かを象徴させている気配ぷんぷん。
>「彼自身の苦悩を形象化したシンボル」とされている。
わたしもこの「7」の文字が何を意味するのか疑問でした。
7と聞いて、ふと思い浮かんだのが「七つの大罪」。
中世ヨーロッパのキリスト教において最も悪しき行為とされた七つの行為のことを
言います。傲慢、嫉妬、大食 淫欲、怠惰、貪欲、憤怒の七つ。
大食に関しては贅沢な食事という意味にとれば、ブルジョワのアントニオには
すべての七つの大罪があてはまります。
お金で女を好きなように買う「淫欲」。お金で女のこころまで支配しようとする「傲慢」。
相手が自分の思い通りにならないことへの「嫉妬」、場違いな「憤怒」。
ブルジョワにのみ許された「怠惰」な生活、貪欲なまでの執拗な「執念」。
豪華で飽食ともいえる「大食」。
(ちなみにこの七つの大罪は、そのままライーデにもあてはまります・・・)

>余談だけど、「妄想」「妄念」の「妄」という字は、
>女を亡くす(失くす)と書くね。)
鋭い! どうも女という漢字は「嫉妬」、「怒り」、「姦通」、「姦しい」を初め、
あまり良い意味では使われていないような。古今東西、男を破滅に導くイヴ……。

とりあえず、今日はここまで。


――それでは。

87 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/25(木) 01:28:30
>>84-86
>あえてせりふは極力抑えてありますので、読者はケマナイのこころのなかを
>あれこれ想像するしかないのですが、それがまた楽しいんですよね〜♪
『KEMANAI』はほとんどサイレントムービーみたいな漫画だね。

>男は黙ってサッポロビールと言いそうなタイプなのに、
>ストローでオレンジジュース(レモンジュース?)を黙々と飲む。
そうそう。あのギャップがいいね。
柔らかな線と鋭い線、のコントラストなんかも含めてね。

>わたしの感想は9レスほど用意してありますが、
9レス! これまたすごいなぁ!

>全編に亘る濃密な描写にひたすら圧倒されました。。。
そうだね。気がつくと読み終わっていた感じだったから、
ブッツァーティの筆力に幻惑されたといえるかもしれない。
意外にストーリーテラーだったんだなぁ、と。

>7と聞いて、ふと思い浮かんだのが「七つの大罪」。
鋭い!「七階」「七人の使者」にもどこか通じてるかもね。

>どうも女という漢字は「嫉妬」、「怒り」、「姦通」、「姦しい」を初め、
>あまり良い意味では使われていないような。
確かに。「妨」もネガティブだしね。
ぱっと思いつくポジティブな字は「好」ぐらいかなぁ。

88 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/25(木) 01:37:48
>>81の続きをもう少しだけ。

ドリーゴはライーデから離れようとするけれど
なかなか離れることができない。
それはドリーゴにとってライーデが「宿命の女」だから。

そして、自分の哀れさを頭では理解しているドリーゴが、
それでも自分の感情をコントロールできないのは、
失われた青春を取り戻したいという、止みがたい希求を、
ずっと長年、潜在的に抱き続けてきたから。

いったんは破局を迎えたかに思えたドリーゴとライーデは、
最後には寄りを戻す形になって、
螺旋階段を下へ下へと降りていくようなこの物語の終局は、
意外にも静かな雰囲気を漂わせてるかのよう。
主人公にはハッピーエンドが待っているのだろうか? 
いや、違う。ドリーゴに待っているのは《死》。

実際にドリーゴは死ぬわけではないけれど、
ブッツァーティは《死》を提示してこの物語を締めている。
この《死》の受け止め方は幾通りかあるかもしれない。
罰としての死、愚かさの象徴としての死、放蕩の果てのゴール。

しかしながら、これもまた「ある愛(アモーレ)」の形として
ブッツァーティは提示したとも読むことができそうな気もする。
善悪や可否などの道徳的評価とは次元を異にした宿命の愛。 〆

89 :(OTO):2007/01/26(金) 17:47:11
>>73
>えっ! なに、なに、なに?
>そんなに面白いのですか? 下巻だけならわたしにも読めそうですか?
>>78
>「デリダ読みながら吹き出す」人間は珍しいからね(微笑
>OTO氏の笑いのツボはあまりあてにしないほうが。。。

さて、ちょっと書いたよwwww
「何故おれは吹き出したのか?」


90 :(OTO):2007/01/26(金) 17:49:31
「エクリチュールと差異」第9章「限定経済学から一般経済学へ」
1966年に「アルク」誌バタイユ特集号に初出掲載されたこの論文は、
サルトルのバタイユ批判「新しき神秘家」への圧倒的な反論としての意図があるようだ。

 バタイユの提出する諸概念は、それが置かれている統辞法を無視して個々に把捉し、
 固定化して見れば、すべてこれヘーゲル的概念である。そのことは認めるほかないのだが、
 それですべてが終わると考えてはならない。というのも、こうした一見ヘーゲル的な諸概念に
 バタイユはある震動を与えており、概念そのものにはほとんど手をつけていないが、
 これを新しい布置へと転移せしめ、再記載しているからなのだ。
 したがってこうした震動なり新しい布置なりがもたらす効果を厳密に把捉しきれないままだと、
 やれバタイユはヘーゲル的だ、反ヘーゲルだ、いや、出来の悪いヘーゲル亜流だ、
 などとその場その場で行きあたりばったりな評価が出てくることになるだろう。
 もちろん、いずれもみな間違っている。(162P)

言い切り、であるwwことアルトーとバタイユに対するデリダの感情は「愛」であり、
この二人の「前のめりでアッパーで、ドが付くほどの天然の深さ」に
ほとんどあこがれに似たものさえ感じているのではないだろうか。
おそらくデリダ自身には無い「天啓ともいえるインスピレーション」に対する
憧憬があるのだろう。

91 :(OTO):2007/01/26(金) 17:52:52
 まず《至高性》のことから始めようと思う。一見したところでは「精神現象学」における
 《支配》を翻訳したものかと思われるであろう。《支配》の主要な作用は、ヘーゲルによると、
 「われわれが《現存在》一般の普遍的特性に対してはおろか、いかなる特定《現存在》にも
 縛られていないこと、つまり生に縛りつけられているわけではないのだということを示す」
 ところにある。かかる作用は、帰するところ、自己の生の全体を《危険にさらす(賭ける)》
 であろう。これに対して《奴隷》とは、おのれの生を危険にさらさぬ者、
 生を保持しようと望み、自身保持されてあることを望むものなのだ。生を超えて立ち、
 真向から死を凝視してこそ《支配》に、つまり対自と自由と認知とに至る道が開かれる。
 自由とはしたがって、生を危険にさらしてこそ成るものなのである。
 そして《主人》とは死の苦悩を耐え忍び、死の仕業を支え切る力を有した者を指して言うのだ。
 おそらくバタイユは、ヘーゲル哲学の中核をこのように捉えていたのであろう。
 (一部括弧内表記略)(163P)

しかしデリダはヘーゲルの《支配》とバタイユの《至高性》との間にある差異を指摘する。

 この差異に意味があるとさえも言えないのだ。この差異は意味自体についての差異だからである。
 つまり、意味をある種の非-意味からへだてる唯一の間隔なのだ。(164P)

このポスト構造主義の代表的著作の終わり近くに来て、デリダは哲学そのものを
秤にかけようとしているように見える。意味の認知のため、真理のために生を危険にさらしながらも
それを保持すること、獲得した意味を享受すること。その意味の歴史。
それら一切を意味への隷属という「限定経済学」でしかないものにしてしまう
ひとりの男の存在について、デリダの表現は「詩的」ですらある。

 バタイユの哄笑。生の、つまりは理性の詭計によって、結局のところ、
 生が生きながらえてしまっている。こんなことになったのも、実は、いつのまにか
 すっかり別の《生》概念が導入され、そのままそこにいすわり、理性同様、
 遂に超えられることのないままにあるからだ。(166P)

92 :(OTO):2007/01/26(金) 17:54:31
続く数段の「一労働たる哲学」に対するバタイユの「笑い」についての、
情熱的な論を一気に読みながら、そのあまりの痛快さに私は吹き出した。
そばにいた友人が「おまいデリダ読みながら吹き出すなよw」と言った。

 「詩も笑いも法悦も《体系》においては無なのだ。そうしたものをヘーゲルはさっさと
 厄介払いしてしまう。彼には知以外の目的など考えられないのだ。彼につきまとっている
 あの無際限な疲れは、わたしの見るところ、そうした盲点への恐怖に起因するものである」
 (「内的体験)。笑うべきは意味の明証性に降ること、ある種の命令のもつ力に屈服することだ。
 この命令は言う、意味あれかし。(168P)

そうだ。無だ。徹底的な性的放蕩と泥酔の果てでバタイユが見つめたもの、
そしてその「不可能なもの」を眼前に、常にバタイユは笑っていたはずである。
このデリダの論文は、あるいは「笑い」についての極限的なエクリチュールとも言えはしまいか。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww






93 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/27(土) 18:21:09
>>90-92
興味深く読みましたよ。

>ことアルトーとバタイユに対するデリダの感情は「愛」であり、
>「天啓ともいえるインスピレーション」に対する憧憬があるのだろう。
インスピレーション。インスパイア。スピリットをインすること。
息を吹き込まれること(アルトー論は確かそんな感じの題だったっけ)。
といってもヘーゲルの弁証法的な精神とは異なるスピリット。
バタイユは奇妙な道を通ってインスピレーションへと向かう。
ひと言でいうならば、ヘーゲル的な明晰さと論理性を経由して、
《非−知》の夜における交感、哄笑、陶酔に向かう。
そこがアルトーとは(シュルレアリストとも)大きく違うところで、
デリダのバタイユ論の肝もその点にあるといえるだろうね。

デリダの「愛」をここに見るかどうかは人によるのかもしれないけど、
サルトルのバタイユ論「新しき神秘家」への目配せはあるんだろうね。
デリダによるバタイユは、ヘーゲリアンでも反ヘーゲリアンでもなく、
ヘーゲルの論理性をもちながら、ヘーゲルの体系が解体されるところまで
その論理性を極北まで拡大し、押しやろうとする「留保なきヘーゲリアン」。
相手の内臓に入り込み、その内臓に同化するかのような身振りを見せながら、
その内臓が破裂するところまでいくというこの同化と解体の手法は、
デリダ自身の脱構築のある面を投影したものかもしれない。

>続く数段の「一労働たる哲学」に対するバタイユの「笑い」についての、
>情熱的な論を一気に読みながら、そのあまりの痛快さに私は吹き出した。
バタイユの「笑い」に感染するようにして笑ったわけか!
そしてバタイユの笑いの背後には、ニーチェの哄笑もあるんだろうけど、
彼らは《知》や《体系》や《意味》を求めずに最初から笑ったのではなくて、
《知》や《体系》や《意味》の限界点を見定める地点で笑ったんだろうね。 〆

94 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:39:33

>>489-492
(OTO)さん

「エクリチュールと差異」の感想ありがとうです。

バタイユの「哄笑」について、興味深く読ませていただきました。
わたしはヘーゲルについてはほとんど無知に等しく、唯一知っているのは
ラカン理論を推奨したあの有名な「主人と奴隷」・支配/被支配くらいなのですが、
引用されている箇所はちょうどその「主人と奴隷」にあたるようですね。
とはいえ、「主人と奴隷」の正確な意味を今まで把握していなかったのですが、
今回詳しい引用のおかげで初めてわかりました。

>ヘーゲルによると支配とは生に縛りつけられていないこと、
>《主人》とは死の苦悩を耐え忍び、死の仕業を支え切る力を有した者を指して言う。
>これに対して《奴隷》とは、おのれの生を危険にさらさぬ者、生を保持しようと望み、
>自身保持されてあることを望むもの。
>おそらくバタイユは、ヘーゲル哲学の中核をこのように捉えていたのであろう。
なるほど。つまり、生に対しての挑戦者が《主人》であり、保身をはかるものは《奴隷》
ということですね。バタイユは常に生への挑戦者であり、それゆえに《主人》であると。

95 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:40:15

>「一労働たる哲学」に対するバタイユの「笑い」
>彼には知以外の目的など考えられないのだ
ヘーゲル哲学は「主人と奴隷」という言葉に象徴されるように、彼はすべて「労働」に
還元してしまう。つまり、「経済」に。この辺りマルクス的ともいえるような…?
けれどもバタイユはヘーゲルのあくせくした勤勉な知への労働を笑い飛ばす。
それはもはや労働とは呼べず徒労以外のなのものでもない、と。

>そうだ。無だ。徹底的な性的放蕩と泥酔の果てでバタイユが見つめたもの、
>そしてその「不可能なもの」を眼前に、常にバタイユは笑っていたはずである。
ヘーゲルが意味あれかしとせっせと知に勤しむ姿をバタイユは高みから哄笑する。
「意味なんかないのですよ。私が見ていたのは無なんですよ。
あなたはすべての現象に意味づけしないではいられない。意味づけすることは
知の証明であると考えておられるようだ。その勤勉さには頭が下がりますが、
どうやら大きな勘違いをされておいでのようだ。
人間がこの世でなしうるあらゆる悪事。私のしでかしたあらゆる放蕩、侵犯、
これらはあなたが意味づけした《主人》として生に挑戦したわけじゃあないんです。
ひとことでいえば法悦を味わいたい、究極の快感に浸りたいからですよ。
これだけです。意味などありませんよ。この上さらに意味づけなど必要ですか?」

96 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:41:46

>ことアルトーとバタイユに対するデリダの感情は「愛」であり、
>この二人の「前のめりでアッパーで、ドが付くほどの天然の深さ」に
>ほとんどあこがれに似たものさえ感じているのではないだろうか。
>おそらくデリダ自身には無い「天啓ともいえるインスピレーション」に対する
>憧憬があるのだろう。
デリダは哲学者である一方文学を擁護し、文学にも造詣が深かったようですので、
創作するものに対して人一倍憧憬の念が強かったのかもしれませんね。
巷間よくいわれることですが、文学研究者である文学者や哲学を経由した評論家
たちは読書量や知識にかけては小説家以上です。
膨大な量の本を読み、知識を有している彼らは、けれども自ら何かを編み出すことは
決してできない。無から形あるものを創造することはできない。
すでにできあがったものを前にして初めて研究なり理論展開をする人たちです。
自分より遥かに読書量も知識も劣ると思われる作家が、天啓を受けたかのような
小説を書く。そこに彼らの作家に対する羨望や嫉妬が皆無であるとは言い切れない
ものがありますが、率直に羨望のままに憧憬を抱く学者や評論家がいる一方で
彼らの才能に嫉妬し挙句の果てはこき下ろすという人種もいます。

デリダは、選ばれた人たちに「愛」を抱いたのですね。
さよう、選ばれた人たちは創作を知に還元しようとあくせくと「労働」しない。
いつだって無自覚で能天気だ。天然の彼らだからこそミューズの神は舞い降りる。

97 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:42:22

>>493 SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>バタイユは奇妙な道を通ってインスピレーションへと向かう。
>ひと言でいうならば、ヘーゲル的な明晰さと論理性を経由して、
>《非−知》の夜における交感、哄笑、陶酔に向かう。
そうでしたか!
バタイユは最初から明晰さと論理性を無視したわけではないのですね?
そこを経由し、結果として非論理的なもの、すなわち「神秘なもの」へと
到達したのですね。
「示されうるものは、語られえない」(4-1212)
「言い表しえぬものは存在する。それは神秘である」(6-522)
――ウイトゲンシュタイン「論考」より

バタイユはヘーゲルの論理性には限界があると感じていたのですね。
《非−知》とは知りえないもの、つまり語りえない内的体験。

98 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:42:57

>バタイユの「笑い」に感染するようにして笑ったわけか!
>そしてバタイユの笑いの背後には、ニーチェの哄笑もあるんだろうけど、
>彼らは《知》や《体系》や《意味》を求めずに最初から笑ったのではなくて、
>《知》や《体系》や《意味》の限界点を見定める地点で笑ったんだろうね。

語りえないものについては沈黙しなければならないという哲学の掟を
破ってまでヘーゲルは示されたことに知や意味を求めたのですね。
バタイユはヘーゲルに真摯な態度というよりも、いじましくも《知》に必死に
しがみついて離れない哀れさを見たのでしょうね。
それはあたかも、もう自分の時代がとっくに過ぎたのにまだ自分の威力を
発揮することができると自惚れ、勘違いしている老人に喩えられるような……。
えてしてこうした老人は若者たちの未知なるちからを決して認めようとはしない。
バタイユが苦笑ではなく哄笑したのは、後から来た自分のほうが先に限界点を
見定める地点に到達したという自信と余裕からきているのでしょうか?

99 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:16:20

>>87-88
SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>9レス! これまたすごいなぁ!
そのうち3レスはあらすじですので実質は6レスです♪

>ブッツァーティの筆力に幻惑されたといえるかもしれない。
>意外にストーリーテラーだったんだなぁ、と。
切迫感というのかな、たたみかけるようなタッチには驚きですよね。
今までの作品は人生を俯瞰的な立場で、あくまでも傍観者としての位置を
崩すことなく淡々と語っていたのとはあまりにも対照的です。
リアルすぎて真に迫っているというか。。。

>「七階」「七人の使者」にもどこか通じてるかもね。
「七つの大罪」とは逆の「七つの美徳」(正義、分別、節制、堅忍、信仰、希望、慈悲)
がありますが、これに該当するのは領主にどこまでも忠実な臣下を描いた
「七人の使者」ですね。
「七階」はう〜ん、どちらにも該当しない・・・。ただ、段々と症状が悪化する
という設定は、ヨハネの黙示録で「神が定めた七つの時代」、「七つの厄災」
から来ているようにも思えました。
「神が定めた七つの時代」、「七つの厄災」とも終末を暗示しています。
いずれにしろ、キリスト教国において「七」は良い意味でも悪い意味でもキイワードとなる数字なのかもしれませんね。


(つづきます)

100 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:17:07

>それはドリーゴにとってライーデが「宿命の女」だから。
そうですね。
ライーデ=宿命=運命と設定することで、人は自分の運命から逃れることは
できないのだ、という従来のブッツァーティのテーマを踏襲していますね。
運命とは正体不明かつ得体が知れないけれど逃れられないもの。
男にとって女はその最たるものかもしれません。(逆もまた真なり)
散々手こずらされ、焦らされ、振り回され、破滅に向かうのがわかっていても
どうしても離れられない、それが「宿命の女」。
作中でドリーゴはライーデと完全に手を切ろうと試みた一時期がありましたね。
電話もしない、逢いにもいかない、そうすることで従来の平穏な日々を取り戻した
かのように思えたのも束の間、ライーデからの一本の電話で固い決意はたちまち
崩れ去り、ふたたびライーデに引きずられ都合のいいようにあしらわれる。

「男と女のごたごたは五分五分である」とは瀬戸内寂聴さんの言葉ですが、
どちらか一方だけに非があるのではなく、自分を苦しめる相手を選んだ時点で
相手と同罪なのですね。
ドリーゴの本心を覗き見るならば、そもそもドリーゴの惹かれる女はライーデの
ように自分を愛さない女、自分につれない女なのですね。
つまり、ドリーゴは自ら苦しみを引き寄せ、その苦悩を決して嫌いではない、、、
人はそれを「狂気」と呼ぶ。


(つづきます)

101 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:17:40

>ブッツァーティは《死》を提示してこの物語を締めている。
>この《死》の受け止め方は幾通りかあるかもしれない。
>罰としての死、愚かさの象徴としての死、放蕩の果てのゴール。

バタイユは『不可能なもの』で、苦悩を欲する主人公の祖先に言及しています。
常人ならば避けたいであろう苦悩をあえて欲する。
なぜなら、その苦悩は歓喜へと姿を変え、それゆえに苦悩はさらに希求される。。。
苦悩の最たるものは「死」でありますが、バタイユはその「死」は「エロス」のさなか
で真の歓喜に変るといいます。
苦悩を歓喜に変えるには「狂気」なくしては成り立たないということです。
つまり、「狂気」とは相反するものを結びつける橋渡し的な役割でもあるのです。

ドリーゴは「狂気の愛」の結果として、やがて訪れる「死」を歓喜に変えることが
できるでしょうね。
ひとつの破滅的な愛が人生の黄昏を迎え始めた彼にもたらしたもの。
彼にとって「死」とはもはや苦悩でも恐怖でもない。
「死」は歓喜と解放なのだ。

以下、わたしの感想です。

102 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:18:10

ディーノ・ブッツァーティ『ある愛』・河出書房新社、読了しました。
わたしのなかでは『死の棘』以来の凄まじい狂気の愛の物語です。
島尾敏雄の場合は浮気した夫に妻が狂乱し夫が苦しめられますが、
この作品は初老の建築家が愛人契約をした若い浮気症のコールガールの
驕慢さや酷薄さに翻弄され愚弄されて狂乱し破滅へ向かうという壮絶な
愛の物語です。

49歳の建築家アントニオはある日上辺は高級婦人服店、内実は売春斡旋業の
エルメリーナからライーデを紹介されひと目で気に入ります。
ライーデは自称バレリーナ志望の長い黒髪とすらりとした脚を持つ美少女。
淫売という自分の職業に何の罪悪感も抱いていません。
屈託がなく、一見そこら辺の少女とほとんど変わらないのです。
ただ一点、彼女をたんなる淫売と隔てているのはその気位の高さです。
すなわち、お金で軀は売っても魂までは決して売らない。
アントニオは青年期に女たちには苦い思いばかりさせられてきたのでした。
彼が好ましいと思う娘たちは悉く彼と目が合うと露骨にいやな顔をし、
顔を背けるのです。なかには愛想のいい娘たちもいることはいましたが、
彼は自分に微笑みを向けてくれる娘には何の興味も持てないのでした。
つまり、彼の女性の好みとは一言でいえば「自分を疎ましく思う娘」なのですね。
そして、彼の遅咲きの恋の相手ライーデはまさにその典型でした。


(つづきます)

103 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:19:17

青年時代、アントニオは恋愛については苦渋を嘗めさせられました。
彼よりも容貌の劣る、教養のない粗野な若者たちは娘たちをいとも簡単に口説き
ものにし、自慢しました。
彼がどんなに頑張ってもできないことを、彼が軽蔑し、彼より数段は劣る彼らは
いとも簡単にやってのける。ますます深まる劣等感……。
しまいにはアントニオは恋愛や女性を意識して避けるようになりました。
そして、今、彼は建築家としてそれなりに成功し、身分のある地位にいるのです。
そんな彼が狂ったようにライーデに夢中になり、月額で愛人契約を持ちかけます。
ライーデはお金欲しさに同意しました。
それはまさに地獄の日々の幕開けでもありました……。

ライーデは性悪で気まぐれで驕慢な娘だったのです。
彼との約束を守らないのは序の口、車を出させて足代わりにする、
皆の前で罵倒する、従兄弟と称する青年と見せつけるようにいちゃつく、
挙げ句の果ては、契約しながらも何だかんだと理由をつけて指一本
触れさせようとはしない。
さすがのアントニオも癇癪を起こし、ライーデを罵倒します。
すると、ライーデもさらなる癇癪を起こし罵倒の応酬をします。
ライーデに翻弄され愚弄の限りを尽くされ、アントニオは日に日に身も
こころも憔悴していきます。ライーデから去るのが一番の良策なのですが、
彼はライーデに魂まで奪われ、最早彼女なしでは生きていけない身の上に
なってしまっていたのです。


(つづきます)

104 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:51:28

それを承知の上でライーデはますます身勝手に振舞い、彼をこれでもかと
苦しめつづけます。アントニオはアントニオでライーデにすげなくされれば
されるほど、彼女に執着し執拗に浮気を責め立て、追いつめていきます。
息苦しいほどの克明な描写が延々と綴られ、読んでいるほうもつらくなります。。。

「愛とは呪いである」とは作中の作者の言葉です。
ひとたびこの呪いにかかった以上、愛に翻弄されながら呪いが醒める日を
ただひたすら待つか、あるいは死を選ぶかどちらかしかない。
わたしにいわせれば、アントニオの場合は「愛」というよりも「恋」なのですね。
それも遅咲きの免疫のまったくない「はしか」のような恋。
免疫がまったくない分、どこで引き、どう諦めるかがまったくわからない。
まあ、彼の場合まだ周囲にまで迷惑を及ぼしていない分、ライーデには
温情があるというべきでしょうか。

ラスト近くライーデのともだちは「私たちがまともに働けないように
しているのはあんたたちブルジョアよ」と罵ります。
――「あんたたちブルジョアは私たちが入用なくせして、私たちの足元に
ひれ伏している時にだって私たちを劣等な人種だと考えているの。
それでいながらそれを愛だなんて言うの?」――(p282)


(つづきます)

105 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:52:04

彼女の糾弾は半分は真実であり、半分はそうではありません。
ブルジョアに限らず金と権力を手にした男たちは少なからず、相手は売春婦
だから、と高をくくっているのは少なからず事実でしょう。
けれども、買春する彼らよりも売春婦である彼女のほうが先ず自らを
「劣等な人種」と認めてしまっているのですね。
実際ライーデのともだちは卑屈で、品がなく、小猾そうな目つきで目の前の
アントニオを値踏みしているのです。

ところで、娼婦に狂い破滅した男の物語は古今東西かなりありますね。
わたしはドストエフスキーの描く娼婦にとても興味があります。
彼の描く娼婦は対極にあります。
先ずは『罪と罰』のソーニャ。彼女は娼婦に身を堕としてはいますが、敬虔で
泥中に咲く真っ白な蓮の花のような清らかなこころの持ち主です。
次に『白痴』のナスターシャ。気位が高くその貴族的で高飛車な態度は今回の
躯は売っても魂までは決して売らないというライーデに匹敵します。
但し、ライーデの場合は高飛車なだけで貴族的からはほど遠いのですが、、、
ナスターシャもライーデもお金で自分を買う男たちを見下し、鼻で笑う。
ドストエフスキーは全く対照的な娼婦を別々の作品で描きました。


(つづきます)

106 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:52:43

男たちにとって、娼婦という「女」そのものの典型である彼女たちは
あるときは女神であり、あるときは魔性の女であるのでしょう。
崇拝したい、安らぎたいと願う一方で振り回されたい、狂おしい嫉妬や
懊悩に駆られてみたい、、、そんな相反する気持ちがソーニャとナスターシャ
という対照的な女性をつくりだしたのではないでしょうか?
では、ブッツァーティにとって「女」とは?
……彼にとって女とは、男を捕らえて狂わすもの。

ブッツァーティの作品は全般として何か得体の知れないものに「囚われた」
男の物語が多いです。
『タタール人の砂漠』は砂漠という不可解なものに生涯囚われた男、
『七人の使者』はあるかないか存在不明の国境を探すことに生涯を費やした
使者たち、そしてこの『ある愛』においては男からみたら究極の神秘であり、
同時に魔性でもある女に魂まで奪われたひとりの男。
なぜブッツァーティはそれほどまで執拗に「囚われびと」の物語を書く
のでしょう?
おそらくは、彼もまた書いても書いても答えがでない、それでも何かに
憑かれたように書かずにはいられない小説という世界に囚われたひとり
の男だったから。
ブッツァーティは「囚われること」は宿命だといいます。


(つづきます)

107 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:57:48

この息のつまる狂気に満ちた不毛な恋の物語を読んでふと思ったこと。
不毛とも言える何かに囚われて生涯を終える人と、何にも囚われず
平穏無事なまま生涯を終える人とでは、はたしてどちらが幸せなのだろう?
身も心も喰い尽くされた囚われびとにとって死は確かに救いであるのでしょう。
反して、平和な人生を歩んできた人にとって、死は恐怖以外の何ものでもない。
死は誰にでも等しく訪れますが、平静は忌避されるべきものであり、悪しき
ものとして目を背けられています。
けれども、宿命を背負い囚われた人にとって死は最も身近な親しいものとして
歓迎されるのではないでしょうか。
少なくとも死ねば、囚われの苦しみからは解放されるのですから。
ブッツァーティの描く囚われびとたちは、宿命を背負ったまま死に向かって
行進していきます。
砂漠にそびえ立つ砦から、国境を探す果てのない旅の道中から、
そして、初老の男の不毛な恋のいきつく先から……。
死は彼らにとって安住の地、約束の地。
在里寛司氏の解説にもありましたが、ブッツァーティは人生を――宿命と死を
描く作家であると。


(つづきます)

108 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:58:56

この作品は今までの寓意的な作品群と比べて、リアルな心理描写が克明に
語られ、また、胸をえぐりとるような刃のような言葉が乱れ飛びます。
恋は昔夢見た甘いお伽噺話ではなく、男と女のぎりぎりの心理戦、
命をかけた駆け引き、互いをどこまで縛れるかの意地の張り合い。
ブッツァーティは愚かで哀れな男の滑稽な恋を余すことなく赤裸々に白日の
下に曝します。
それにしても、アントニオとライーデは何とよく似ていることだろう!
ふたりとも相手から奪うことばかり考えていて、相手に与えようとはしない。
アントニオはこう弁明するだろうか。
「私は彼女にお金と住む場所とドレスを与えた。望まれればいつでも車を
だしてやり、屈辱にも甘んじた」
ライーデはこう言い返すだろうか。
「あたしはこの若い躯をあのじいさんに提供したわ。虫酸が走るほど嫌い
だったあのじいさんによ! お金も住む場所も当然の見返りよ」

こんなふたりは愛をどれだけわかっているのだろう?
ふたりを憎悪を結びつけているのは互いの深い劣等感、アントニオは青年期に
娘たち誰ひとり好かれなかったという屈辱、ライーデは自分がこれほどの
美貌と若さを持ちながらも娼婦に身を落とさなければならないという屈辱。


(つづきます)

109 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:29:26

つまり、ふたりとも自己評価が非常に高く、従ってプライドも異様に高い
持ち主なのです。
彼らは「このおれ様がなぜ?」、「このあたしがどうして?」と絶えず
不満を相手に押しつけているのです。相手を理解しようとするどころか
「おれ様を、あたしを愛しなさい」と命令します。
ふたりは合わせ鏡なのです。それなのに互いを決して認めようとはしない。

アントニオは自分に目もくれなかった高慢な娘たちへの恨みを引きずる
のではなく、初心で素朴な娘たちの微笑みを受け入れるべきでした。
ライーデは華やかなドレスやスポーツカーを望まなければ、町なかで
よく見かける平凡でつつましい普通の娘たちの仲間入りができたでしょう。
けれども、人間の嗜好は変えられないものなのかもしれませんね。
自分を忌み嫌う娘にしか食指が動かないのも、また、お人好しでマヌケで
凡庸な男にしか好かれないのも、「宿命」なのだとすれば……。

アントニオはライーデをこの上なく高貴で神秘的な存在に思っているふしが
ありますが、それは盲目の恋のなせる技ですね。
彼女の美貌と若さ、それに見合う驕慢さと身勝手さがそう思わせているだけの
こと。玉手箱を手にしていざ開けたら白い煙だけ、というのはよくあること。


(つづきます)

110 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:29:58

きりきり舞いさせられ、苦しめられ、それゆえに恋は刹那的に輝きます。
恋のもたらす痛み、壮絶な嫉妬も悶々と眠れない長い夜も懊悩も全部ひっくる
めてアントニオは49歳という年齢でようやく経験できたのです。
それもかなり濃厚に。彼の人生で最初で最後の闘争でしょう。
負け戦と初めから知っていて敢えて挑んだのです。
拍手をおくろうではありませんか。ライーデのこころを完全に手中にできる男など
おそらくこの世にひとりもいないでしょう。
そもそも、人は誰かのこころを、魂を完全に掌握することなどできやしない
のですから。それはあまりにも不遜であり傲慢というものです。
誰かのこころを永遠に縛りつけることなど不可能です。人は神ではないのです。
恋という美しい幻を夢見ることは決して悪いことではありませんが、
けれども、ねえ、お気をつけなさいな。
あまりも恋に囚われすぎると、相手も自分も見失ってしまいますよ。
とはいえ、それでも飛び込みたい人は飛び込むのでしょう。愛しい人の腕めがけて。
ひとたび恋に囚われてしまったからには、もはや誰にも止めることなど
できないのですから。それは野暮というものです。
こうしてまた今日もひとり、盲目の囚われびとは恋に向かって駈けていく……。


――それでは。

111 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:30:31

(追 記)

……それにしても、この物語のみならず、愛はあるときは人を有頂天にさせ、
あるときは人を狂気や死に導きます。有史以来、愛の正体は未だ不明。
「ある愛」のアントニオは最後に、他の男の子供を妊娠したライーデを受け入れ、
許そうと決心します。壮絶な茨の愛の昇華という点では「死の棘」のその後の
ふたりに匹敵するのではないでしょうか。
……ところで、あなたにとって愛とは何ですか?
想いが届かず今夜泣いている人、かつて愛に痛手を受けて臆病になって
いる人、嫉妬に苦しんでいる人、愛に懐疑的になっている人すべてに
Bette Midler(ベッド・ミドラー)の<The Rose>を贈ります。

<The Rose> 【動画】 Bette Midler(Live) ↓
http://www.youtube.com/watch?v=Y-y61DlRPhw

<The Rose> 【歌のみ】 Bette Midler ↓
http://www.youtube.com/watch?v=PIBUaMe37B8

112 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:31:07

<The Rose> 
[詞・曲]Amanda McBroom  [歌]Bette Midler

Some say love it is a river
That drowns the tender reed
Some say love it is a razor
That leaves your soul to bleed
Some say love it is a hunger
And endless aching need
I say love it is a Flower
And you its only seed

It's the heart afraid of breakin'
That never learns to dance
It's the dream afraid of wakin'
That never takes the chance
It's the one who won't be taken
Who cannot seem to give
And the soul afraid of dyin'
That never learns to live

When the night has been too lonely
And the road has been too long
And you think that love is only
For the lucky and the strong
Just remember in the winter
Far beneath the bitter snows
Lies the seed that with the sun's love
In the spring becomes The Rose

http://www.lyricsfreak.com/b/bette+midler/the+rose_20017078.html

113 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:33:03

<The Rose> 訳詞


ある人は言う 愛は濁った川の流れのようだと
弱く傷つきやすい人を飲み込んでしまうと
ある人は言う 愛は冷たい刃のようだと
人の心を容赦なく切りつけると
ある人は言う 愛は飢えのようだと
どれだけ求めても満ち足りることのないものだと
私はこう言うわ 愛は花だと
そしてその大切な種が、あなたなのだと

傷つくことを恐れていては、
楽しく舞うことができない
夢から覚めることを恐れていては、
チャンスをつかむことができない
奪われることを拒む臆病者は、
与える優しさを知ることがない
死を恐れていては、
生きることの意味を学べない

ひとりで寂しく過ごす夜や、目の前の道を遠く長く感じるとき、
また、愛は心と運の強い人にしかやって来ないものだと思うとき、
どうか思い出して
厳しい冬、冷たい雪の下で 寒さにじっと耐える種は、
暖かい太陽の恵みを小さな体いっぱいに受けて、
春には美しい薔薇として花ひらくということを

http://www.mtblue.org/music/lyric/rose.php

114 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/01(木) 00:28:39
>>99-113
量と質においてすさまじい書き込みだね。

>キリスト教国において「七」はキイワードとなる数字
1週間も七だしね。七賢人
キリスト教の七つの大罪を仏教的にあてはめれば四苦八苦かな。
生老病死の【四苦】に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦をくわえた【八苦】。

>その苦悩は歓喜へと姿を変え、それゆえに苦悩はさらに希求される。。。
>ドリーゴは「狂気の愛」の結果として、やがて訪れる「死」を歓喜に変えることが
>できるでしょうね。
ドリーゴは果たしてバタイユ的な陶酔に至るのかどうか?
これはちょっと疑問ではあるけれど、作者がそこまで描いていない以上、
読者はいろいろなイメージを持つことは可能だろうね。
たとえば、この作品の中の死をこんなふうに考えることもできるだろうか。
妊娠したライーデと和解し、平静を手にしたドリーゴに訪れる「死」。
それはあたかも、平静とは死であり、翻弄と狂騒こそが生だというかのように。
ドリーゴを盲目的にするライーデの愚弄こそ、彼の生命に火をつけるもので、
不完全燃焼のままに埋もれていた彼の青春を蘇らせるものだというように。

115 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/01(木) 00:30:52
(承前)

>『死の棘』以来の凄まじい狂気の愛の物語です。
島尾敏雄もブッツァーティも幻想的な作品を数多く書いてるけど、
愛をテーマにしたリアリスティックな作品を残した点で
この二人には共通点があるようだね。

>わたしはドストエフスキーの描く娼婦にとても興味があります。
ドストエフスキーの名前はここでは初めて挙がったような気が。
当方は『ある愛』を読んでシュニッツラーを想起。
(機会があればシュニッツラーについても考えをまとめてみたいな。)

>ブッツァーティの作品は全般として何か得体の知れないものに「囚われた」
>男の物語が多いです。
まったく同感で、『ある愛』は確かに異質ではあったけど、
その点ではブッツァーティ作品に一貫したテーマが流れてるね。

>ふたりとも相手から奪うことばかり考えていて、相手に与えようとはしない。
有島武郎は逆説的なニュアンスで『愛は惜しみなく奪う』を書いたけれど、
有島も「奪う/与える」という二項対立図式に囚われてた感じだナ。
与えることと与えられることは必ずしも対立しないんだろうね。
与えることによって結果的に受け取ることも実際少なくないから。

116 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/01(木) 01:05:01
(追記)

Bette Midler <The Rose>は名曲だね。

>>93にもひと言だけ追記
私見では、デリダのバタイユ観に半分納得、サルトルの方にも半分納得という感じ。
『シチュアシオンT』のバタイユ論を読んだときはそれはそれで頷く面はあったから。
このゆらぎはバタイユのテクストそのものにある揺れに起因してると思うけれど――。

>>97-98
>バタイユは最初から明晰さと論理性を無視したわけではないのですね?
宗教学としては「無神学」としての神学、経済学としては限定されない「一般経済学」、
アセファルなどでは「社会学研究会」というふうに、「学」へのこだわりはあって、
バタイユは最初から「非-知」へ飛躍したわけじゃないとは思ってるけれど、
上にも書いたように、個人的には文章内での飛躍と揺れが時折感じられて
それがバタイユ像を正確に描きにくくさせてるところがあるなァ。

「非-知」が「言葉」で表現できないもの(内的体験)だとしても、
例えば「これは言葉で表現できない」と素朴にも語ってしまっては
サルトルがしたように神秘家というレッテルを貼られても仕方ない気がするし、
もし「これは言葉で表現できない」としか語れないにしても、
「言葉」に対する戦いと探求がもっとあった上でのものじゃないと
ちょっと弱い気もする、とこう書きながらも、このいかがわしさこそが
バタイユのバタイユらしいところなのかもしれないけれど。

雨傘を開いて哄笑するシーンが何かの作品にあったと思うけど
バタイユのスピリットにインスパイアされないとあれはわからない(苦笑 〆

117 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:05:30
>>114-116
SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>キリスト教の七つの大罪を仏教的にあてはめれば四苦八苦かな。
東洋ではなぜか偶数が多いようですね。108つの煩悩とか。

>ドリーゴは果たしてバタイユ的な陶酔に至るのかどうか?
>これはちょっと疑問ではあるけれど、
そうですね、これはわたしも走りすぎたかなあ、と。
バタイユにとって死はエロスを極める手段でありますが、
ブッツァーティにとって死は「囚われ」から自由への解放でしょうね。
「タタール人の砂漠」でも主人公の将校は最後に死を迎えようとするに至って、
敵の襲来を待つ永年の気の遠くなるような「囚われ」から解放されました。
誰からも賛美されない彼の人生は、最後に雄々しく死(=敵)を迎え入れることで
報われない人生と和解したのでしたね。

>それはあたかも、平静とは死であり、翻弄と狂騒こそが生だというかのように。
なるほど。
ライーデは性悪ではあっても、ドリーゴの今までの死せる人生に生の息吹を与え、
手引きしてくれた唯一の女。たとえそれが煉獄の炎に焼かれるような凄まじい
嫉妬の伴う生だとしても。。。

118 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:06:17

>島尾敏雄もブッツァーティも幻想的な作品を数多く書いてるけど、
>愛をテーマにしたリアリスティックな作品を残した点で
>この二人には共通点があるようだね。
確かに。ふたりとも愛を描く作家からは遠いイメージがあったのですが、
自らの恥部を赤裸々に迫真に描く点では似たようなところがありますね。
このふたりの作品を読んでいるとまさしく「愛とは闘争である」という言葉が
脳裏をよぎりますね。
プライドとプライドのぶつかり合い、互いの愛の量の測り合い、
己の全存在を賭けた勝負。。。

>(機会があればシュニッツラーについても考えをまとめてみたいな。)
ぜひお願いします。

>その点ではブッツァーティ作品に一貫したテーマが流れてるね。
ブッツァーティは自身で述べているように人生を描く作家ですが、
人生=運命のなかに異性がすっぽりと抜けていましたよね。
それが「ある愛」ではメインテーマとして語られています。
ブッツァーティにとって、異性は一度は書かねばならない宿命だったような…。

119 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:07:13

ベケット「ゴドーを待ちながら」を読了し、今「マーフィ」にかかっています。
本当は「モロイ」のほうを先に読む予定だったのですが、あいにく貸し出し中、
ということでした。。。
この作品も頭がくらくらするような作品ですね。
会話に込められた風刺や諧謔、これらの引用すべてを初読で正確に把握できる
人ってどのくらいいるのかなあ……?
巻末の膨大な注を見てふとそんなことを思いました。

「ゴドーを待ちながら」はOTOさんが再読し終えるのをゆっくりと待ちましょうね。
急がないで、スローペースでいきましょう。

立春になり、少しずつ春の気配が。
日曜日の午後、ラジオから流れてきた「そよ風の誘惑」、この季節にぴったり。
……でも、歌詞をよくよく読むと春風のようなさわやかな詩ではなく、大人っぽい詩
なんですね。
ライーデも最後にはこんな殊勝な気持ちになれたのかなあ……?

「そよ風の誘惑」 オリビア・ニュートンジョン
http://www.youtube.com/watch?v=qMAKE7_8AGY
http://www.youtube.com/watch?v=afpryDbAHYI

120 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:08:42

<Have You Never Been Mellow>

【作詞/作曲】 Farrar John   【歌】 Olivia Newton-John


There was a time when I was in a hurry as you are
I was like you
There was a day when I just had to tell my point of view
I was like you
Now I don't mean to make you frown
No, I just want you to slow down

Have you never been mellow?
Have you never tried to find a comfort from inside you?
Have you never been happy just to hear your song?
Have you never let someone else be strong?

Running around as you do with your head up in the clouds
I was like you
Never had time to lay back, kick your shoes off, close your eyes
I was like you
Now you're not hard to understand
You need someone to hold your hand

Have you never been mellow?
Have you never tried to find a comfort from inside you?
Have you never been happy just to hear your song?
Have you never let someone else be strong?

http://ntl.matrix.com.br/pfilho/html/lyrics/h/have_you_never_been_mellow.txt


121 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:09:28

「そよ風の誘惑」   訳詞


見つめる目さえ 愛を知らなかったあの頃
夢見るように強く抱かれた あなたに
愛というより寂しさ 忘れたかったわ

Have You Never Been Mellow
わがままばかりで
あなた ごめんなさいね
ないものねだりするわけじゃないの
Have You Never Let Someone else Be Strong

ひとりつまびく あなたの唄が流れて
私の胸を素通りしては ふりむく
愛というよりやさしさ あこがれていたわ

Have You Never Been Mellow
わがままばかりで
あなた ごめんなさいね
ないものねだりするわけじゃないの
Have You Never Let Someone else Be Strong

http://www.age.ne.jp/x/ctake/midi-non/wrd/nonko13.htm


122 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/07(水) 01:10:18
>ベケット「ゴドーを待ちながら」を読了し
さすが速いね。OTO氏も今週あたりは読了かな?

あっちのスレは最近人大杉で見れないなぁ。



123 :(OTO):2007/02/07(水) 13:54:08
いま。いま読み終わったよww
とてもおもしろかった。感想書き上げられるのは来週かな、
順番どうする?これの感想を話し合うってことは「神」について
話し合うことになりそうだなww

あっちはちょっとageたら人が2〜3人来たので、少し下がるまで
休んでる。2〜3日かな。

遅レスだが
>>93〜98、>>116あたりを読んで、なんかすごく「話し合ってる感」が
あって、うれしかった。二人ともありがとう。
おれは割と断片的なとこに食い付いて、極端な論を展開するのが面白くて、
書いてる部分があるから、Cucの素直な感情移入やSXYのゆるがない平衡感覚
と出会うと何かが補完されたような気分になる。うまく言えてないなww

ブッツァーティ「ある愛」すごそうだな。だいぶ違う感じだが、
ふと有島武郎「或る女」を思い出した。

今日はいつもROMしてる専門スレを巡回するとどれもKEMANAIという
ハンドルの書き込みだったwwwwwwどうもありがとwwww


124 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/08(木) 21:16:23

SXYさん
ブランショのスレ、2レスほど書きましたよ♪

>>123 (OTO)さん
>感想書き上げられるのは来週かな、順番どうする?
そうですね、「ヘリオガバルレス」は飛び越して「ゴドー」を先にしましょうか。
わたしの感想はすでに書きあがっていますので、今週末にひと足先に
upしてもいいですよ。

>あっちはちょっとageたら人が2〜3人来たので、少し下がるまで
>休んでる。2〜3日かな。
今まで哲学板の動いていない下層スレを途中から借り受けてきましたが、
こうしたことが今後も許容していただけるのか、ちょっと難しそうですね…。
哲学板の「スレ立て依頼」で雑談系のスレ立てをお願いしたのですが、
「素人と飲み屋で話がはずむ位の哲学」という現行のスレを案内されました…。
ううむ、、、ちょっと違うなあ。。。
雑談で学問板にこだわらないのであれば、「ほのぼの板」があります。
見てきましたが、板全体が雑談です。
哲学板が今後新しい雑談スレを拒否するのであれば、「ほのぼの板」に
移動するのが一番妥当なのかなあ……。

125 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/08(木) 21:16:59

>なんかすごく「話し合ってる感」があって、うれしかった。二人ともありがとう。
いえいえこちらこそです。
哲学書はなかなか最後まで読み通すことができなくて、さじを投げてしまう
のですが、こうしてダイジェストしていただけるとありがたいです。

>ふと有島武郎「或る女」を思い出した。
ああ、知ってる、知ってる、あの驕慢な「葉子」という美貌を鼻にかけたヒロイン!
そういえば、同じような路線では夏目漱石の「虞美人草」の藤尾というヒロインも
いい勝負かな。藤尾が目をつけた初心な青年にはすでに婚約者がいる
のですが、婚約者がおとなしいのをいいことに、自分の美貌を武器に
彼を奪おうとして最後には憤死する女。
もうひとりは、谷崎潤一郎の「痴人の愛」のナオミ。
中年の男が年端もゆかない美少女ナオミの魔性に魅入られ振り回されます。
女王の如く君臨するナオミに男は奉仕する喜びを見出していくのです…。
ライーデはナオミに近いかな。

>今日はいつもROMしてる専門スレを巡回するとどれもKEMANAIという
>ハンドルの書き込みだった
おおっっ! みなさん、読んでくださるといいなあ。

126 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 14:29:05

☆☆緊急連絡☆☆

あちらに他スレへの誘導リンクが貼られました。。。
誘導先はすでに700を越えていますし、常連さんたちばかりのようです。
入りづらいです・・・
PCで新スレを立てようとしたら、こんな表示が。
「ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
またの機会にどうぞ。。。 」
ちなみに携帯からでも同じでした。
哲学板では1回もスレ立てしたことないので、初心者板で質問したら
規制値以上のスレが立っているとこのような表示がされるらしいです。。。

127 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/10(土) 19:18:01
>いま。いま読み終わったよwwとてもおもしろかった。
じゃあそろそろCucさん先陣で「ゴドー」に行こうか。
といって誰も動かなかったらすごくゴドー的(笑

>巡回するとどれもKEMANAIというハンドルの書き込みだった
あああれね(笑 KEMANAI氏はおそらく、
板内の1割ほどのスレッドに足跡を残そうとしてるのかもしれない(笑

――2月は一般書籍板も含めてちょっとあちこち遊んでみようかな。

>ブランショのスレ、2レスほど書きましたよ♪
すぐわかったよ。ありがとう。

あっちのスレはちょっと茶々が入ってるみたいだね。
相変わらず「もうずっと人大杉」でずっと読めないのがもどかしい。

128 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:36:36
>>127 SXY ◆P6NBk0O2yMさん

わたしも「宣伝」板に2レスほどKEMANAIを宣伝してきたところデス♪

>――2月は一般書籍板も含めてちょっとあちこち遊んでみようかな。
おもしろそうなスレがありましたら、紹介してくださいね。

>すぐわかったよ。ありがとう。
いえいえ、どういたしまして。ブランショという作家についての対話は
「終わりなき対話」であり、今後も気づいたことがありましたら、微力ですが
書かせていただきますね。

>あっちのスレはちょっと茶々が入ってるみたいだね。
……はい。途中から借り受けたスレなのですが、、、悲しくなりました。。。
どうしてもダメならば、雑談系の板に移るしかないようです・・・
今日はSXYさんがいらしてくださって、涙がでるほどうれしかったです!
こちらはうれし涙。

>じゃあそろそろCucさん先陣で「ゴドー」に行こうか。
はい、ではいきます。

129 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:37:26

ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)読了しました。

一本の木のもとでゴドーをひたすら待つふたりの男の物語劇。
彼らは定職に就かず、通りかかる人たちに物乞いをし、また、あるときは
近くの畑から人参や大根、蕪などをこっそり盗んで食べています。
いってみれば浮浪者。
エストラゴンとヴラジーミルのふたりは、この木のもとからなぜか立ち去ろうとは
しない。ゴドーが来ることを信じ、日々を待つことに費やしています。

登場するのはこのふたりの他は、ゴドーからの伝言を持ってきた男の子と
旅の道中の男ひとりだけ。
エストラゴンとヴラジーミルは聖書や救世主についていろいろと話しています。
となると、畢竟ゴドーは神もしくはイエスを想起するのですが、、、
今か今かと期待するも、ついに最後まで姿を現さないゴドー。

それにして、エストラゴンはいったいいつどこでゴドーと約束をしたのでしょう?
そのとき、彼はゴドーの姿もしくは声を聴いたのでしょうか?
それともゴドーとはエストラゴンのたんなる思い込みに過ぎず、実際は存在
しないものをいたづらに待ちつづけているだけなのでしょうか?


(つづきます)

130 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:38:12

しかし、ではゴドーからの伝言を授かってきたという男の子の言葉は
何を意味するのでしょう?
男の子は羊飼いだという。神の使い、イエスの使いであることを暗喩しています。
男の子は嘘をつけるほどまだ世の中には長けていないのです。
やはり、ゴドーは実在するのでしょうか?

エストラゴンとヴラジーミルが待ちつづける一本の木は、潅木であったかと思うと
次に見たときには青々とした葉が茂っているという設定です。
おそらく木だけが時の流れをこのふたりに知らせているのでしょう。
ふたりは長年同じ木の下に居座り、時の流れから最も遠い存在です。
ただ木だけが正確に四季折々の移ろいを刻み、ふたりに提示するのです。

ところで、ゴドーを待ちつづけるふたりはこの木から決して離れないのです。
なぜでしょう?
おそらくは、この木はゴドーが現れる約束の木、目印なのではないでしょうか?
ただ待つだけならばどの場所でもいいはずであるが、彼らはこの木に固執します。
あたかも、この木から離れたらゴドーは現れないという強迫観念すら
感じるのです。(解説によれば、この一本の木はイエスが磔にされた十字架を
象徴するものであるらしいです…)


(つづきます)

131 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:38:49

それゆえふたりはイエスが降臨するであろうこの木から離れることはできない。
作中の言葉を引用するならばまさに「縛られている」のですね。
ただ、時折エストラゴンのほうは立ち去るそぶりを見せるのですが、
ヴラジーミルに説得され、結果として残りふたたび待ちつづけるのです。
このふたりの行為を不毛と呼ぶにはいささか抵抗があります。
なぜならば、少なくともヴラジーミルは待ちつづけることを自らの自由意志で選んで
いるからです。第三者からの強制は感じられません。
彼がゴドーとどのような約束をしたかは語られておらず、読者はわけが
わからないまま、彼らとともにゴドーの降臨を待つしかないのです。

劇の最後にヴラジーミルは「じゃあ、行くか?」、エストラゴン「ああ、行こう」と
賛同するもふたりは頑ななまま、そこを動かない……。
実はこの会話は劇のなかで何回も繰り返し反復されていますね。
けれども、そのたび彼らは動かない。せりふだけが空回りするだけ。
読んでいるほうもしまいには彼らのせりふが本心からのものではなく
その場しのぎの雑談のひとつに過ぎないとわかってくるのですが。。。


(つづきます)

132 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:39:36

解説で高橋康也氏によると「今日この芝居が現代演劇最大の傑作、あるいは
問題作とであることを疑う者はおそらくいない。議論や解釈がむだだという
のではない。ベケットはゴドーが誰かときかれて、知っていたら作品の中に
書いたでしょう、と答えた」とあります。
無論、ベケットのゴドーに対する答えは本心から出たものでないことはわかり
ますが、そこに彼の皮肉というか、意地の悪さのようなものを感じてしまうのです。

そもそも劇的(ドラマティック)という言葉は紆余曲辺の出来事がてんこ盛りの
「劇」からきているというのに、この劇は演じられる物語らしい物語はまったくなく
劇的でもありません。退屈といえば退屈。謎の存在ゴドーさえも、当初の期待は
見事に裏切られ、とうとう最後まで姿を現わさぬまま。。。
観客はこの劇に怒りすら覚えるでしょう。何をいいたいのかさっぱりわからない、と。
それはそうでしょう。作者であるベケットでさえわかっていないのですから。
作者が何もわからぬまま実験的に書いた劇……?
さらに加えて、登場する人物たちも何もわからない人たちばかり。
ゴドーを待つ意味すらわからずひたすら待ちつづけるふたりの男。
ゴドーから「今日は来られません」と伝言を預かってきた、
これもまた何もわからない男の子。


(つづきます)

133 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:15:18

この劇に登場する人物たちはみな「わからないけれど言い伝えどおりに行動
する」人たちです。いちいち理由など訊ねたりはしません。
なぜでしょう?

それと不思議なのはヴラジーミルとエストラゴンがこれだけ永い間待ちぼうけを
食わされているというのに、ゴドーに対しては何ひとつ怒りを向けないことです。
ふたりは互いに愛想が尽き、けんかを繰り返し「おれはもう行くよ」と啖呵を切ります
が、その怒りは決してゴドーに向けられることはありません。
こんなにも永い間約束を遂行しないゴドーこそが仲違いをさせている張本人
であるはずなのに、、、
ゴドー=救世主であるならば、彼らは信仰者です。
待つことは信じることです。
信仰は待つこころのない人は持つことはできません。
そこには理屈も理由も理性も介入しえない領域です。
なぜ待つのか? 信じているから。それが信仰なのです。

ゆえに彼らは最後の最後までゴドーとの約束をすっぽかすことはできない。
ふたりの最期は野垂れ死にでしょう。そして、一本の木だけがふたりが約束を
まっとうしたことを知っているのですね……。
そう、人に知られなくとも神だけが彼らが最後まで待ち続けたことを知っている。
不条理劇というよりも、愚直なまでにゴドーとの約束を守りつづける信仰の
物語ではないでしょうか? 愚直さは最後のページで高貴なものに転倒します。


(つづきます)

134 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:16:01

確かにヴラジーミルとエストラゴンは浮浪者であり、世間から見放された存在です。
勤勉さからはほど遠く、働きもせずぶつぶつ繰り言ばかり言っている。
役立たずで、何の取り柄もない彼らが唯一持っているもの、
それは「約束を信じて待つこと」なのです。彼らの仕事といってもいいでしょう。
愚直なふたりはゴドーとの約束をひたすら信じて待ちつづけます。
何回も繰り返された「今日は来られません、明日には必ず」と伝言があれば
そのたびに「ああ、そうですか」と単純にもすっかり信じてしまう。

ゴドーなんか最初からいないんだよ、騙されているんだよ、早くその場を立ち
去ったほうがいいよ、と第三者が助言してもおそらく無駄でしょう。
なぜなら、詳細は語られていないがかつてゴドーと約束したのは他ならぬ
ヴラジーミル本人なのですから。
ヴラジーミルはそのとき確かにゴドーの声を聞いたのでしょう。
約束の場所も指定されたのでしょう。
そんなヴラジーミルに引っ張られるようにエストラゴンも一緒にゴドーを待つ。
もし、エストラゴンがヴラジーミルのゴドーとの約束をはなから信じていなければ
とっくの昔にヴラジーミルから立ち去っていたはずです。
間接的ですがエストラゴンもまた、ヴラジーミルが交わしたゴドーとの約束を
信じているのです。


(つづきます)

135 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:16:42

信仰とは実はシンプルなものなのかもしれません。
ただひたすら信じること。
ふたりの信仰を盲信と見るか、敬虔と見るか、意見が分かれるところでしょう。
ただ、これだけはいえます。
常人にはできない行為であると。
そこにはある種の狂気に近い愚直さがなければなりません。

余談ですが、聖フランシスコの青春を描いた「ブラザーサン シスタームーン」
という映画のなかでこんなシーンがありました。
フランシスコが信仰に生きるため、父に訣別宣言をしたとき怒った父は
「お前はこの裕福な家を出て乞食でもするつもりか?」と問い質します。
彼はこう答えました。
Yes, beggar,Christ was a beggar!
(そうです、乞食です。キリストは乞食でした!)
偶然でしょうが、エストラゴンとヴラジーミルも乞食(浮浪者)ですね……。

――ヴラジーミル「そうだ、この広大なる混沌の中で明らかなことはただ一つ。
すなわち、われわれはゴドーの来るのを待っているということだ」
エストラゴン「そりゃそうだ」
ヴラジーミル「われわれは待ち合わせをしている。それだけだ。
われわれは別に聖人でもなんでもない。しかし、待ち合わせの約束は守って
いるんだ。いったい、そう言いきれる人がどれくらいいるだろうか?」――(p140)
まさしくこれは真摯な信仰告白です。このふたりにいったい何が言えましょう…?


(つづきます)

136 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:17:29

以下は、曽野綾子さんの言葉です。

――このごろつくづく思うのは、神はあらゆることをお使いになる、
という実感だけです。
神はその人の賢さもお使いになりますが、往々にしてその愚かささえも祝福
されるように、その人がその愚かさによってのみなし得るような仕事をおさせに
なります。そのからくりに対して人間は何を言えましょう――
曽野綾子/『旅立ちの朝に』

――実に、人生の最大の仕事は待つことだという法則がここにも適用されていた。
しかも、その待つ意味がたいていの人間には見えていないのが普通である。
無意味なことを待つには勇気がいる――
曽野綾子/『紅梅白梅』

――人生は報いられなくてもいいということを、徹底して分からせてくれるのが
信仰なんです――
曽野綾子/『時の止まった赤ん坊』

137 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:18:04

「わたしは静かに神を待つ わたしの救いは神から来る」 
カトリック『典礼聖歌』p184 「MP3再生」をダブルクリックすると曲が聴けます。
http://tenreiseika.romaaeterna.jp/antiphon/ten184.html

聖フランシスコの青春を感動的に描いた「ブラザーサン シスタームーン」の
youtubeを見つけました。
ドノバンの詩情あふれる透明な歌声と、こころが洗われるような美しい画像を
合わせてお楽しみください♪

Donovan - 「Brother Sun, Sister Moon」
http://www.youtube.com/watch?v=9wfXR_ct0jc

Donovan - 「The Lovely Day - from Brother Sun, Sister Moon」
http://www.youtube.com/watch?v=XrkdvWf7euo

138 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:56:07

「Brother Sun, Sister Moon」  【詩】 Donovan


Brother Sun and Sister Moon,
I seldom see you, seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery.

Brother Wind and Sister Air,
Open my eyes to visions pure and fair.
That I may see the glory around me.
I am God’s creature, of him I am a part
I feel his love awaking in my heart

Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear your tune
So much in love with all that I survey

(参照) ↓
http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/4005

139 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:57:24

「Brother Sun, Sister Moon」  【訳詩】

ブラザーサン シスタームーン
その声はめったに私には届かない
自分の悩みだけに心を奪われて

兄である風よ 姉である空の精よ
私の目を開いておくれ
清く正しい心の目を
私を包む栄光が 目にうつるように

神に与えられた命 私にも神は宿る
その愛がいま この胸によみがえる

ブラザーサン シスタームーン
今こそ その姿に触れ
その声を耳に そして胸を打つ
あふれるこの愛


http://diarynote.jp/d/78290/20061111.html

140 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:58:33

☆☆連絡・その2☆☆

スレ立て依頼を初心者板でお願いしましたら、さっそく親切な方が立てて
くださいました。ありがたいです!
さっそくレスがついています。
ちなみに、7以降がわたしのカキコです。
もう少し下まで落ちたらハンドルでカキコする予定です。

「哲学の基本は対話」
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1171103991/

141 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/11(日) 13:57:18

☆☆近況報告・3☆☆

たびたびの報告、失礼します。以下のスレにくわしく書いてあります。
ハンドルは「春の雨」=「シリウス」がわたしです。

「おしゃべりノート 長話しが好きな人」 ↓
http://human6.2ch.net/test/read.cgi/honobono/1171110731/l50

142 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:11:25
>>129-136
とてもCucさんらしい読み!
下記のような言葉で紡がれた視点なんかは特にそう。
>そう、人に知られなくとも神だけが彼らが最後まで待ち続けたことを知っている。
>不条理劇というよりも、愚直なまでにゴドーとの約束を守りつづける信仰の
>物語ではないでしょうか?
そしてそれを支える曽野綾子から引用された言葉(136)も適切!
以下にCucさんの書き込みを参照しながら、
ちょっと違う角度から『ゴドー』について簡単に書いてみようかな、
と思うけれど、今日はあまり時間がないので途中までで
後半は次回に回すことになりそう。

ちなみに、「哲学の基本は対話」 スレの20は当方。
のぞいてみたら上のほうにスレがあって、適当に書き込んじゃった(笑
トップページの20位以内のスレは見ることも書き込むこともOKだった。
今はもう他のスレと同じく「人大杉」状態でNG。
でも新しい場所ができてよかったね。

143 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:15:26
『ゴドーを待ちながら』について

1)『ゴドー』は《しるし》だけの劇

>男の子は羊飼いだという。神の使い、イエスの使いであることを暗喩しています。
エストラゴンは自分をキリストと同一視してみたり、
この本のあちこちにキリスト教を参照させるような《しるし》は
いやというほどふんだんにあるんだけれど、
ベケットが置いたその《しるし》の背後には何もない感じ。
『ゴドー』――これは《しるし》だけの劇といえるかもしれない。

2)『ゴドー』は時間のない劇
>エストラゴンとヴラジーミルが待ちつづける一本の木は、潅木であったかと思うと
>次に見たときには青々とした葉が茂っているという設定です。
>おそらく木だけが時の流れをこのふたりに知らせているのでしょう。
唯一の舞台装置といっていい「木」。
第一幕では裸だった木が、第二幕では青々と葉をつけてる。
今日(第二幕)に対する昨日(第一幕)という時間設定ながら、
木だけは異なる時間の流れの中にあることを表しているけれど、
それと同時に、一幕と二幕の間に時間を無限に流すこともできそうで、
いくらでもこの劇が反復され得ることを示しているかのようだ。
だから、この劇では時間は流れてないともいえそう。
ちなみに空間もこの「木」の周囲からまったく広がらない。

144 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:43:18
3)『ゴドー』は宙吊りの劇
>劇の最後にヴラジーミルは「じゃあ、行くか?」、エストラゴン「ああ、行こう」と
>賛同するもふたりは頑ななまま、そこを動かない……。
「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」という言葉。
そしてその言葉とまったく符合しない二人の行動(非行動)。
第一幕のこの終わりの場面は、第二幕でも見事に繰り返されて、
幕が下ろされてるけど、『ゴドー』ではどの言葉も重みを持たない。
その極めつけは、第一幕でずっと無言だったラッキーが突然しゃべりだすシーン。
句読点なくどもりながら機関銃のように連射される言葉は、、
一見抑圧されていたものがどっと噴出してきたかに見えながら、
その言葉は、豊かな感情の吐露でもなければ、深遠な思想の表明でもなく、
ヴラジーミルとエストラゴンのおしゃべりと何ら変わらない。
オートマティックな、意味という重みを欠いた、宙に浮いた言葉。

145 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:44:33
4)『ゴドー』は反復の劇
>実はこの会話は劇のなかで何回も繰り返し反復されていますね。
「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」といいながら、動かない二人。
第一幕と第二幕のラストで反復されるこのシーンに象徴されるように
第二幕は第一幕と同じ構造を見事になぞっている。
(この構造は『モロイ』にもあてはまるね)
エストラゴンとヴラジーミルは無駄口をたたきながら
スリルもサスペンスもないドタバタコメディをやってると
そのうちポッツォとラッキーがやってくる。
彼らが去った後には少年がきてゴドーからの伝言をもってきて、
少年が去ると途端に夜になり、劇の幕も下ろされることになる。

また、劇中に何度も何度もしつこく繰り返される以下の会話。

 エストラゴン「もう行こう」
 ヴラジーミル「だめだ」
 エストラゴン「なぜさ?」
 ヴラジーミル「ゴドーを待つのさ」
 エストラゴン「ああ、そうか」

エストラゴンは特に健忘症のようで、これらの台詞には
「待つこと」と「忘れること」のテーマがある。
ん? ブランショ?(あとで書く予定の《無為》というテーマも含め) 〆

146 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:56:18

>>142-145
SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>とてもCucさんらしい読み!
ありがとうございます! とてもうれしいです!
わたしは劇の台本は苦手なほうなので、きちんと読めたかどうかは
自信がないのですが、わたしなりの「ゴドー」です。

>ちなみに、「哲学の基本は対話」 スレの20は当方。
>のぞいてみたら上のほうにスレがあって、適当に書き込んじゃった(笑
ああ、そうでしたか。ありがとうございます!
たくさんの哲学書を読まれた方ならではの書き込みです。
(わたしのカキコはデカルトの解説書の引用文がほとんど、赤面…)
いつもエールを贈ってくださって感謝いっぱいです。

>でも新しい場所ができてよかったね。
はい。今後の展開がどのようになっていくのか、今、様子をみているところ…。

147 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:56:52

>ベケットが置いたその《しるし》の背後には何もない感じ。
>『ゴドー』――これは《しるし》だけの劇といえるかもしれない。
確かにそう指摘されてみるとそうですね。
ゴドーという救世主を背後にちらつかせながらも、ゴドーは実体を伴わず
ただ飾りだけにすぎない。
ゴドーは《しるし》だけの思わせぶりな存在。

>だから、この劇では時間は流れてないともいえそう。
>ちなみに空間もこの「木」の周囲からまったく広がらない。
時間の流れない異空間での物語。。。
そういえば「木」はキリストが磔にされた象徴とありましたが、キリストは
復活するのですよね。
つまり、「木」=キリストは永遠に年をとらない。永遠の命の象徴。
「木」の周囲から一歩も離れられないふたりは、まさにキリストに魅入られた
永遠の「囚われ人」といえますね。(ブッッァーティー参照)

148 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:57:48

>『ゴドー』ではどの言葉も重みを持たない。
>オートマティックな、意味という重みを欠いた、宙に浮いた言葉。
そうですね。彼らはただただ、《お喋り》をしているだけにすぎない。
彼らの《お喋り》は主題を持たない。
ふと、哲学板で引用した斉藤慶展の言葉を想起しました。

「主題を持つ対話に対し、《お喋り》とは挨拶であり、それははたして
聴き届けられるかどうか定かでないままに捧げられる《祈り》のごときものである。
《祈り》、それは人智を超えたものに対して捧げられる言葉、
遥か彼方の存在するか否かもわからないものに対しての呼びかけの言葉、
聞き届けられるかどうかはまったくわからないいわば賭けのようなもの」

斉藤慶展氏は、《お喋り》は《祈り》のごときものである、と指摘しています。
ということは、このふたりの膨大な無駄話し、とりとめのない《お喋り》は
救い主に向けられた《祈り》の言葉なのでしょうか……?

解説によるとベケットはデカルトを踏まえている箇所もいくつかあるようですが、
引用した斉藤慶展氏はまさにデカルトの解説者です。
「対話」と「お喋り」については説得力があります。

149 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:59:13

>4)『ゴドー』は反復の劇
>ん? ブランショ?
そういえば、「円環」はまさしくブランショのテーマでしたよね。
終わり=始まり、が延々と繰り返されていく。。。
それゆえブランショは「今、終わりと書く」とあえて記しました。(題名健忘…)
そして、先刻読み終えたばかりの「マーフィー」の終わりも「閉門です!」と
強調されていました。

次回を楽しみにしています。

――それでは。

150 :(OTO):2007/02/13(火) 13:40:00
連休中いろいろあったようだな。おおむね状況は把握。Cucおつかれ。
とりあえずここの「楽屋」はおしゃべりノートが順当のようだな。
哲学板であのような雑談を長い期間続けることができたことこそ不思議だった、と
言えるかも知れないなww長き平和の日々に多謝こそあれ、哲学板の対応に遺恨は無い。
未来、何かの拍子にあのスレのログに辿りついた人が、3人の不思議な親密さ、その
「平和」を感じてくれることを祈るばかりである。www

元はと言えば、リアルな「ブツ」を媒介とした、バーチャル以外での接触を
おまいらに試みた、おれの行動が発端とも言える。ふたりともすまないな。

>>129-136
>とてもCucさんらしい読み!
まったくだ!すごいよCuc!よくこの方向にもって行けたな!
おまいの中の「信仰」、「信じる」という心の動きに素朴なリスペクトを感じる。
これとSXYの前半を踏まえて書いてみるよ。今週中に書けるかな。
んじゃまた。

151 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/13(火) 21:59:15

>>150  (OTO)さん

さっそくおしゃべりノートにカキコ、感謝です♪

>連休中いろいろあったようだな。おおむね状況は把握。Cucおつかれ。
いえいえ、どういたしまして。
部外者であるわたしは哲学板にはもうあまり立ち寄ることはなくなって
しまいますが、捨てる神あれば拾う神あり(ん? ちょっとちがうかな…)、
スレ立てできなくても立ててくださる親切な方がいらしたり、
追い出された一方で、迎え入れてくれる板があります。
今回は特に身に沁みました。。。
持ちつ持たれつで、まさに2ちゃんねるの魅力はそこにあるといえましょうね。

>長き平和の日々に多謝こそあれ、哲学板の対応に遺恨は無い。
……正直に言うとね、移動リンク貼られたときヒステリーを起こしました。(恥…)
そして、ものすごく悲しくなりました。どんなに低姿勢で頼んでもだめなものは
だめなのだなあ、と。。。
でも、よくよく考えたら自治の方たちも今までよく見のがしてくれたなあ、
2スレも黙って消化することを許してくれたなあ、と今更ながらありがたいと
思いましたよ。

152 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/13(火) 22:00:06

>未来、何かの拍子にあのスレのログに辿りついた人が、3人の不思議な親密さ、
>その「平和」を感じてくれることを祈るばかりである。www
そうですね。
かつてのわたしが哲学板をROMしていたように、そして、対話を始めたように
別の人たちが、また新たな交流をあの板で始めてくださるといいなあ。

>おまいらに試みた、おれの行動が発端とも言える。ふたりともすまないな。
そんなことないですよ〜、
わたしがもう少しおふたりに見合う哲学の知識を備えていたならば、
たんなる雑談スレには落ちなかったと思います。。。
こちらこそ、申し訳なく思っています。

KEMANAIを宣伝したのはあくまでもわたしの自由意志であり、そうしたかったから。
ほら、わたしの性格、よくご存知でせう?
思い込みが激しく、自分がいいと思ったものは徹底して「いい」と言い張る!
ううむ、、、応為に重なるなあ・・・

153 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/13(火) 22:00:47

>まったくだ!すごいよCuc!よくこの方向にもって行けたな!
>おまいの中の「信仰」、「信じる」という心の動きに素朴なリスペクトを感じる。
ありがとうです♪ とてもとてもうれしいです!

「ゴドー」はねえ、劇中のふたりもちっとも動かないし、いったい何なんだ?
と思いましたね。。。
愚鈍であることは、実はひとつの才能なのではないかと思ったのです。
信仰はあまりに理に聡すぎたり、賢すぎるひとは持ちにくい。
何かを信じるのに理由はいらないんじゃないかと。
はっきり言って理由があるうちはだめなんです。
感情や嗜好、利益を度外視したところに信仰は訪れるのではないでしょうか?
「ゴドー」のふたりは約束をしたから待っている、それだけです。
誰かに認めてもらおうとか、ゴドーから褒めてもらおうとかまったく考えて
いない。彼らにとって約束を守ることは生きる行為そのものなのです。
だから、ふたりは待ちつづける。それが生きることだから。

>これとSXYの前半を踏まえて書いてみるよ。今週中に書けるかな。
楽しみにしていますね♪

154 :(OTO):2007/02/16(金) 12:40:50
書いたぞー!

ドゥルーズから入り書肆山田の後期散文・詩を読み尽くしてから「名づけえぬもの」
「モロイ」「ワット」と逆に読んできた私にとって「ゴドーを待ちながら」はとても
すんなりとした読みやすい作品に思えた。ここには「また終わるために」の荒涼たる灰色の砂漠はなく、
「クワッド」の単純な幾何図形にまで還元された無言の舞台もない。「幽霊トリオ」のように
ただ灰色の壁のアップが5秒間続くことも、ナレーションに音量を調節しろと言われることもない。
舞台には葉のついた木もあり、ぼろぼろの格好はしているものの、
非常に人間くさい二人の男によるコメディを見ることさえできるのである。


155 :(OTO):2007/02/16(金) 12:41:26
その言わんとするところも、いたってシンプルに見える。
神の長き不在に消尽しきった人間達。「大いなる物語」から二千年近くも過ぎ、
その約束の意味さえ忘れられてしまった。辛うじて聖書を憶えている
ヴラジーミルでさえ、イエスよりも泥棒の安否を気にする始末だ。
途中「同じ人間を平然と奴隷のように扱う人間」と「同じ人間に当たり前のように奴隷のように
扱われる人間」が二人の前を通り過ぎていく。それすら大した出来事ではない、
これらすべては我々の現状を表す「しるし」であり、
エストラゴンとヴラジーミルによる何ごとも起こらない「喜悲劇」を笑うことは
われわれの人生という喜悲劇を笑うことと同義だ。
或いはベケットは、「大いなる物語」と我々の、この時間的な距離、そのあまりに遠い距離を
「意味という重みを欠いた、宙づりの言葉」によって計ろうとしたのかも知れない。

にもかかわらず、この戯曲成立の第一義的条件が「ゴドーの再来を信じ、待ち続けること」
であることは、Cucが明らかにした通りであろう。であれば、やはりゴドーは神である。



156 :(OTO):2007/02/16(金) 12:41:57
しかし現時点で読んで感じるのは、もはやゴドーはキリスト教の神だけを示すものではなく、
神一般、もっと拡大すれば世界各地の神話さえ含む「大いなる物語」一般を示すことに
なるのではないか、ということだ。現代の我々の、聖なるものからかけ離れた日常、
その失墜は決して悲劇ではなく、やはり喜悲劇であり続ける。
どれほど混乱してはいても、我々は心の奥では「何か」を待ち続けているのであろう。
具体的には想像も出来ないような何か、「大いなる物語」を。
その期待が我々をしてときにポジティブな、ときにネガティブな笑いに導く。

「ゴドーを待ちながら」は具体的に進行する物語でありながら、
「背後には何もない」純粋な我々自身の人生の「範例」として機能するようにも感じた。
これは不条理劇ではない。あるいは我々の人生はすべて不条理劇である。


157 :(OTO):2007/02/16(金) 12:44:17
それにしても、私がいままで読んだ《全ての》ベケット作品に対して感じる、
「完成感」とでもいうものを、「ゴドー」にも感じる。なんと言えばいいのだろう。
その作品に一語さえ足すことも引くこともできない、といった感覚。
常に物語の可能性を細部に至るまで、順列組み合わせを網羅することによって
消尽させていく強迫的な行為。数学的ともいえる「くりかえし」によって
徹底的に語の、行為の可能性を塗りつぶしていく。
かといってそれは過剰にも陥らない。必要最低限の繰り返しをなんとかやり遂げた
ポイントで終わる。端正に書き上げられたプログラムのような美しさを
私はベケット作品に対して感じている。
これはファンのひいき目なのだろうか?



158 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:30:39
>>154-157 (OTO)さん

静かでありながら、力のこもった緻密な感想文、ありがとうございました。
詩のような美しさが漂う簡潔な文章ですね。
いつもながらのきっちりと構築された洗練度の高さを今回も感じましたよ。

>途中「同じ人間を平然と奴隷のように扱う人間」と「同じ人間に当たり前のように
>奴隷のように扱われる人間」が二人の前を通り過ぎていく。それすら大した
>出来事ではない、これらすべては我々の現状を表す「しるし」であり、
実に鋭い読みですね!
イエスは「神の前では皆等しく平等である」と説きましたが、当時も、また、
二千年経た今でもこの世は不平等がまかり通っており、支配するものと
支配されるものの二極化は一向に変わりません。
優劣の差は財力の有無に始まり、知力、体力、精神力あらゆるものに及びます。

この劇で大差ないと思えるふたりにおいてもそうです。
あるときはヴラジーミルが優位に立ち、また別のあるときにはエストラゴンが
優位に立つ。

159 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:31:24

ところで、この劇において、なぜ「ふたり」なのでしょう?
ゴドーを待つだけならばひとり芝居でも充分でしょう。

ふたりであることによって成立しうるもの、それは「対話」、「お喋り」。
ベケットはふたりに全編に亘って無駄話をさせていますが、際限ないお喋りこそが
ふたりであることによって成り立つ要素のひとつではないでしょうか?

そして、もうひとつは(OTO)さんによって指摘された「支配と被支配」の関係。
これもひとりだけでは成り立ちません。
「私」と「他者」がいて初めて優劣は認識され意識されるのです。
この劇で「支配と被支配」の関係は、ポッツォとラッキー、順位は入れ替わるけれども
ヴラジーミルとエストラゴン、そして、羊飼いの少年と彼の兄。
支配から唯一自由なのはゴドーのみ。

160 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:31:56

>どれほど混乱してはいても、我々は心の奥では「何か」を待ち続けているので
>あろう。

そうですね。
大いなるものがどのような存在かは知らないけれども、人間は悲劇に
見舞われたとき、瞬間的に祈ります。奇蹟を願うのです。
祈りの対象が誰に向けられたものかは具体的に明示できなくとも、祈りつづける
のです。支配していた人も、支配されていた人も等しく祈るのです。
どのような立場に置かれた人でも、祈りだけは万人に平等に与えられた行為
なのですね。
誰も奪うことはできません。

161 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:32:37

>「ゴドーを待ちながら」は具体的に進行する物語でありながら、
>「背後には何もない」純粋な我々自身の人生の「範例」として機能するようにも
>感じた。これは不条理劇ではない。あるいは我々の人生はすべて不条理劇でる。
たいていの人々は、人生が不条理であることをとうに知っていますね。
観客はそれゆえにお芝居を欲します。
うねるような大きな出来事がいくつも起こり、最後はハッピーエンドもしくは
勧善懲悪を望みます。それは、現実が不備であればあるほど期待が高くなる
でしょう。
「ゴドー」がリアルなのは、すごいことが「何も起こらない」からです。
現実のわたしたちの人生と同じように、、、
リアルでないところは、ふたりが最後の最後まで待つことをやめないこと。
この劇のクライマックスこそが、実はもっとも劇的な一瞬。
現実の人生を生きているわたしたちは、待つことはとうにやめてしまっています。
こころのどこかで何かを待ち望んでいるにしても、日々の生活をしていくため
待つ行為そのものを放棄せざるを得ないのです。

ベケットがこの劇で描いたリアルであることは、ふたりに「何も起こらないこと」、
そして、非リアルであるのが、ふたりが「待ちつづける行為」。

162 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:33:13

>必要最低限の繰り返しをなんとかやり遂げた
>ポイントで終わる。端正に書き上げられたプログラムのような美しさを
>私はベケット作品に対して感じている。

わたしはまだ2冊しか読んでいないので、大きなことは言えないのですが、
「ゴドー」はまさに繰り返しの劇ですね。
まったく計算していないようないきあたりばったりかと思うと、要所要所に
羊飼いの少年やら、ポッツォとラッキーを登場させています。
彼らが去って行ったあと、ふたりは必ず「もう行くよ」と言いつつも動かない。
まるで、羊飼いの少年もポッツォとラッキーもふたりにこの同じせりふを
言わせるために登場するかのようです。
そして一本の「木」。木はふたりの人生を見つづける唯一の傍観者。
言ってみれば、カメラアイ。神の目。
この木から離れたら、彼らの人生はたちまち消滅してしまうでしょう。

この劇で何かが起こることを誰よりも強く望んでいたのは、実は「ゴドー」を書いた
ベケットその人であったのではないでしょうか……?

163 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 00:41:15
>>146-149
>彼らはただただ、《お喋り》をしているだけにすぎない。
フランスのデ・フォレという作家が、タイトルもずばり、
「おしゃべり」という小説を書いたけれど、《声》を伝えるには
きっと《お喋り》というスタイルがふさわしいんだろうね。

>ベケットはデカルトを踏まえている箇所もいくつかあるようですが、(略)
ベケットは初期の頃、デカルトをモチーフにした詩も書いてて、
若い頃は哲学を多少かじってたみたい。

>(斉藤慶展氏の)「対話」と「お喋り」については説得力があります。
まるでこっちのスレとあっちのスレについての言葉のようだね。

>読み終えたばかりの「マーフィー」の終わりも「閉門です!」と
>強調されていました。
終り――これほどベケットが好んだ言葉もないかもしれない。
そういえば、文字通り「終り」という短篇もあるし、
「エンドゲーム(勝負の終り)」という戯曲もあるけど、
その《終り》は何度でも繰り返される終わらない終り。
だから「また終わるために」ベケットは書く。
そしてその書くという行為は終わらない。

164 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 01:10:49
>>154-157
これまでの書き込みからの引用を適切に交えながら、
他のベケット作品にも目配せをしつつ、端正にまとめられた書き込みだね!
これに「足すことも引くこともできない」けれど、少し接木してみよう。

>ドゥルーズから入り書肆山田の後期散文・詩を読み尽くしてから
>「名づけえぬもの」「モロイ」「ワット」と逆に読んできた(略)
「ゴドー」が未読だったのは意外だけど、ほんと逆行してるね。
ドゥルーズ『消尽したもの』から入っていくとそうなるのかな。

>であれば、やはりゴドーは神である。
>神一般、もっと拡大すれば世界各地の神話さえ含む「大いなる物語」
>一般を示すことになるのではないか、ということだ。
同郷のジョイスの秘書をしていただけあって、
「大いなる物語」への意識はあったんだろうね。
――これまでの文学(小説や戯曲の形式)に対する意識も含めて。
ベケットが生まれたアイルランドのケルト神話も含めれるかな。
同じアイルランド出身の作家フラン・オブライエンという人に
『第三の警官』というとてつもない変な小説があるんだけど知ってる?

>その作品に一語さえ足すことも引くこともできない、といった感覚。
なんかサントリーの「山崎」のCMを思い出しもするけれども(笑 
でも、ホントその通りだね。『ワット』まではまだ冗長な部分があったけど、
1950年以降の作品は研ぎ澄まされたというか磨き抜かれたというか、
そんな感じがあるけれども、晩年はさらにそれを極限まで研いで磨くわけだから、
そのストイックな精神は凄まじいね。

165 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 23:03:40
>>143-145の続きをもう少し。

5)『ゴドー』は《人類》の劇
>純粋な我々自身の人生の「範例」として機能するようにも感じた。(157)
この劇に、極端に抽象化された一人ひとりの人生を見ることができ、
それと同時に、人類そのものの様態をも見ることができそうだね。
ニーチェのいう「神の死」が世界に広まった現代にあっても
それでも人類がこれまで保ってきた「神」への眼差しだけは残る。
「今日ただいま、この場では、人類はすなわちわれわれ二人だ」という台詞で、
彼ら二人が人類を象徴していることが明示的に語られてもいるし、
Vladimir(露)、Estragon(仏)、Pozzo(伊)、Lucky(英)という
登場人物たちの名前に国際性を感じることもできそう。

名前といえば、彼ら二人がお互いを呼ぶときに愛称が使われていて、
Estragonの愛称はGogo、Vladimirの愛称はDidiだけれども、
この二人の愛称を足すと「GODI」。ここで推測してみる。
もしかしたらゴドーは彼ら自身じゃないのか? ということを。
彼らは彼ら自身を、彼らの中にあるものを、待ち続けていることになる。
――これはひとつの読みの可能性でしかないけれど。

166 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 23:11:47
6)『ゴドー』は《無為》の劇
>ベケットがこの劇で描いたリアルであることは、ふたりに「何も起こらないこと」、
>そして、非リアルであるのが、ふたりが「待ちつづける行為」。
この劇には「待つ」という行為だけがあって、彼らが何のために待ってるのか(目的)、
どうして待つようになったのか(理由)、いつまで待つのか(期限)は不明。
わかっているのは「ゴドー」と呼ばれる者を待っていることだけ。
しかし、その「ゴドー」が何者なのかはさっぱり説明されない。

>ゴドーという救世主を背後にちらつかせながらも、ゴドーは実体を伴わず(略)
ここには「待つ」という行為だけがあって、待ち人は不在のまま。
ポオの『盗まれた手紙』のように、不在によって存在感を示す方法もあるけど、
ここではそういう逆説的に照明をあてようとしてるわけでもなくて、
スポットが当てられるのは二人の「待つ」という行為のみ。
「待つ」という行為のほかは何も起こらない劇であり、
悲劇でもなく喜劇ともいえないような《無為》の劇。
でも実は、ここでは従来の劇では起こらなかった革命的なことが起こってる。
――「何も起こらない」という出来事が起こっている。絶え間なく。

※ここで、ブランショのキーワードのひとつ《無為》を参照しつつ、
(もちろんナンシーのキーワードでもあるけれど)
ブランショの「来たれ、来たれ」という言葉とともに
デリダのいう「メシアなきメシアニスム」という概念を
ベケットの「ゴドー」につなげてみたいとふと思ったのだけれど
今そこに踏み込むのは荷が重過ぎるので、とりあえず断念。 〆

167 :(OTO):2007/02/21(水) 16:56:52
今回はおれは二人に導かれたみたいなところがあって、書きやすかったな。
>>158
ゴドーを待つ二人とは関係のないところからやってきて、去っていく
ポッツォとラッキーはいろいろ考えさせられる「しるし」だな。
指摘した支配・被支配関係は表面上からすぐ思いつくものだが、
すぐに階級、差別、資本主義、植民その他の様々な派生問題が頭に浮かぶ。
面白いのはポッツォのありふれた支配の荒廃よりもむしろラッキーの
突き詰められた被支配の姿だなww

>>159 >>165
ふたりというのは集団を表す最小単位だとも言えるよな。
しかし男同士wこの頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
それが完全に作品に組み込まれるためには「伴侶」の老女を待たねばならない。
ヴラジーミルとエストラゴンのおしゃべりは極度に消尽された、
「全生活」を示す「しるし」かも知れないね。結局のところ意味がないw
だけど意味のないおしゃべりにも楽しさは生まれる。

女性の非存在と、告知する天使=少年のモチーフで「幽霊トリオ」を思い出した。

>>160
以前他板で「神」という概念の起源を考えたことがあって、その時思ったのは
神よりも「祈り」が先に存在したのではないか、ということだった。
原始の、まだ神を持たない人間が、何か極限的な状況に追い込まれ、
「死なないでくれ!」とか「雨降ってくれ!」とか祈る。
祈る対象を未だ持たぬ状況で、それでも自分にとって、自分のコミュニティにとっての
善き未来を「祈る」。そこから「神」が生まれたのでは無いか、と。


168 :(OTO):2007/02/21(水) 16:58:04
>>161 >>145
エストラゴンは待つことさえ度々忘れてしまうww
この待っていることさえ忘れてしまうくらい待ち続けている、
というのがこの二人の、そして我々の喜劇の始まりだなww

>>162
>この劇で何かが起こることを誰よりも強く望んでいたのは、実は「ゴドー」を書いた
>ベケットその人であったのではないでしょうか……?
あるいは書く「動機」だったかも知れないな。

このような状況下で笑いが生まれるということはどういうことなのか、という
考察の結果とも見える。

>>164
「第三の警官」ははじめて聞くタイトル。タイトル聞いただけで読んでみたくなるなww

>1950以降の作品は研ぎ澄まされたというか磨き抜かれたというか、
>そんな感じがあるけれども、晩年はさらにそれを極限まで研いで磨くわけだから、
>そのストイックな精神は凄まじいね。
逆行してみると「名づけえぬもの」が通過儀礼だったような気がするな。どうだろ?

>>166
>でも実は、ここでは従来の劇では起こらなかった革命的なことが起こってる。
>――「何も起こらない」という出来事が起こっている。絶え間なく。
まさしく。最早感情移入し、しばし自らの生活を忘れさせてくれるドラマは無く、
観客は劇場と戯曲を意識し続けるしかない。
エストラゴンは途中でトイレに行っちゃうしねww

169 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:05:25

>>163 -166
SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>《声》を伝えるには
>きっと《お喋り》というスタイルがふさわしいんだろうね。
そうですね、モロイはまさにその《声》を聞くために旅に出る物語です。
《お喋り》は互いに声を伝え合う行為。主題や内容などなくてもいいのですね。
《お喋り》をするという行為は、相手が存在していることを確認しあうこと。
こちらが声を発する、するともう一方が声に応える。
「ゴドー」におけるふたりは、まさに互いが互いの存在をどうでもいい《お喋り》で
確認しあう物語なのでしょうね。

>ベケットは初期の頃、デカルトをモチーフにした詩も書いてて、
>若い頃は哲学を多少かじってたみたい。
なるほど。だから「対話」をうんと崩した《お喋り》に行き着いたのかな……?

>その《終り》は何度でも繰り返される終わらない終り。
>そしてその書くという行為は終わらない。
この辺、ブランショと被りますよね。。。エンドレス作家の先駆者たち……?

170 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:06:13

>同郷のジョイスの秘書をしていただけあって、
>「大いなる物語」への意識はあったんだろうね。
わたし、ジョイスは読んだことないのです。。。機会があったら読んでみたいです。

>「大いなる物語」への意識はあったんだろうね。
>――これまでの文学(小説や戯曲の形式)に対する意識も含めて。
>ベケットが生まれたアイルランドのケルト神話も含めれるかな。
ケルト神話、初めて聞きます! 興味ありますね。
聖書の言葉をふんだんに引用してあるのはわかりましたが、それとは別に
ケルト神話も下敷きにしてあるとは!

>『ワット』まではまだ冗長な部分があったけど、
ちょうど今、その冗長な『ワット』を読んでいるところです。
言葉遊びやら、何やらかにやら、とにかく時間がまったく流れていない作品です。。。
いや、小説のなかでは時は推移しているのですが、読む側にとっては停滞して
いる印象を受けるのです。

171 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:06:47

>ニーチェのいう「神の死」が世界に広まった現代にあっても
>それでも人類がこれまで保ってきた「神」への眼差しだけは残る。
同意です。
まさに「神の死」からすべてが始まりました。
「神の死」を踏まえて、さらなる「神の復活」へと再生するのですね。
神は何度でも蘇り、「まなざし」で人々をとらえるのです。

>Estragonの愛称はGogo、Vladimirの愛称はDidiだけれども、
>この二人の愛称を足すと「GODI」。ここで推測してみる。
>もしかしたらゴドーは彼ら自身じゃないのか? ということを。
>彼らは彼ら自身を、彼らの中にあるものを、待ち続けていることになる。
>――これはひとつの読みの可能性でしかないけれど。
とても興味深い見解ですね!
なるほど、ゴドー=彼ら自身か。。。
そういえば、典礼聖歌400番「小さな人々」にもそうあります。
「小さな人々のひとりひとりを見つめよう、ひとりひとりのなかにキリストはいる」

172 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:07:32

>わかっているのは「ゴドー」と呼ばれる者を待っていることだけ。
>しかし、その「ゴドー」が何者なのかはさっぱり説明されない。
羊飼いの少年の伝言によれば、「ゴドー」はゴドーさんと呼ばれるいかにも
普通そうな人間。
ふたりの会話から推すと救世主のよう。
「ゴドー」とはもしかしたら、仰ぎ見る存在でもなく、遠くにいる人でもなく
まさに目の前にいる人間のことを指すのかもしれませんね。。。
SXYさんがすでに指摘されたように。
けれども、たいていの人間は目の前にいる人間が「ゴドー」であるとは
気づかない。
エマオへの旅人のように、復活したイエスが旅人を装って、ふたりの弟子に
近づいて話しかけたけれども、ふたりは最後の最後まで、その旅人がイエスで
あるとはわからなかったように。。。
だから、目の前のその人が「ゴドー」であると気づくまで、待ちつづけなければ
ならない。

173 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:08:07

>>167-168 (OTO)さん

>ポッツォとラッキーはいろいろ考えさせられる「しるし」だな。
そうですね。このふたりが登場していろいろとお騒がせをして、
それから必ずお決まりのセリフ「おれはもう行くよ」、「ああ」と言いつつも
ふたりはそこを動かない。
まるでこのセリフを言わせるために、ポッツォとラッキーが登場させられる
みたいですよね。

>ふたりというのは集団を表す最小単位だとも言えるよな。
>しかし男同士wこの頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
「ふたり」というのは、イエスも弟子たちに勧めた単位でした。
布教に行くときは、必ずふたりで行くようにと説きました。
それは、いろいろな理由があるのですが、一番の理由は一人が倒れたら
もう一人が助け起こすことができるという利点からでありました。

174 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:24:27

>しかし男同士wこの頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
>それが完全に作品に組み込まれるためには「伴侶」の老女を待たねばならない。
「マーフィ」は、年上の女性教師と若い娼婦のふたりから同時に愛されるという
設定でありますが、その前提である「モロイ」では老寡婦から一方的に性の捌け口
にされる少年期のモロイが描かれています。
モランは一応結婚していますが、妻は亡くなっており、家政婦の老婦人に
抑圧されているという設定です。

どうもベケットはまともな恋愛を知らないというか、知ってはいてもあえて描かない
という偏屈なところがあるようですね。
ベケットの女性像は、女とは男を抑圧し、恐妻家もしくは女性不信に陥っている
感じが伺えます。

>だけど意味のないおしゃべりにも楽しさは生まれる。
そうですね、「ゴドー」においてはストーリーを楽しむのではなく、
観客はふたりのどうでもいい会話に笑ったり、ときには共感したりするのですね。

175 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:25:03

>祈る対象を未だ持たぬ状況で、それでも自分にとって、自分のコミュニティに
>とっての善き未来を「祈る」。そこから「神」が生まれたのでは無いか、と。
同意です。
人は最初に何かに祈ることを覚えたのでしょうね。
祈る対象が何であるかはわからないけれども、祈る対象は人間を超越した存在、
万能であり、われわれの願いを聞き入れてくれる善き存在。
田舎道や、山道で見かける道祖神がありますが、旅の無事を祈る村人たちが
守護神として祀ったのでしょうね。
やはり、何か「かたちあるもの」をこしらえたほうが祈りを捧げやすかったのだと
思います。

以下、『マーフィー』の感想です。

176 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:26:28

ベケット『マーフィー』(白水社)の感想を記します。

この膨大な比喩と注釈に満ち満ちた本書は、意味不明の言葉であふれ
かえり、作者がふざけているのか、あるいは真剣なのか読者は混乱を
きたしてしまうでしょう。
いったい、この作者ベケットはどこまでが本気なのだろう?
おふざけにも度がすぎる、かすかな苛立ちすら覚えてしまうのです。

――マーフィーといるときはしばしば感じることだが、それが発せられたとたんに
死んでしまう言葉を体じゅうにはねかけられたような気持ちになるのだ。
一語一語が、その意味がわからないうちに次にくる言葉に抹殺されてしまい、
結局、しまいには何を言われているかわからなくなる。初めて聴く難解な音楽の
ようであった――(p46)

これはまさに作者に対して読者が抱く思いに他ならないでしょう。
ベケットはつまり確信犯なのですね。
読者が自分の作品に抱くであろう感情を、登場人物のひとりに吐露させている。
さらにまた、混乱を来たし、苛立つ読者の感情を先取りして、その矛先をしかも
自分に向けさせるのではなく、主人公であるマーフィーに向かわせるのです。


(つづきます)

177 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:27:24

マーフィーは「どう見ても人間には見えない」という身体的にも、また精神的にも
顕著な特徴を備えた人物であり、働かず遠縁の資産家の伯父の援助を受け
ながらふらふらと暮らしている人物です。
彼を愛する二人の女性、娼婦のシーリアと彼の教師であったミス・クーニハン。
そして、彼を取り巻くふたりの男たち、ワイリーとニアリー。

――「女たちがマーフィーのどこがいいのか、わしにはわからん。
きみはどうかね?」ニアリーが言った。
「それは彼の――」彼は適切な言葉がなくて口をつぐんだ。
「彼の外科的特性ですよ」ワイリーが言った――(p68〜69)

マーフィーの外科的特性を、解説で川口喬一氏は《異形の者》としています。
マーフィーはその特異な外科的特性ゆえに、店番としても雇われず、
また、外科的特性ゆえに特定の女たちからは熱烈に愛される。。。
いったい、《特異な外科的特性》とはどのような外観なのか……?
ベケットはマーフィーの服装についてはこと細かく記しても、肝心な容貌には
まったく触れていません。


(つづきます)

178 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:28:02

わたしたちは独自でマーフィーの特異な容貌を想像するしかないのです。
まあ、奇形ではないにしろ、ひと目見たら忘れられない強烈な印象を放つ
外貌なのでしょう。。。

特異なのは容貌だけでなく、所作も然り。自分を椅子に縛りつけて呼吸を
止める方法を訓練したり、緑青色の服にレモン色の蝶ネクタイを身につけたり。
はたから見たら「変な人」です。けれども、彼はやることなすことすべてが
いたって大真面目なのです。
通常ならば、この奇妙な可笑しさは笑いを誘うものなのですが、マーフィーに
至っては笑う以前のシロモノというべきでしょうか。。。
あきれるというのでもない、哀れを誘うのでもない、ただただ彼が日々を
無事に過ごせれば読んでいるほうも安心するという不思議な連帯感を
抱かせる人物なのです。

物語はマーフィーを軸に彼ら四人の行動がときに滑稽に、ときに悲痛に
描かれていきます。
マーフィーがシーリアと一緒に住み始めると同時に、彼女は彼に仕事を探す
よう命じるのですが、マーフィーは独自の占い師の命令でないと聞き入れない。
太陽の位置、星回りの位置で彼の運命は開けるという。


(つづきます)

179 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:39:45

昼間は職探しにいくと見せかけて公園でゆっくり午睡し、ハトにエサを与え
夕方定刻になると帰宅する。
この辺りまではマーフィーのだらだらした日常が緩慢に描かれます。
物語が動き出すのは、彼の就職先が精神病院に決まったときからです。
マーフィーはシーリアと暮らしていた部屋を出て、精神病院に寝泊りします。
途中、一回だけ彼は帰りますが、それもシーリアに逢いたくなったからではなく
愛用の椅子を取りに来ただけでした。
彼の愛用している椅子は彼が登場する至る場面で登場します。
椅子フェチというよりも、彼は椅子と一心同体なのではないかと思うくらい、
椅子は彼の一部であり、椅子なくしてはマーフィーも存在しえないかのよう
です。

《ぼくは大世界には属さない、ぼくは小世界に属す》という信条の持ち主である
マーフィーは精神病患者たちに思いがけず絶大的に受け入れられるのです。
他の看護士たちは拒否されても、マーフィーだけは決して拒否されない。


(つづきます)

180 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:00:24

――ここにはじめて、本来ノ場所デ、《狂人も容易に屈服するであろう
目の偉大な魔力的な力》を検証する自由を得て、マーフィーはすでに自分の
体質的特異性について知っているものとそれがいかに調和しているかを知って
満足するのであった。彼が患者たちに対して成功したということは、他の道は
すべてまちがっているという確信だけにささえられて、かくも長い間、かくも
盲目的にたどってきた道に、ついに道標が見えたということであった。
患者たちに対する成功は、彼らのところにたどりつくための道標であった
――(p186)

この描写は美しくちから強いですね。
いわゆる常人とマーフィーの立ち位置が見事に転倒するのです。
マーフィーの持つ、身体的、精神的特異性は正常の人ではなく、ここで初めて
精神病患者たちに受け容れられ、賛同をもって迎え入れられるのです。
患者たちが仮に小世界に属す人たちであるとするならば、マーフィーも彼らと
同じ世界に属する人であり、独特の鋭い嗅覚を持つ彼らはマーフィーに
自分たちと同じ匂いを嗅ぎとったのでしょう。
そういえば、彼を慕うふたりの女性も、ひとりは娼婦、もうひとりは少数民族の
口の大きな(つまり、あまり美しくない)女性であることを忘れてはなりません。
ふたりとも小世界に属しているのですね。
それゆえ、自ら小世界に属すというマーフィーに惹かれるのはごく自然なこと。


(つづきます)

181 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:01:02

患者たちは彼を慕いますが、それは以下のような理由からでした。
――彼らは彼のなかにかつての自分たちを感じ、彼は彼らのなかに
将来の自分を感じていたのだ――(p186)
患者たちは狂人になる前はマーフィーが世間から蔑まれたように、自分たちも
彼と同じような扱いを受けていたでしょうし、またマーフィーはマーフィーで
行く末は彼らと同じになることを漠然と感じていたのでしょう。
ここで重要なことは、たいていの人は将来自分が患者の仲間入りをすることを
不快に思い、恐怖に駆られるはずなのに、マーフィーはそうではない、という
ことです。
それどころか、マーフィーは彼らに親近感や連帯感、共感すら抱いている。
そう、常人には考えられない思考の持ち主であることに注意していただきたい。
理由ですか?
彼は生まれつき身体的、精神的特異性を有しているからです。
といっても、彼はまるきりの狂人ではありません。
身体的、精神的な性向が常人とは著しく異なっているだけなのです。
世間の人たちが偏見を持って見るであろう精神病の患者を、彼は高みから
見下ろさない。自ら意を決して低いところへ降りていくのでもありません。
マーフィーと患者との垣根は最初から存在しないのです。

182 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:01:40

おそらく、これは稀なことであるのでしょう。
特異性を備えたマーフィーだからこそ、できたことといってもいいでしょう。
とはいえ、ベケットは通常の作家のようにマーフィーを決して美化しません。
それは、彼が病院で寝泊りしている屋根裏部屋の描写についても同じ。

――屋根裏部屋の天窓を開けても寒くないときには、星たちはいつでも
雲か霧か霞に隠れているようであった。実は悲しいことに天窓からは、
夜空のもっとも陰気な小部分、銀河の石炭袋しか見えないのだから、
マーフィーのような状況にある観察者、冷たく、疲れ、腹を立て、いらだち
風刺画のように思える組織にいやけがさしている者には、それが不潔な
夜のように見えるのは当然であった――(p191)

天窓から星すら見えない、疲れはてた彼を安息の眠りに誘うにはあまりも
そっけないほどの寒々とした描写、、、
マーフィーの最期はこの屋根裏部屋でガスストーブのガス漏れ事故によって
実にあっけなく亡くなります。


(つづきます)

183 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:02:11

ベケットはマーフィーの最期についても、他の作家がやるように
感動的な描き方はしません。
英雄の死としては描かないのです。
その辺にあるひとつの死、としてのみ描くのです。
世間から蔑まれ、疎んじられ、遠ざけられた狂人と唯一交流できた
「稀有な資質を持った人物の死」としては描かないのです。

ところで、なぜマーフィーは死ななければならなかったのでしょうか?
ようやく特異性を持った彼の天賦な資質が発揮され、開花しようとした
まさにその矢先に。。。
いったい、この唐突ともいえる彼の死はどんな意味があるのでしょう?

――「理由はないのさ。運が悪かったんだ。諦めてくれや」
それ以外に説明のしようはなかった。人間はその程度にいい加減であった。
「オレ」が死ぬのは困るが、「アイツ」が死ぬのなら致し方ないのである。
そしてその現実を認めさえすれば、悼みながらも心は楽になるのに、
多くの人々は、なぜ或る人間が理由もなく死ぬかについて、本来無理な
理由を何とかしてこじつけようとして来たのであった――
『神の汚れた手』・曽野綾子


(つづきます)

184 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:30:40

いつものように患者の世話を終え、小森に全裸で身体を横たえ、
それから疲れ果てて屋根裏部屋に上り、椅子に身体を縛りつけ
音楽や詩を所望しながら永遠の眠りについたマーフィー。
死の間際、彼の脳裏にはどんなことがよぎったのでしょう……?

――私はふと救いを感じた。疲れとはいいものであった。
疲れて来ると、人間は死さえ怖くなくなる。彼もその間、何も考えなかったろう。
それはひたむきで純粋な時間であった。透明で人間的であり、その人の生涯の
最後の一日を飾るのにふさわしい時間だった。私もできれば、自分の臨終の
最後の一日を、そのような自然な充足によって終わりたいと思った――
『紅梅白梅』・曽野綾子

――ひとりの人間が、その最期近くに何を考えていたかを確かめて何に
なるのだろう。誰もが何かを思いつつ死ぬのだ。思ったのは何も彼一人
ではない。彼の死を他人のそれと比べて、決して特別なものとは
思いたくない。彼の死を散華とも思いたくない。
彼の死は、徹底してむだであった。一人の人間が死に値するほどのものは
実はこの世にめったにない。彼は自分の死がむだであることを確認して
死んだ。私はそのことが只、苦しい――『地を潤すもの』・曽野綾子


(つづきます)

185 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:46:19

彼の遺灰は酒場に入ってきた客に腹立ちまぎれに投げつけられ、
ばらまかれて終わりです。
マーフィーの死後、シーリアはふたたび娼婦に戻り老人と凧揚げを見ています。
彼女の心情はいっさい描かれていません。
ただ、風景に魅入っている描写が淡々と綴られているだけです。
「閉門です」という繰り返される門番の声。

読者はこの太字で強調された「閉門です」に、お芝居の「閉幕です」を
重ねるでしょう。
そう、幕は引かれ、お芝居は終わったのです。
「あなたの見ていたのはすべてお芝居ですよ。マーフィーはいかがでしたか?」
皮肉っぽい笑みを浮かべたからかうような調子のベケットの声が今にも
聞こえてきそうです。

マーフィーがこよなく愛した揺り椅子。椅子は部屋のなかで屋根裏部屋で
いつも共にありました。
「ゴドー」においては一本の木がそうだったように、ここでは椅子だけが
彼に最後まで伴い、唯一彼のこころを知っていたであろう「同伴者」です。
そういえば、ブランショも肘掛け椅子が好きでよく登場させていましたね。


――それでは。

186 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/26(月) 00:59:08
>>167-168
>面白いのは(中略)ラッキーの突き詰められた被支配の姿だなww
まるで犬にでも付けられるような名前「ラッキー」。
あの『KEMANAI』で見かけた獣を思い出すね。
GODを逆さつづりにした宇宙服を着てるやつ。

>「第三の警官」ははじめて聞くタイトル。
この作品は絶版でなかなか入手困難だけど、
OTO氏が気に入る本じゃないかなと思った。
とっても変な本だから(微笑

>逆行してみると「名づけえぬもの」が通過儀礼だったような気がするな。
『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の三部作

>この頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
ベケットの作品には、初期の「初恋」という中篇を例外として、
恋愛対象となるような若い女性はほとんど登場しなかった気がするし、
恋愛どころか男女の対話すらもないんじゃないかと思うほどだけれど、
その意味ではブランショよりストイックかもしれないね。
とはいえ、性的なメタファーやスカトロジックな表現は結構あるから、
その意味ではブランショより随分下品なんだけれど。。。

187 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/26(月) 01:04:46
>>169-
>「ゴドー」におけるふたりは、まさに互いが互いの存在を
>どうでもいい《お喋り》で確認しあう物語なのでしょうね。
ベケットの世界は、うらぶれた場末に浮浪者がたむろする雰囲気だけれど、
非常に「枯れた」世界だね。意味はすっぽかされて宙に浮き、
内容がないよう!と叫びたくなるような空虚さに満ち溢れながら、
それでも「形」はしっかりと決めていく、というスタイル。
その形の中に充溢しているのは、絶えず意味を脱臼していく熱意であり、
既存のありふれたコードから絶えず逸れていこうとする意志であり、
そうしたストイックな強度の持続が感じられるところが楽しい。
枯れた世界だけど、見方によっては、その枯れ方が豊饒にも見えてくる。
――あたかも、裸だった木が青々と葉を茂らせた木に変わるように。

今日は時間切れなので、「マーフィー」の感想も含め、
今度ゆっくり読ませてもらうことにするね。  〆

188 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/26(月) 01:25:57
あっ、書きかけのまま放り出してた箇所があったので、>>186に追記。

>逆行してみると「名づけえぬもの」が通過儀礼だったような気がするな。
最初期の『並には勝る女たちの夢』から最晩年のテクストへの流れを見ると、
本当に徐々に「消尽」していった感じがするね。
『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の三部作以降は、
その傾向が確かに強まってる気がする。
ただし「通過儀礼」というより、すべて「終着点」のように感じるね。
『名づけえぬもの』で行き着くとこまで行き、
さらに『無のためのテキスト(反古草紙)』『事の次第』『死んだ頭』などで、
極北の極北まで言葉を削いでいったかと思いきや、その終点の先には、
さらなる終点『また終わるために』がタイトル通り待っていて、
もうこれで本当に終わったか、地の果てまで来たか、と思えば、
『まだもぞもぞと』みたいな終点の先の先が出てくるみたいな。

189 :(OTO):2007/03/02(金) 19:00:30
>>174
>どうもベケットはまともな恋愛を知らないというか、知ってはいてもあえて描かない
>という偏屈なところがあるようですね。
>ベケットの女性像は、女とは男を抑圧し、恐妻家もしくは女性不信に陥っている
>感じが伺えます。

>>186
>ベケットの作品には、初期の「初恋」という中篇を例外として、
>恋愛対象となるような若い女性はほとんど登場しなかった気がするし、
>恋愛どころか男女の対話すらもないんじゃないかと思うほどだけれど、
>その意味ではブランショよりストイックかもしれないね。

それと「マーフィー」で描かれる女性関係理解の参考になりそうなものを見つけた。
去年本屋でもらった
アイルランド政府外務省文化部発行、ベケット生誕100年記念パンフレット
(なんかすごいだろw)
その中からベケット自身の恋愛に関するところを引用しよう。


190 :(OTO):2007/03/02(金) 19:02:16
生涯を通じ、ベケットは数々の女性の愛と尊敬を得た。
そして、そのうちの多くは友人として長く付き合い続けた。
彼は大学時代に初めての恋に落ちた。その相手はエズナ・マッカーシーという名の、
抗しがたい魅力のある学友で、彼女が初期散文および詩作品のいくつかに登場する
「アルバ」のモデルであることは一目瞭然である。
この恋はベケットの片思いであったようで、
彼女はのちにベケットの終生の友のひとり、A・J・(コン)・レヴェンソールと
結婚した。ベケットの最初の真剣な恋愛は、たいそう彼の両親を恐れさせたことには、
従妹のペギー・シンクレアとのものであった。
彼女は「蹴り損の棘もうけ」の「スメラルディーナ」のモデルである。
1933年にペギーが結核で、1959年にはエズナが癌で死ぬと、
このふたりの女性の早すぎる死はベケットに途方もない苦悩をもたらした。
パリではジョイスの娘ルチア(のちに精神分裂病と診断される)が、
父の家へやってくるこのハンサムで若い訪問者に熱を上げた。
一方的な熱愛による気まずさから、ベケットとジョイス一家の関係は
一時的に途絶えることとなる。

1938年1月6日、パリの通りで明白な理由もなく、ベケットはポン引きに刺された。
ナイフは心臓すれすれであった。大勢の友人や家族が彼の枕元に駆けつけ、
ベケットは母親と和解した。ベケットが病院で回復に向かっている間、
シュザンヌ・デシュヴォー・デュムニール(1901〜1989)が彼を見舞っている。
ベケットとシュザンヌが初めて出会ったのは、10年前のことであった。
ベケットはその頃、アメリカ人の芸術後援者ペギー・グッゲンハイムと
付き合っていたが、シュザンヌとの関係が次第にこの戯れの恋に取って代わった。
ベケットとシュザンヌは1961年にようやく結婚し、
残りの人生をともに生きることとなる。

191 :(OTO):2007/03/02(金) 19:16:51
というように、本人はけっこうモテモテな部分もあったようだww
>>177
たしか「カモメの目」という表現が出てこなかったっけ?
このカモメの目っていうのはベケット本人に対してよく使われる
表現のようだ。アップの画像を見ると、一目瞭然。
http://up.nm78.com/obj/7079
正面
http://up.nm78.com/obj/7080
そしてすこぶるおしゃれw
http://up.nm78.com/obj/7081

すぐ流れるところだから注意。

192 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/03(土) 16:30:02
>>176-185
ベケット『マーフィー』について少し。
>作者がふざけているのか、あるいは真剣なのか読者は混乱を
>きたしてしまうでしょう。
おそらくは、とても真摯に、ふざけているんだろうね。
大真面目な変な人マーフィーそのままに。

Cucさんが適切に引用しているように、ベケットはあえて、
「発せられたとたんに死んでしまう言葉」を登場人物に語らせ、
「その意味がわからないうちに次にくる言葉に抹殺」させることで、
言葉の間接を外し、意味を脱臼させて、不協和音を奏でさせてる。
そう、ベケットは確信犯。
――しまいには何を言われているかわからなくなる。
初めて聴く難解な音楽のようであった――

その不協和音が荒々しく放り出されているところに、
『マーフィー』という作品の弱みと強みがあると思うけれど、
不協和音が決して作品を成功させているとはいえないにしても、
『ワット』を経て『モロイ』や『ゴドー』につながるところの、
後の作品へのステップとしてとても興味深い小説かもしれないね。
「ここでは何が削られていないか」を探りながら読むのも一興。

>マーフィーに至っては笑う以前のシロモノというべきでしょうか。。。
そう、『ワット』になると結構笑えたりするんだけど、
『マーフィー』では笑いを外してるんだよね。
あのへんちくりんなワットウォークは思わず噴き出してしまう(笑

193 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/03(土) 16:33:02
>>189-191
あ、そのベケット生誕100年記念パンフ欲しいね。
引用とリンクありがと。ベケットはかなりガニマタかな?

17歳から23歳にかけての思春期における二つの恋、
エズナとペギーとの恋愛は上手くいかなかったみたいだね。
それにジョイスの娘ルチアの求愛を断ったために、
彼女の精神分裂病が悪化したともいわれ、
エズナを車に乗せて自動車事故にあい、
彼女は重症を負ったりもしたという不運も。

194 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/03(土) 16:45:20
ベケットは20代で彼は実際に精神病院を訪れたり、
自身も友人の勧めで精神分析を受けたりしてて、
精神病院を舞台にした『マーフィー』には、
その体験が色濃く反映されてるんだろうね。

>椅子なくしてはマーフィーも存在しえないかのようです。
屋根裏部屋の揺り椅子はすごく重要な存在だね。
母体回帰願望をそこに読み取ることもできそうだけど、
それには精神分析的な読み、伝記的な読みも必要かな。

ここでいえることは、『マーフィー』という作品自体が、
身体的、精神的特異性を持つマーフィーそのままに、
荒削りでかなりいびつな文学作品として存在してる、
ということじゃないかな。

195 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:45:02

SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>ベケットの作品には、初期の「初恋」という中篇を例外として、
>恋愛対象となるような若い女性はほとんど登場しなかった気がするし、
>恋愛どころか男女の対話すらもないんじゃないかと思うほどだけれど、
>その意味ではブランショよりストイックかもしれないね。
>とはいえ、性的なメタファーやスカトロジックな表現は結構あるから、
>その意味ではブランショより随分下品なんだけれど。。。
ブランショもかなりストイックですよねえ。
女性嫌いかと思うほど、、、何か戒律の厳しい修道院の僧を思わせます。
ベケットは「遊び」はかなり知っているようで、スラングを交えたりして
ひそかに楽しんでいる感じは充分窺えますね。

196 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:45:40

>ベケットの世界は、うらぶれた場末に浮浪者がたむろする雰囲気だけれど、
>非常に「枯れた」世界だね。
バタイユもこうした娼婦がたむろする場末を好んで描きますが、非常に猥雑な
世界です。
ベケットにはそうした猥雑さがあまり見られません。
省けるものはどんどん省いて、必要なものだけ抽出していく感じ。

>もうこれで本当に終わったか、地の果てまで来たか、と思えば、
『まだもぞもぞと』みたいな終点の先の先が出てくるみたいな。
ベケットの作品の特徴のひとつですよね。
終わりまで読んで、実はその終わりが最初に繋がっているという。
彼はきっぱりと「完」という終わらせ方はしない。
まあ、小説というものは多かれ少なかれ必ず「その後」を予想するように
締めくくるのが通常なのですが、、、

197 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:46:14

>そう、『ワット』になると結構笑えたりするんだけど、
>『マーフィー』では笑いを外してるんだよね。
>あのへんちくりんなワットウォークは思わず噴き出してしまう(笑
独特のヨタヨタ歩きはチャップリンをほうふつさせますよね。
赤い大鼻とか、とにかくへんてこりんな容貌を全面に出すことでワットの
可笑しさは充分伝わってきます。

>屋根裏部屋の揺り椅子はすごく重要な存在だね。
>母体回帰願望をそこに読み取ることもできそうだけど、
母体回帰願望、なるほど! 揺り籠の頃への願望が揺り椅子に執着して
いるのですね。確かにベケットの主人公たちは必ず「母の部屋」や「母の名前」
「母の町」のいずれかを口にしていますね。
それも、母に溺愛されたというのではなく、むしろ逆の感情、、、
淫売とか、そういう蔑んだ呼称で母の描写をしています。

198 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:46:51

>ここでいえることは、『マーフィー』という作品自体が、
>身体的、精神的特異性を持つマーフィーそのままに、
>荒削りでかなりいびつな文学作品として存在してる、
>ということじゃないかな。
そうか、マーフイ=ベケットの提唱するいびつな文学作品、なのですね?
決して形は整えておられず、あえていびつなままにはみ出したままに
描かれた作品。それがマーフイ。
なかなか実験的な小説でありますが、ベケット自身は実験小説だとは
思いもせずに書いていたのでしょうね。
なぜなら、彼は確信犯であると同時に能天気な実行犯でもあるのですから。
書いている本人はいたって大真面目で、あちこち歪みが出ていることにすら
まったく気づかない、、、
いや、気づかないふりをしているだけなのか……?
だとしたら、ベケットはかなりの食わせ者の役者ですね。
まあ、そこが他の作家と一線を画しているところであり、魅力といえば魅力な
わけですが。

199 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:47:24

(OTO)さん

ベケットの華やかな恋愛談、ありがとうです。
なかなか女性にモテた人のようですね。。。
ただ、初恋の女性が彼の親友と結婚してしまったのは、当時の彼のこころに
陰を落としたであろうことは想像に難くないです。。。
その上、妻に先立たれ、初恋の女性も病死となれば、通常の作家たちのように
恋愛ものを書く気になれなかったのも頷けます。

ベケットの画像、拝見しました。
う〜ん、眼光が鋭い! 何か気難しそうな感じ。。。
インテリで神経質そうな男性は、ベケットの周囲にいた女性たちには
すこぶる魅力的に映ったのでしょうねえ、、、

200 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/16(金) 00:05:55
>>195-199

>主人公たちは必ず「母の部屋」や「母の名前」
>「母の町」のいずれかを口にしていますね。
鋭い。そういえばそうかもしれないね。
母に向けての意識にはアンビヴァレンツなものがあるようで
単純な母体回帰願望じゃないかもしれないけれどね。

>あちこち歪みが出ていることにすらまったく気づかない、、、
>いや、気づかないふりをしているだけなのか……?
たぶん確信犯なZIGGY(歪んだ)野郎なんだろうネ。
デヴィッド・ボウイ並みかな?

で、あえて作品をカオス(混沌)状態にさせてもいる感じ。
――「すばらしいガス、たぐいないカオス」――
マーフィーが最後にガスで死んでしまうのもおそらく狙いのうち。
カオスとガスをかけてるのは間違いなさそう。

>ベケットは「遊び」はかなり知っているようで
隠語、常套句、地口、造語、捩りなどなど、
初期の作品は特にパロディ精神にあふれてるなぁ。
ちょっとあふれすぎだけど(笑

Cucさんが、それからOTO氏もどこかで書いていたと思うけれど、
『マーフィー』には聖書からの引用が頻繁に見られるけれど、
――「太陽は、しかたなしに、あいも変わらぬところを照らしていた」――
という冒頭の出だしからしてそうだね。
《太陽の下に新しきものなし》という言葉のアイロニカルなパロディ。

201 ::2007/03/16(金) 00:08:13
Bさん、こないだのあの本読みましたか?

202 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:25:24

SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>>200
>母に向けての意識にはアンビヴァレンツなものがあるようで
>単純な母体回帰願望じゃないかもしれないけれどね。
そうですね、母を慕うというよりは逆の感情、嫌悪や忌避感が窺えます。
まあ、それらは突きつめれば「母に愛されたい」という感情の裏返し
なのでしょうがね。。。

>たぶん確信犯なZIGGY(歪んだ)野郎なんだろうネ。
>デヴィッド・ボウイ並みかな?
おおっっ! ボウイが登場しましたね♪
そう、ベケットってものすごい確信犯で知能犯。
ボウイが自身の美貌を知り抜いているように、ベケットも女性にモテモテゆえに
そうした慢心が歪みとなって出ているような気がします。
まあ、ボウイはストイックかつ精進の人であり、それゆえ彼の美貌、歌は嫌味には
ならない。男女ともに受け容れられている感じがしますね。
(ちょっとひいきしすぎ……? だって青い瞳と金髪の王子さまのルックスだも〜ん♪)
ベケットは博識なのは誰もが認めるけれども、博識ゆえの言葉遊びは時として
鼻についてしまうのですね。羅列の面白さとか暗喩の絶妙さは認めるけど。。。

203 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:25:59

実際、翻訳者があとがきで「膨大な言葉遊びの羅列など、おそらく読者は読み
飛ばしてしまうであろうが、翻訳する側はそうはいかない」と嘆いていましたから。

わたしがベケットの描写でとりわけ好きなのは、幾つかの例外は別として
主人公の男たちはたいていは野原や森のなかを徒歩で旅するところ。
溝のなかで月光を浴びながら野の花に囲まれて眠り、森の小川で水を飲み、
火を炊き、干し肉や硬いパンを食べ、あてもなくてくてくと歩きつづけます。
星を仰ぎ、うろ覚えの聖書の言葉を口に出して祈り、ぶつぶつと独り言を
呟きながらただひたすら歩きつづけます。
彼らは一様に目的らしいものはいっさい持たない。
けれども、歩くのをやめない。左右ちぐはぐな靴を履き、足の痛みをこらえつつ
それでも歩く。
精神病者である彼らは生きる意味も、人生の意義も求めない。
言葉の意味も求めない。真理も求めない。幸福さえも求めない。
彼らの内面に流れているのは、悲しみや怒りを通り越したシンプルな感情。
おしゃぶりの石を味わっているときのような、無心な感情。

204 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:26:38

それは、博識であるがゆえに、生涯ベケットが浸れなかったであろう境地。
彼は作家として膨大な言葉を求め、散りばめ、操る。
一方、そんな自分を見つめるひとつの無垢なまなざしがある。
まともな言葉を話せず、意味不明のことしか口に出せない人の無心ともいえる眼。
彼らは言葉に憤らない、言葉を嘆かない、言葉に頼らない、、、
ベケットはそんな彼らに実はひそかな羨望を抱いていたのではないでしょうか……?

>――「太陽は、しかたなしに、あいも変わらぬところを照らしていた」――
>という冒頭の出だしからしてそうだね。
>《太陽の下に新しきものなし》という言葉のアイロニカルなパロディ。
ああ、なるほど! 指摘されてみればそのとおりですね!
ということは、《太陽は悪人の上にも善人の上にも等しく照る》という聖書の語句は
「太陽は知者にも狂者にも等しく照る」ということなのかな。
モロイやワット、彼らの上にいつも太陽は降り注いでいましたね。。。

205 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:27:12

「マーフィー」の《特異な外科的特性》=《異形の者》についての補足。
来たるべき救い主、つまりキリストの外貌についてイザヤはこんな預言を
しています。
どこか、マーフィーをほうふつとさせます。。。

――彼の顔だちはそこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なって
いたからである。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき
美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また、顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。
――イザヤ52.14-53.7

206 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:28:41

>>201 Aさん
>Bさん、こないだのあの本読みましたか?
「KEMANAI」ならば、とうに読みましたよ。

☆☆お知らせ☆☆

え〜、ROMされているみなさま、中野ブロードウェイの「タコシェ」にて
SFイラストコミック「KEMANAI」が絶賛発売中!
http://www.tacoche.com/

男の究極のロマンとは? 孤高のKEMANAIの生き方にあなたは失われた武士道、
サムライ魂を見るだろう。
真の男は自分の胸のなかにある大切なもののためにだけ闘う。
それが男の美学だ。
敵の数が多くとも日本刀一本のみで立ち向かう。よく生きよりよく死ぬために。

KEMANAIの容貌は高倉健に似ているかって? いえいえ、これが実にユニーク。
こればかりは購入して絵を見ていただかなければご説明できませんねえ・・・
クールなだけじゃなく、ちょっとお茶目さんでもあるのです♪
やっぱりイイ男には意外なギャップがあるものです。

みんなで「KEMANAI」を読もうね〜♪♪ ふるる♪

207 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:20:57

『モロイ』の感想を記します。

第一部、モロイが母の町へ向けて旅する物語。
第二部、モランがモロイを見つけに行く物語。
この物語は二部構成で書かれており、解説によれば、モロイ=モランであり、
第二部が終わった時点で再び第一部の最初に戻ってくる構成をとっている
とのことです。
確かに、モロイとモランは姿、格好、片足が不自由なことは酷似しており、
また、息子がひとりいることなど踏まえてみてもこのふたりは実は同一人物
であると読むのが妥当なのでしょう。

……わたしは、解説とは違った読み方をしていました。
第二部を読みながら、モランはモロイによく似ているな、と思いつつも、
やはりふたりは別人なのではないかと。
といいますのは、第一部でモロイが田舎道で山高帽を被ったふたりの男を
目にする場面があるのですが、解説によれば、このふたりの男は「ゴドー」の
ふたりに相応するらしいですね。
これについてはわたしも同意です。
解説ではそれ以上触れてはいませんでした。
わたしなりにつけ加えるならば、モロイとモランのふたりこそが、その後の
「ゴドー」のふたりなのではないでしょうか?
つまり、モロイは自分の行く末を演じるひとりの男と、相棒のもうひとりの男を
夕暮れの景色のなかで見たことになります。


(つづきます)


208 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:22:04

それ以来、モロイはふとしたときにあのふたりの男に思いを馳せるのですが、
その理由が何なのか、今のモロイにはわからないのです。
ペケット自身、そのときはモロイとモランのその後のふたりを劇に登場させる
など露ほども思っていなかったでしょうから。
ただ、漠然とではあっても、モロイとモランというふたりの人物を軸にして
今後何らかの展開をさせてみたいとは思っていたかもしれません。

「ゴドー」のふたりの人物も恐ろしいほど酷似しています。
どちらが言ったせりふなのか、名前がふってなければわからないほどです。
それほど「ゴドー」のふたりは思考もお喋りの内容も大差ないのです。
通常ならば、相反するキャラクターをもってきて、対照的に際立たせるのですが
ベケットはそれをしない。
どちらがどちらであってもまったく支障のない劇でした。。。

「モロイ」は、「ゴドー」同様、取るに足らないことをくどくど、延々と冗長に
緩慢に並べ立てています。
それも他の作家がよくやるように、その取るに足らないことに、ことさら
意味づけしようとはしません。
意味のないことに意味を見出すという建設的な作業を放棄します。
取るに足らないことは、そのままどうでもいいこととして書き切るのです。


(つづきます)


209 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:22:37

例えば大きな視点で人生を描くブッツァーティならば、瑣末なことのなかにも
人生の意味を見出し、単調な日々にこそ人生の真理があると描きます。
ところが、ベケットはそれをしない。
なぜならベケットは非情な眼の作家であり、観客の期待を最後まで叶えず、
読者の願望に添わない書き方をするのです。
ベケットは読者に甘い夢を決して見せない作家です。
それは、ベケット自身人生が何たるかを知っていて、希望や夢が容易には
叶えられないこと、世の中に期待などしないで生きることこそが真の人間
であることを暗黙のうちに示唆しているかのようです。
ベケットは辛辣で皮肉屋なのでしょうか?
いえ、そうではありません。
彼はリアリストなのですね。
これまでのお芝居、小説、どれもみないかにもつくりごとでお芝居めいていて、
観客も読者もそれを承知でつくりごとの世界に身を投じていたのです。

「そうした作家の立場に根本的な疑問を提示したのがいわゆるアンチ・ロマン
の人々だとしたら、ベケットはその先駆者と言えるかもしれない」
訳者の安堂信也氏は解説で上記のように述べています。


(つづきます)


210 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:23:07

「モロイ」について少し述べようと思います。
読み終えて思ったこと、これは巡礼の物語ではないでしょうか。
巡礼とは、聖地を巡るという宗教的行為のことを指します。
聖地とはどこか。モロイの言葉を借りるならば「終わっている世界」への旅。
一見するとモロイは母のいる町へ向けて旅をしているようですが、
どうやらその母はすでに死んでおり、正直言ってモロイにとって母の生死など
問題ではないのです。
そして第二部では、モランがモロイを見つけるために出発します。
つまり、モランもモロイを経由して巡礼の旅に出たのです。

――常に事物は朝の記憶も夕べの希望もない日の光の下で、傾いたまま
終わりのない地すべりに流されていくのだ。(略)
それは外見とは違い終わった世界だ。それの終わりが出現させた世界だ。
それは終わりながらはじまったのだ。そして、わたしもそこにいるときは
終わってしまっている――(p56〜57)

モロイは自身を終わってしまっていると自覚しながら、尚も「終わっている世界」
へ向って巡礼に出るのです。


(つづきます)


211 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:23:38

前半ではモロイが今は亡き母の部屋でこれまでの巡礼を回想します。

モロイは母のいる町へ向って旅をします。
道中、田舎道でふたりの男に出逢い、モロイはその後よくこのふたりに
思いを馳せます。このふたりについては先に書いたとおりです。
モロイは不審者として警察に尋問され、以後人目を避けるためひと気の
ない森のなかを彷徨いながら旅をつづけます。
老寡婦に乞われしばらく彼女と一緒に暮らすも、彼女の家を出、海辺を
彷徨い、そこでもなぜか老婦人たちに養われます。
モロイは若い頃からこうした老いた寡婦に誘われることが多く、欲望の捌け口
にされました。彼にとって女とは性欲を剥き出しにした淫売以外のなにものでも
ないのです。実の母をさえ、淫売と呼ぶのですから。。。
モロイの老婦人ばかりの異性体験は、彼の人生に幾ばくかの影を落とし
不幸にして同じ年頃の異性と恋愛する機会を失わせ、同世代のともだちを
つくる機会も奪ったようです。


(つづきます)


212 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:51:01

モロイが興味を抱いたのは、地理、天文学、人類学、精神分析学、
そして、最後に行き着いたのが魔術。

――いずれにしろ、そこは神秘の失われていることにより、魔術に捨てられた
のである。(略)そこにいたからといって楽しくもないが、かといってよく知られた
神秘の道具立てができている場所にいるほどの不快を感じないですむような
場所なのである――

モロイは何かに、生きることに、食べることに、愛することに、情熱を傾ける
ということを欲しない人物です。
彼が欲するのは「終わりの世界」、神秘な光に湛えられた静かな動かない
世界。この世における乱痴気騒ぎもあらゆる喧騒も彼の前を素通りしていく。
彼もまたそれらを望まないから、つかまえることもしない。
彼はいつも向うから来るものを「待つ」。
老いた寡婦たちも、森の中で出逢った炭焼きの老人も、すべて向うのほうで
彼に留まってほしいと懇願する。
モロイは受身でしか人生を生きられない。なぜ? 彼自身望まないから。
もっと言うならば、期待するだけ無駄だから、徒労に終わるのが目に見えている
から。モロイは悲しい人だろうか?


(つづきます)


213 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:51:39

では、モロイと外貌が酷似したモランは?
モロイもモランも人目を避けて森の中を旅するのですが、旅の道中のふたりの
思考、行動はまったく異なります。

モランは息子にやたら厳しく、モロイを見つけるよう命令されていやいやながら
旅に出るのですが、結局モロイを見つけられぬまま、道中でいきなり中止命令
を受け、負傷した身体で徒労のまま我が家に戻ります。
モランはモロイとちがって食事にもいちいち注文をつける男です。
モロイほど思索家でもなく、現実的で息子に与えたお金の勘定に細かい男
です。
モロイが好きな地理、天文学とは対照的に、モランは複式簿記と野営に
長けた男。

このふたりのもっとも著しく異なっているところは、モランは攻撃的であり
モロイはあくまでも受身であるところ。
追いかける男と、捕まえられる男。


(つづきます)


214 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:52:40

ところが、このまったく対照的といってもいいふたりの男はひとつの音、
ひとつの声を聴くという点で一致しているのです。

≪モロイが聞いた音≫
――あの遠い息吹をずっと以前に黙りこくってしまった息吹をついに聞くだろう。
だが、それは、ほかの音のように聞きたいときに聞けて、遠ざかるか、
耳をふさげばいつでも黙らせられるような音ではない。
それはどんなふうにか、なぜかもわからないまま、頭のなかでざわめきだす
音なのだ。それは頭で聞く音で、耳はなんの関係もない。だから私が聞いて
いても聞いていなくても同じことだ。いずれにしろ聞こえるのだから――(p57)

≪モランが聞いた声≫
――私に命令、というより忠告を与えてくれるある声のことはもう話した。
それをはじめて聞いたのが、この帰り道でだった――(p258)
――しかし、とうとうその言葉を理解するようになった。私はそれを理解した。
そこで私は家へはいって書いた――(p268)


(つづきます)


215 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:53:40

「マーフィ」、「モロイ」には必ず森が出てきますね。
マーフィが勤務する精神病院をぐるりと囲む森。
最後にマーフィが患者の世話を終えて、全裸で身体を横たえた小森。
モロイが、母の町へ向けて人目を避けて通った森。
茸や木の実を食べ、草の褥で眠りに就いた森。
モランがモロイを見つけ出す命を受けて、息子とともにキャンプをした森。
小枝で隠れ家をつくり、小川の水を飲み、火を焚いた森。

森はあるときには、世間から身を隠してくれ、豊富な食料を提供して
くれます。
また、あるときは背後から敵が音もなく近づく危険な匂いを潜めています。
そして、また別のあるときは、≪声≫をささやくのです。
モロイもモランも、ひとつの≪声≫を聞くために森に招かれたかのようです。
古来、森には精霊が棲むといわれています。
モロイとモランが聞いた≪声≫は精霊の声なのでしょうか?
「大いなるもの」が精霊の声をとおしてささやきかけたのではないでしょうか?
その≪声≫を耳にするものだけが、≪声≫の主と対話できるのです。
マーフィも、モロイも、モランも森の中でささやきかける≪声≫と対話していた
のです。彼らはその≪声≫を聞くために旅をし、果ては命が尽きるまで≪声≫
の主を待ちつづけることになるのです。


(つづきます)


216 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:54:16

モロイとモランの巡礼とは、両者が、≪頭のなかでざわめきだす音≫、
≪ある声≫を聞くための旅だったといえるでしょう。
ヴラジーミルがゴドーと約束したとき聞いたゴドーの声同様、それは、
≪大いなるものの声≫、すなわち≪神の声≫を指すのではないでしょうか?
ゴドー、つまり神はこの世が「終わっている世界」であることをとうにご存知
なのです。
その「終わっている世界」で、神はふたたび自ら呼びかけ給うのです。
モロイに、モランに。ひいては、わたしたち読者に。

「私は家へ入っていって書いた、真夜中だ」
この物語はモランが書き始めることで終わりを告げます。
この書き始めるというラストにシモンの「アカシア」がふと重なりました。
けれども、「アカシア」と異なっているのは、モランが書くのは声の命令による
ところでしょうか。

――報告をしろと言ったのはその声だ――(p268)

モロイやモランをとおして、ベケットははたしてどのような≪声≫を聞いたので
しょう? そして、その≪声≫にどのように応じたのでしょう?
「はい、待ちつづけます」、と答えたのでしょうか……?
待つ行為は、そのまま受諾の行為なのですから。。。

――それでは。


217 :(OTO):2007/03/22(木) 19:19:11
遅レスだがwww
>>193
>あ、そのベケット生誕100年記念パンフ欲しいね。

いいでしょ?ww
この中で知っている名前はペギー・グッゲンハイムだけだな。
彼女は現代美術のパトロンとして有名な「セレブ」でw
映画「ポロック」からその姿を想像することができる。

>>194
それではまた同じパンフから引用

ベケットはしばしばパニック発作や、不安、憂鬱に苦しんだ。
1933年にはこれらの症状がとても激しくなり、精神治療を受けるために
ロンドンへ行く決心をした。そこで彼はほとんど2年にも及ぶ精神分析を受け、
フロイトやアドラー、ランクらによって書かれた精神分析関連の書物も読んだ。
ポートラ・ロイヤル・スクール時代の旧友が医者として働く、ベツレム王立病院を
訪ねてもいる。このベツレム訪問は、小説「マーフィー」と「ワット」における
精神病院の場面に用いられた。精神療法というベケットの個人的な経験の痕跡は、
作品の至るところに見受けられる。そしてそのほとんどが、顔のない聴衆に向かって、
多くの場合暗闇の中で仰向けに寝転んだ話し手が、ある種の錯乱状態でしゃべり続ける
モノローグという形式を取っている。1935年ベケットはロンドンで「マーフィー」を
書き始め、翌1936年6月に完成させた。現代のベケット読者の多くにとっての
出発点ともいえる、この滑稽な着想に富んだ小説はおそらく彼のもっとも実験的要素の
少ない作品であろう。それにもかかわらず、1938年ついにラウトレッジ社から
出版されるに至るまで、実に42回もの出版拒否に遭遇することとなるのだが。

218 :(OTO):2007/03/22(木) 19:19:45
>>199
>う〜ん、眼光が鋭い! 何か気難しそうな感じ。。。

だから上野動物園にそっくりのワシがいるんだってww

>>202
母親、家族に関する部分をパンフから

1906年4月13日の聖金曜日、ベケットはウィリアム・ベケットと
その妻メイの次男として、ダブリンから8マイル南に位置するフォックスロック
という豊かな町で生まれた。
一家は堅実な中産階級のプロテスタントであった。成功を収めた積算士の父ビル・
ベケットは、強壮で親切な愛情豊かな人物であり、ベケットと彼は非常に仲のよい父子で
あった。彼らはしばしば連れだってダブリンの丘やウィックローの丘へ散歩に出かけたもので、
その情景はベケット作品全体に浸透している。1916年のイースター蜂起の際にも、ベケットの
父親は彼と彼の兄を丘の頂に連れて行った。そこから炎に燃えるダブリンの中心地が見えたのだ。
このイメージは死ぬまでベケットの頭から離れなかった。1933年に父親が早く死んだことは、
ベケットの人生にひどい欠乏感をもたらし、彼に重要なテーマ
「人間の苦しみの気まぐれで不当な性質」を与えることとなった。母メイ・ベケットは
愛情深いと同時に支配的で、彼女の「激しい愛し方」は息子の成長に大きな影響を及ぼした。

この、母に関する部分は微妙な表現だなww

219 :(OTO):2007/03/22(木) 19:20:21
>>203
初期ベケットのこのペダントリーは、当時の知識人にはけっこう分かるものだったのかなあ?
まあ注を参照しなくてもなんとなく「皮肉かな?」とかわかる部分はあるが、
これが全部ピンとくる人だったら笑い転げるのかもしれないねww
そして膨大な注は「名づけえぬもの」で消え失せるwww

>>201,206
wwwwさんきゅ。

>>207
「モロイ」も読んだはずだが全然おもいだせないなあww不思議だww
「モロイ」発表の1951年、「ゴドー」は完成していたが初演は53年、
ベケットはまださほど注目されていない時期だな。50年には母親が死んでいる。
そのあたりをまた引用ww


220 :(OTO):2007/03/22(木) 19:21:31
言葉遊びや多用される他の文学作品への言及にジョイスの影響がうかがわれる初期作品
とは異なり、戦後の作品においては知識の披露は控えられ(ほんとかよ!byOTO)
無知、無能、失敗が重要な関心事となっている。ベケットの円熟した文体は、
砲撃のようにように博識さを読者に浴びせるのではなく、声が暗闇から聞こえて
来るような、仮に存在させられた意識が困惑と苦悩の中で自身の当惑を口にしている
かのそうなものだ。この方向性の変化とともに、ベケットはフランス語で執筆する
ことを決意した。そして1946年から50年の「書くことへの熱狂」期がやってきて、
この時期にベケットの著名な作品が多く、すなわち「ゴドーを待ちながら」と
小説三部作「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけえぬもの」が書かれた。

戦時中を除いて、ベケットは毎年夏には母親の元を訪れ、少なくとも1ヶ月は一緒に
過ごしていた。1950年のパーキンソン病による母の死は、予期されたことではあったが、
彼に苦悩と罪悪感をもたらした。ベケットはさらなる悲しみから逃れることのできない
運命にあった。兄のフランクが末期癌であるという報せを受けると、
キラーニーにある兄の家に駆けつけ、1954年の夏の間、兄の最期の数ヶ月をともに
過ごした。その年の終わりに書かれた「勝負の終わり」には、喪失、苦痛、終焉、
恐怖といった感覚が絶えず付きまとっており、「ゴドー」の過酷さを時に和らげていた
主役二人の仲間意識が、ここではかなり欠如している。


221 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 20:31:44
>>202-205 >>207-216
>母を慕うというよりは逆の感情、嫌悪や忌避感が窺えます。
ベケットにおいては、母胎と墓所がパラレルに語られることがよくあって、
「反古草紙」という短篇なんかがそうだけど(『短編集』所収)、
『モロイ』でも、モロイが語るのは母を探してさまよった旅の記録で、
その果てに行き着いたのが、彼がそれを書いている母の部屋のベッド、
それは、死の床ともいえるだろうね。
>読み終えて思ったこと、これは巡礼の物語ではないでしょうか。
>尚も「終わっている世界」へ向って巡礼に出るのです。
母と墓が融合した「墓胎」ともいうべき場所への巡礼は、
「終わり」に向けての旅といえるかもしれない。

>ベケットの描写でとりわけ好きなのは、幾つかの例外は別として
>主人公の男たちはたいていは野原や森のなかを徒歩で旅するところ
こういう視点はほんとCucさんらしいね。
なかなか目に留めにくいポイントだなぁ。

>博識ゆえの言葉遊びは時として鼻についてしまうのですね。
そうそう。42年の『ワット』あたりまでの初期はそうなんだけど、
46年〜50年に書かれた小説三部作などを経過した後は、
OTO氏が>>220で引用したように、ジョイス的言語遊びは次第に影をひそめ、
徐々にいろんなものを極北の地点まで削ぎ落としていく感じ。

>彼らは言葉に憤らない、言葉を嘆かない、言葉に頼らない、、、
>ベケットはそんな彼らに実はひそかな羨望を抱いていたのではないでしょうか……?
ベケットは『名づけられぬもの』やそれ以降の作品では、
言葉を沈黙に近づけ、饒舌とは違うつぶやきとしての言葉にし、
もはや物語や小説とは呼べない詩に近い散文に向かってくんだけど、
言葉を武器にする作家にとっては、なんか自虐的な歩みだね。

222 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 20:43:00
(承前)

>第一部、モロイが母の町へ向けて旅する物語。
>第二部、モランがモロイを見つけに行く物語。
モロイもモランも自分の旅の物語を書いていて、
我々読者はその報告を読むという形だね。
このメタフィクション的な構成がやがて、
『マロウン』以降、三人称ではなく一人称になり、
自分について語る、というスタイルになっていく。。。

>モロイとモランのふたりこそが、その後の
>「ゴドー」のふたりなのではないでしょうか?
モロイとモランは同じ時空にはいないけれど、面白い視点だね。
モロイはマロウンとなり、やがて名づけえぬものに変化するけれど、
ベケット作品にはこれまでの作品の登場人物の名前がよく出てくる。

>ところが、このまったく対照的といってもいいふたりの男はひとつの音、
>ひとつの声を聴くという点で一致しているのです。
モロイとモランを対比させての書き込みは面白かったし、
≪声≫に注意を向けてるところはさすが鋭いなぁ!

>モロイとモランの巡礼とは、両者が、≪頭のなかでざわめきだす音≫、
>≪ある声≫を聞くための旅だったといえるでしょう。
『マロウン』以降、三人称ではなく一人称になって語るのは「わたし」だけど、
それは登場人物というより「声」のみの存在になっていく。
それは神というよりも、墓胎から聞こえてくるような感じかも。

223 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 20:57:23
(承前)

>「私は家へ入っていって書いた、真夜中だ」
>この物語はモランが書き始めることで終わりを告げます。
>この書き始めるというラストにシモンの「アカシア」がふと重なりました。
そういえば、ベケットもシモンもノーベル賞作家(意外にも!)。
プルースト、ベケット、シモンに共通する円環。
そういえばベケットの数少ない文学評論にプルースト論があったっけ。
ただし、ベケットの円環は、ずれている。
――「そこで私は家へはいって、書いた、真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。
真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。」――
「真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。」で終わっていれば、
第二部冒頭の文章に見事に回帰するんだけど、
「真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。」と続き、
前言撤回によって成就するかに見えた円環は一挙に崩れるね。

224 :SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 21:08:43
>>217-220
引用どうもありがとう。
前に話題の出た恋愛体験といい、
肉親との別れ方といい、波乱が多いね。

>声が暗闇から聞こえて来るような、仮に存在させられた意識が
>困惑と苦悩の中で自身の当惑を口にしているかのそうなものだ。
こういう表現にベケットの「墓胎」意識を感じる。。。

>1946年から50年の「書くことへの熱狂」期
この時期にはほかに『短篇と反古草紙』も書かれてるし、
本当に恐るべき5年間といえるなあ。

>「勝負の終わり」には、喪失、苦痛、終焉、
>恐怖といった感覚が絶えず付きまとっており、(略)
兄との死別を考えて「勝負の終わり」を考えると、
あの荒涼とした終末的雰囲気も別の感じ方を迫られるね。〆


225 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:31:22

>>168-169 (OTO)さん

ベケットの家族構成、少年期の両親との関わり合いについての詳細、
ありがとうです。

>ベケットはしばしばパニック発作や、不安、憂鬱に苦しんだ。
>精神療法というベケットの個人的な経験の痕跡は、
>作品の至るところに見受けられる。
一見、言葉遊びに見えるあの意味不明な膨大な言葉の羅列は彼の不安神経症の
現われだったのですね。
解説で「昼は農夫として働き、夜は精神衛生のために書いた」とありましたが、
身体を動かすこと、書くことはまさに精神病者の治療によく用いられる手法ですね。
「マーフィー」は誇大妄想の典型ともいえる人物ですが、働かないときの彼は
まさに病者であるのですが、ひとたび精神病院で働き始めた途端、他の看護士
たちよりかなり「まとも」であることが証明されていきます。
事実、彼はどの看護士たちよりも患者たちに慕われました。
この辺り、ベケット本人の体験がかなり濃厚に反映されているのではないでしょうか?


226 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:32:11

>だから上野動物園にそっくりのワシがいるんだってww
そうでしたか、一度お目にかかってみたいものですねえ。

>一家は堅実な中産階級のプロテスタントであった。
>成功を収めた積算士の父ビル・ベケットは、強壮で親切な愛情豊かな人物であり、
>ベケットと彼は非常に仲のよい父子であった。
仲の好い父親像はモランと彼の息子とのやりとりにも出てきますね。
(但し、モランは息子に干渉しすぎるきらいがありますが……)
ふたりで自転車を走らせ、森で野営する描写はとても好きです。

>「人間の苦しみの気まぐれで不当な性質」
>母メイ・ベケットは愛情深いと同時に支配的で、
父の死がもたらした喪失と大きな悲しみは、彼の人格に深い影を落としたのですね。
父を慕うようには母を慕わなかった少年ベケット。
父とは対照的で威圧し、支配的な母親を嫌っていた少年ベケット。
父を慕い母を厭う少年期のベケットに、同じく父を慕い母を嫌った少女期のロールを
重ねてしまうのはわたしだけでしょうか?
ベケットもロールも裕福な家に生まれ、両者とも母が支配的な人でした。
ロールの「バタイユの黒い天使 ロール遺稿集」のなかで、彼女は母親を
罵倒し、偽善を鋭く攻撃する一方で、早くに亡くなった「青い目をしたやさしい父」に
ついては、在りし日の父との楽しい思い出を少女特有の感傷的な文章で切々と
綴っています。いつもの辛らつさは影を潜め、父に関しての描写は驚くほど
友好的です。


227 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:33:10

少年ベケットと父親がしばしば連れだってダブリンの丘やウィックローの丘へ散歩に
出かけたように、少女期のロールも父と郊外の野原によく出かけたようですね。
父はロールに野の花の名前をおしえ、雲の流れをおしえ、あらゆる意味で
よき人生の師でもあったのでしょう。
それはそのまま少年ベケットと父親にもあてはまるのではないでしょうか?
(現代アメリカ作家のイーサン・ケイニンの短編「スター・フード」の父と息子みたい…)

>彼女の「激しい愛し方」は息子の成長に大きな影響を及ぼした。
ベケットの小説によく登場する苛烈な老寡婦、年上の独身女性教師たちは
彼の母親像がかなり濃密に投影されているといえるでしょうね。。。

>初期ベケットのこのペダントリーは、当時の知識人にはけっこう分かるものだった
>のかなあ?
もともと彼が執筆を始めた動機は「精神衛生」上のためであり、読者をまったく
想定していなかったと思うのですね。
ですから、商業主義的なサービス精神もないし、オチもない。
それゆえ、純粋に書きたいことだけを書き、自分だけにわかることを思う存分
書くことができた、作家として拘束のないもっとも自由な日々だったのでしょうね。


228 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:33:59

>50年には母親が死んでいる。
>そして1946年から50年の「書くことへの熱狂」期がやってきて、
>この時期にベケットの著名な作品が多く、
母親の死を体験したベケットは何かに憑かれたように「書くこと」への情熱を
迸らせたのですね。
喪失感や悲しみを紛らわせるかのように、ただひたすらペンを執ることで
自らが創り出した言葉の世界に没頭する。
……まるで彼に「書かせる」ために、母親の死が与えられたかのようです、、、
母に対する憎悪は母の死で罪悪感から「書くこと」へと昇華されたのでしょうか?
それとも、未だくすぶりつづけたままだったのでしょうか?

>兄の最期の数ヶ月をともに過ごした。その年の終わりに書かれた「勝負の終わり」
>には、喪失、苦痛、終焉、恐怖といった感覚が絶えず付きまとっており、
父を早くに亡くし、恋人を亡くし、母を亡くし、兄を亡くし、妻を亡くし、とベケットの
生涯は身内や親しい人の死で埋め尽くされていますね。。。
このような状況下で彼は神を呪わなかったのでしょうか?


229 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:34:51

「ゴドー」のふたりが愚直なまでに神を待ちつづけるように、ベケットも自分に
悲しみをもたらす神を信じていたのでしょうか?
いや、それとも、相次ぐ身内の死に当時のベケットはとうに信仰を放棄しており、
「ゴドー」のふたりは彼にとってひとつのあこがれの象徴だったのでしょうか?
待たされても、愚弄されても、ひたすらゴドーが来ることを信じ、命が尽きるまで
待ちつづけようとする無垢な魂を誰よりも希求していたのは、実はベケット
その人だったのではないでしょうか……?

ベケットは相次ぐ身内の死ゆえに気難しく皮肉屋になり、唇に冷笑を湛えていた
人だったのでしょうから。。。無理もないことですが、、、

この沈鬱な気難しい作家にキルケゴールを想起しました。
(ベケットとしてはデカルトに思い入れが深かったようですが…)


230 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:59:03

「キェルケゴール家は西ユトランド半島のセディングという荒野で教会の一部を借りて
住んでいた貧しい農民であり、父のミカエルは幼いころ、その境遇を憂い神を呪った。
その後、ミカエルは首都コペンハーゲンにおいて、ビジネスで成功を収めた。
しかしそのために、ミカエルは神の怒りを買ったと信じていた。
つまり、神を呪った罰が今の自分の世俗界での成功であると。
ミカエルはこれらが罰を必要とする(宗教的な意味合いでの)罪と考え、子供たちは
若くして死ぬと思い込んだのだが、実際に七人の子供のうち、末っ子のセーレンと
長男を除いた五人までが34歳までに亡くなっている。
父ミカエルの宗教的信条・思想はキェルケゴールに多大な影響を及ぼしたが、
一方でキェルケゴールが幼いころから二人は強い絆を共有した。
キェルケゴールが幼いころから、二人は遊びの一環として部屋の中で想像力を
使って物事を考えることを学んだ。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB

少年期の父親との強い絆と信頼感、相次ぐ身内の死、
悲劇がもたらした喪失感と絶望、気難しげで沈鬱な表情のよく似たふたり。


231 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:00:06

>>221-223  SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>ベケットにおいては、母胎と墓所がパラレルに語られることがよくあって、
>母と墓が融合した「墓胎」ともいうべき場所への巡礼は、
「墓胎」! ベケットじゃないけど言葉遊びはなかなか凄腕ですねえ♪
生と死が等しく同居している場所。

>こういう視点はほんとCucさんらしいね。
>なかなか目に留めにくいポイントだなぁ。
ありがとうです♪
何しろ鄙びた草深いところで育ったもので、草や木、草原や森の描写には
無意識のうちに反応するようなのです。。。

SXYさんの母と墓が融合した「墓胎」という造語で、ふと思ったのは、
モロイやモランが旅した森、マーフィーが死の間際に身体を横たえた小森とは
実は母の胎内ではないかと思いました。
フロイトならば、胎内回帰とかいいそうですね。。。
繰り返し出てくる森は、実は母の胎内の象徴であり、モロイを初め、人物たちは
皆すでに母のところに辿り着いているのですね。
母胎とはこの世に新たに生を送り出す場所であると同時に、あの世に旅立つ
人たちの魂を最後に安らがせる場所でもあるのです。


232 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:00:46

森が人を守っているように、胎内の胎児も母胎によって外敵から守られています。
そう、モロイやモラン、マーフィーは母を憎悪する一方で、自分がこの世に
生まれ出る以前の、まだ人間ではなくヒトの状態に回帰したいと望んでいる。
森には食糧、水、あらゆるものがそろっています。
人はそこに留まっていれば生活していくための苦労はさほどしなくて済みます。
眠り、食べ、また眠り、こうして日々は安穏と過ぎていくでしょう。
旅をすることは、今まで自分を保護してくれていたものと訣別し、旅立つことを
意味します。

母(=森)へ向けて旅をするのは、そこがこの世とお別れする最後の場所であり、
唯一≪声≫を聴くことのできる聖地だから。

聖なる森で聖なる≪声≫を聴くモロイとモラン。
それは、母の胎内で胎児が初めて聴く外界の声。
生死を司るおおいなるものの声。


233 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:01:32

ベケットがこの世に生まれ出るときに胎内で聴いた声の主は、彼の身近な人たち
を次々とこの世から取り去りました。
「私は裸で母の胎を出た。裸でそこへ帰ろう。主は与え、主は奪う。
主のみ名はたたえられよ。」(ヨブ1:21)
当時のベケットの心境はヨブにはほど遠かったと思います……。

>言葉を沈黙に近づけ、饒舌とは違うつぶやきとしての言葉にし、
>もはや物語や小説とは呼べない詩に近い散文に向かってくんだけど、
おしゃべりは祈りに通じるものがあり、「ゴドー」のふたりのおしゃべりは
最終的には神に向けた祈りであるととらえることができますが、執筆している
ベケット自身、執筆しながら神に向けて膨大な祈りを捧げていたのかもしれません
ね。では、沈黙、つぶやきは?
沈黙は神との内なる対話であり、つぶやきは神に呼びかけること。
ベケットにとって書く行為とは、それが饒舌であれ、つぶやきであれ、
彼自身が意識していなくとも、神に向けられたものだったのでしょうか?
「諦念」とは悟りの境地であり、すべてを受諾することに他ならないのですから。。。


234 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:02:04

>モロイとモランを対比させての書き込みは面白かったし、
>≪声≫に注意を向けてるところはさすが鋭いなぁ!
ありがとうです♪ うれしいです♪
ベケットが実際に森を旅したかどうかは不明ですが、彼の人物たちが
足を引きずり、左右ふぞろいな長靴を履いて田舎道を歩く姿は読み終えたあとも
鮮烈な光景としてわたしのなかに残っています。
イメージとしてはルオーの「ピエロ」。滑稽なんだけれども、悲しい瞳をしたピエロ。
http://www.poster.net/rouault-georges/rouault-georges-pierrot-4703286.jpg

>プルースト、ベケット、シモンに共通する円環。
>ただし、ベケットの円環は、ずれている。
これは、わざとでしょうかね?
時刻と天候の差異。終わりまできて、また最初に戻るように見せかけ、
実はまったく異なる空間の物語であることをあえて強調しているかのようです。
ベケットのことですから、周到に意識的にずらせたような感じもしますね。。。


――それでは。


235 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:26:48

「ワット」読了しました。

この物語の主人公ワットは精神分裂病であり、彼が同じく精神疾患者である
ノット氏の使用人として邸で住み込みで働き、そこを出て精神病院に収容
されるまでが描かれています。

三人称で描かれたこの小説は、言語障害者であるワットの心理描写は
皆無です。
彼がときたま呟く意味不明の言語の羅列、不可解な行動、身につけた粗末な
衣服のみが淡々と描写されていきます。
わたしたち読者は精神分裂病者であるワットのこころのなかを知ることは
できません。
ワットの描写はあくまでも「外から見た人」の描写に留まっているのです。
ワット自身は、自分が精神疾患を患っていることをどこまで自覚しているのか、
あるいは、まったく自覚していないのか、わからないのです。

彼がときおり耳にする幻聴、ひとつの《声》。
ここでも《声》は重要な役割をはたしていますね。


(つづきます)

236 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:27:33

ところで、ベケットはなぜこうも精神に疾患を抱えている人間を主人公に
据えたがるのでしょう?
彼らの思考、言語を正確に記すのは不可能です。
それをひとつの挑戦として見ることも可能ですが、ベケットの真意はもっと
別のところにあったような気がするのです。
ひとつめは、狂人の宗教観とはどのようなものなのか、ということです。
ベケットの描く狂人たちは、ワットを始めモロイもみな神さまを信じている人物
です。
盲信、というのとは少し異なります。
彼らの信仰は一般人と少しも変わらない。精神に疾患のある人たちはたいてい
盲信的な傾向が強くなるのですが、ワットは少なくともそうではありません。

――ワットは話すときはいつも低い声で早口だった。文法や統語法や発音や
発声法、綴字法に対しても敬意を表さなかった。
ただし、固有名詞、場所および人間を含めてキリストとかゴモラとかの固有名詞
は別で彼はそれらを非常に慎重に明晰に発音した――(p184)

(つづきます)

237 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:28:27

ワットが文字を読めたかどうかはわかりません。
聖書のお話も人が読んで聞かせたことを記憶に留めていただけかも
しれません。
それでも、彼は関心を示し、興味があったからこそ覚えることができたのです。

ワットは自身の境遇を嘆かない。悲惨な人生を放棄しない。
彼を生み育てた親、あまり幸福とはいえない今日までの体験、これらのことを
嘆かない。もっとも精神病者にとって自身の境遇を客観的に見るということは
不可能であり、それゆえに葛藤や懊悩からは解放された世界かもしれません。
そうした世界に生きるワットの抱く信仰とはどのようなものなのでしょう?
彼は、他の狂人たちがよくやるように、自身とキリストを同一視するようなこともしません。
一般の人たちは自身の不安や苦しみを取り除いてほしくて祈るのですが、
おそらくワツトの祈りはそうではないでしょう。
なぜなら、彼は自分の苦しみがどのようなものなのかさえ知らないのですから。
彼の祈りとは、神への賛美のみでしょう。
そして、彼の祈りは実はこの世でもっとも幸福な人間の祈りに他ならない
のです。


(つづきます)

238 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:29:09

貧しさも、孤独も、無知も、精神疾患も、言語障害も、ワットが捧げる
神への賛美の祈りを妨げることにはならない。

ワットがノット氏の家を出て駅のホームで幻覚を見る場面があります。
切れ目なしの一枚の着物を身に纏った男か女かわからない人物。
彼はこの人物が何者なのかをどうしても知りたく思い、すぐそばまで近づくのを
待つのですが、一向に接近する気配はなく、とうとう消えてしまいました。
この人物とはまさに、「ゴドー」=イエスに他ならないのではないでしょうか?
ワットはこれまでさほど何かを強く欲したことがない人間です。
ところが、この幻覚を見たときには異常なまでにその正体を知ろうと強い好奇心
に駆られました。
この出来事はたんなる幻覚として片付けられてしまっていますが、後々の
「ゴドー」に繋がる伏線となっているのではないでしょうか?
ワットをのちのヴラジーミルとするならば、彼はここで「ゴドー」から約束の言葉を
聞いた筈です。
たとえそれが、ある《声》の幻聴だとしても、約束を交わした事実は揺るがない
のです。


(つづきます)

239 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:29:49

ふたつめは、分裂病者であるワットの話す言語は正常者には当然ながら
理解できませんが、では、はたして正常者が話す言語は正常者相互間で
理解し合えているのか? ということです。
解説にはヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければ
ならない」が引用されていますが、わたしたちが相手に話す言葉は実は
相手が理解しえないことのほうが多いのではないでしょうか?
なぜなら、わたしはその相手の人間でないからです。
ならば、いくら言葉を尽くしてもわかってもらえないことのほうがはるかに
多いのが現実です。

つまり、わたしたちは皆ワットなのです。
分裂病者であり言語障害者であるワットだけが特別ではないのです。
わたしたちは誰も彼もが伝えようとして、「語りえぬもの」であっても躍起に
なって言葉を模索し、発します。
発せられた言葉は、いくら文脈が通っていても、文法的に正しくても
それが「語りえぬもの」である以上、決して相手に伝わることはないのです。
それは、ワットの意味不明な倒置法の言葉と何ら変りはないということです。


(つづきます)

240 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 21:35:24

ワットの可笑しさを笑う行為は自身を笑うことに他ならないのですね。
それは、ゴゴとディディにも通じます。
わたしたちは子供の頃から言語教育を受け、さまざまな本を読み、思考し、
自分なりの言葉というものを確立したような錯覚にとらわれています。
文学や哲学に親しんだ人は特にその傾向が強いといっていいでしょう。
ベケットはそうした人間を嘲笑するかのように、言語障害者や
無駄なおしゃべりしかしない人物をこれでもかと登場させます。
あななたちの言葉だって、彼らと変わりないんだよ、そんなにご大層なもの
じゃないんだよ、「語りえぬもの」なんだよ、と。


(つづきます)


241 : ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 21:35:54

ワットが夜、溝のなかで草花に囲まれて眠る描写は「モロイ」にも何度も登場
しますが、これも野良作業に疲れたベケットの実体験かもしれません。
また、ワットが嫌いなものは太陽と月とありますが、これもゲシュタポの追跡から
逃げるには両者は邪魔なものだったでしょうね。。。
暗闇のほうがより安全に追手を振り切れますから。

解説で、ベケットはゲシュタポの手を逃れて南仏の片田舎で葡萄畑を切り開き
ジャガイモ作りをし夜は精神衛生のためにこの「ワット」を書いた、と知りました。
既存の小説を一切無視して、好きなように書きたいように書かれた小説。
主人公ワットを精神疾患者であり、言語障害者として設定したのも、
ベケット自身、何か世間に対して発言したなら即刻逮捕される危険があり、
発言したいことは山ほどあるのにできない状況のジレンマに陥っていたで
しょう。
そうした現況に、ワットに自分をなぞらえたのかもしれません。
ワタシハ、マトモナ、コトバハ、ハナセマセン、と。
あるいは、ワットのように本物の分裂病者であれば、誰もベケットを言論思想の
危険人物としては見なさないでしょう。
当時のベケットはワットという人物にある種の憧憬と風刺を込め世間を皮肉り、
あるいは、自身を嘲笑していたのではないでしょうか……?


――それでは。

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