5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

技術スレ 第二刷改定

1 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 21:49:06
 前のスレッドが落ちてしまいましたので、こちらで続きを書きます。
 また、前に書いた解説は誤字脱字の修正と多少の手直しをしてこちら
に転写します。
 その際、まことに勝手で申し訳ありませんが、スレッドのコンパクト化
を図るため、諸多の書き込みをスポイルします。書き込んでくださった方
の不敬な扱いや遺漏は、ひとえに私の不徳によるものであり、先にお詫び
申し上げておかなければいけないでしょう。

前スレ
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/bun/1054142898/

2 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 21:52:32
 川端康成『みずうみ』にみる場面転換。
 
 有田老人のわめき声は、下に寝ているさち子も目をさましたほどだった。
「お母さん、お母さん、こわいわ。」とさち子はおびえてたつにしがみついた。
 (後略)
 (2行あけ)
 坂道で子供が六七人ふざけていた。女の子もまじっている。おそらく小学校に
入学前の子供たちで、幼稚園の帰りかもしれない。そのうち二三人は棒きれをもち、
ない者はもったつもりで、みな腰をかがめて杖にすがる身ぶりをしながら、
「じいさん、ばあさん、腰抜かし……。じいさん、ばあさん、腰抜かし……。」と
歌いはやして、よろめき歩いていた。

3 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 21:53:50
 少々分かり易すぎるくらいの、場面転換における技術の一例。
 上段と下段ではまったく違う場面空間であるが、言葉は類似したもの
を呼びあっている。この言葉のイメージの近接が文章上の空間を埋める
役割をはたし、ある種の連続性を帯びるゆえに、子供たちはさち子の
恐怖心をいっそうはやし立てるかのようにふざけるのである。もう少し
自然で、あざとくならない筆致で場面を接ぎたければ、言葉が生みだす
イメージのズレを大きくし、場面間の近接を薄くして、前後に幅のある
文脈を作ればよいだろう。

4 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 21:56:17
〔前スレ28さんの書き込み〕
冒頭については、その機能を考えてみるべし。

1:物語の方向性の提示
2:物語の人物の提示
3:物語の場所の提示

大きくこの三つかな?
プロのを引き出してみる。

 どうしたの、なんだか元気のない声みたい。夕食はすませた? 
いえ待って、用があるのよ、ちゃんと。さっき佐々木さんから電話
がかかってきたの。ええそう、あの佐々木さん。ポプラ荘の。
 電話の向こうで母がそう言った時、私はもう何年も、おばあさんと
過ごした日々をゆっくり思い返すこともなかったのに、
「ああ、おばあさんが亡くなったのだ」
 とすぐに悟った。
(「ポプラの秋」より抜粋)

3がわかりにくいが、「電話」という言葉で、おそらくは主人公の家
だろうと予想がつく。
2は、いわずもがな、主人公とおばあさんである。
1は、主人公の元気のなさとおばあさんに関する話であろう、という想像がつく。

5 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 21:59:42
   川端康成『みずうみ』にみる場面転換。2

 この浴室の照明はどうなっているのか、湯女(ゆな)のからだに陰がない
ようだった。 湯女は銀平の胸をさすりながら自分の胸を傾けて来ていた。
銀平は目をつぶった。手のや り場に迷った。腹の脇にのばしたら湯女の脇腹
にさわりはしないか。ほんの指先でも触れようものなら、ぴしゃりと顔をなぐ
られそうに思えた。そして銀平は真実なぐられたショックを感じた。はっとお
びえて目をあこうとしたが、まぶたは開かなかった。したたかまぶたを打たれ
ていた。涙が出そうなものだが出ない。目の玉を熱い針で刺されたようにいた
んだ。
 銀平の顔をなぐったのは、湯女の手のひらではなく、青い革ののハンド・バッグ
だった。
 (3行略)
── ハンド・バックがしたたか顔を打ったのは確かである。そのとたんに
銀平はわれにかえったのだから……。
「あっ。」と銀平は叫んで、
「もし、もし……。」 と女を呼びとめかけた。

6 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:03:57
 これは作品冒頭にみられるもう一つの場面転換である。本当はもっと
長い引用を用いてこれに掛かる技術のすごさを玩味していただきたいの
だが、わずらわしさを避ける意味もあって割愛した。興味のある人は実際
に読んでみたほうがいいと思う。
 
 ここで使われている転換はいわゆる回想導入である。珍しい手法ではない
が、一流はやはり憎らしいほどうまい。
 まず、湯女の陰が消え、銀平の目が閉じられることで焦点がフェードアウトする。
だがすぐには転換しない。なんでもすぐヤリたがるガキは冷笑されるのを手練れは
知っている。ここでもまた、言葉が言葉を呼ぶ例の近接の技術が使われている。
 数行を費やしたところで青い革ハンド・バックが登場する。イメージしてみて欲
しい。あまり見かけない、なにか不気味な色のバッグではなかろうか。それが銀平
の顔をしたたかと打ち、はっとわれにかえるのである。もちろんそこは湯女の居る
場所ではない。現代でいうストーカーの銀平がここに目覚めるのだ。その鍵となる
バッグはルイヴィトンとかコーチとかの品のよいブランド物ではいけない。あくま
で気持ちの悪いイメージ(銀平の)を呼び起こすものでなければ近接の意味がない
のだ。しかもこのバッグは、この後、五十数ページにわたってガジェットの役割を
はたすのである。
 また、この箇所周辺には繊細な伏線も張られている。たったひとつの場面転換に、
作品構造全体に関わる技術の多重展開を自然にやってのけるは、さすがノーベル賞
作家といったところであろうか。

7 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:06:12
   宮本輝『螢川』にみる場面転換。

「……情熱的やのォ」
 竜夫はそう言って空を見あげている関根の顔をいやにはっきりと覚えている。
 蒲団の中が温まってくると、竜夫はにわかに疲れを感じて目を閉じた。痙攣を起こして
崩折れていく瞬間の父の顔が、胸の奥に刻み込まれていた。もうわしをあてにするなとい
う父の言葉が聞こえて、彼は寝返りをうった。柱時計が止まったままなので、家の中は物
音ひとつなかった。竜夫はそっと起きあがって隣の部屋をのぞいた。柱時計の下に座った
まま、千代は重竜の入れ歯を膝に置いてじっとうなだれていた。

 四月に入って五日目に再び大雪が降った。
 ゆるみかけていた古い雪を、ぶあつい新雪が包み込んで、白い街の底が汚れている。
 千代は重竜の着替えを持って小走りで停留所まで行くと、待っていてくれた市電に飛
びのった。

8 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:09:58
 竜夫は中三になるこの作品の主人公で、千代はその母。
 掲出したセリフ後段までは、竜夫が思いを寄せる同級の少女や友人との
セクシャルな回想である。蒲団が温まるのは、たかだか3ページの回想時間
だけのせいではないだろうが、まあこれは措いておこう。
 回想を使う場面転換はすでにのべているので問題ではない。
 ここでのキモは、三人称で視点を自由に移動させる叙法をとる場合の場面転換である。
いわゆる神の視点だが、神だからといって好き勝手に振る舞うようでは人間(読者)に
に見はなされてしまう。まず、通常ならば竜夫が目を閉じたところで、一行あけて四月に…
の部分にもっていっても間違いではない。しかし、それでは転換の連絡が拙いと思ったの
か、作者は、入院した父親のイメージを呼び、竜夫をもう一度起きあがらせ、隣の部屋
に導く。当然作者は次に視点を千代に切り替えることを決めているのだから、そこには千代
が座っている。ここで視点対象は竜夫から千代へと移る。実質の場面転換はここでおこな
われていると言っていい。千代がうなだれているのもたまたまではなく、竜夫のなかの悲愴
がここで同時に重なり合って哀感を高めているのである。間違っても、火曜サスペンスなど
を見ながらせんべいをかじりつつ、「この娘が犯人なのよ、わたし分かっちゃうんだから」
と独り言していてはいけないのだ。

9 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:15:45
  〔だいぶ前に、別のスレッドに書いたもの〕
 反作用的な言葉やイメージをつかって、対象をきわだたせる技法。
 距離や頻度に気をつければ破綻することもないので、各自応用を競っ
て楽しむのが吉です。

 まず、感情をゆさぶる山場へのプロセスが大事です。悲しみが主題の場合、
基本としてこれに笑いや軽薄なものをぶつけるんです。この典型例の映画と
して 『クレヨンしんちゃん戦国大合戦』 があります。もちろん爆笑させては
主題がかすむので、そこら辺のさじ加減は各自で勘案してください。
 また、高村光太郎の詩を援用してみましょう。

10 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:16:29
  (前略)
 #その数滴の天のものなるレモンの汁は
 *ぱっとあなたの意識を正常にした
 *あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
 *わたしの手を握るあなたのちからの健康さよ
  あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
  こういう命のせとぎわに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして
 ●あなたの機関はそれなり止まった
 ▽写真の前にさした桜の花かげに
 ▽すずしく光るレモンを今日も置こう

11 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:18:51
 先に*部にある、「意識を正常にした」 「眼がかすかに笑う」 「健康さよ」
といった言葉が後にくる死への抵抗・対立として描写されています。そこから
作者の妻への愛情と思い出を受けて、●部の死へと流れ込みます。そして▽部
の余韻にある 「レモン」 の語が#部の 「レモン」 に導かれ*部を想起させ、
安らかさと死がここで衝突し、読者の哀惜をより一層深める作用となるのです。

 この詩とクレヨンしんちゃんの映画の類似性をよくよく看取し、学習の一助
としてください。

12 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:21:07
   カミュ『異邦人』にみる時間処理。

 【A】
 眼がさめると、マリイは出て行ったあとだった。彼女は叔母のところへ行くつもり
だといっていた。きょうは日曜だなと考え、いやになった。私は日曜は好きではない。
そこで寝台へ戻り、長枕のなかに、マリイの髪の毛が残した塩の香りを求めた。十時まで
眠った。それから煙草を数本すい、続けて正午まで横になっていた。いつもの通り、セレ
ストのところで昼食をするのはいやだった。きっと、あそこの連中が質問するだろうが、
私はそんなことがきらいだからだ。自分で、卵をいくつも焼いて、鍋からじかに食べた。
パンが切れていたが、部屋を降りて買いに出たくなかったので、パンは我慢した。

13 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:24:52
 【B】
自分が回れ右をしさえすれば、それで事は終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち
震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた。泉の方へ五、六歩歩いたが、アラビア人
は動かなかった。それでも、まだかなり離れていた。恐らく、その顔をおおう影のせいだった
ろうが、彼は笑っている風に見えた。私は待った。陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に
汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。そのときのように、
特に額に痛みを感じ、ありとあらゆる血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつく
ような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、
一歩、ただひと足、わたしは前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は、身を起こさずに、
匕首(あいくち)〔短刀〕)を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きら
めく長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なま
ぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽
のシンバルと、それから匕首からほとばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ
感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてが
ゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと
思われた。私は全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は
銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾(ろう)する轟音とともに、すべてが
始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感
じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない
体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸の
とびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。

14 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:29:00
 「太陽のせい」 で殺人を犯す、不条理小説として名高いカミュの代表作。
 あからさまに分量のちがう引用だが、なぜ【A】と【B】でこれほどの差が
あるのか。それは、「説明」 と 「描写」 の違いがありありと出ているからで、
ひいてはその変調が時間の流れを大きく変えているのである。
 小説には二つの時間がある。小説のなかに流れる虚構(物語)の時間と現実の
時間、つまり読者が読書する時間だ。

 まず、【A】をみてみよう。説明的な短い文の連続で成り立っているのがわかると
思う。こまごました描写や心理はいっさい省かれている。途中、十時に起きて煙草
をすったあと正午までの二時間を、「横になっていた」 という説明だけですまして
しまう。書き方そのものがけだるい。
 一方で読者はこの部分を、個人差はあれ、数秒で読み終わってしまう。一般に説明
と会話でつなぐ小説が読みやすく、早く読めるのはここに由来している。叙述のリア
クションが早ければ、基本的に先へ先へと話が進むので読む労力は軽くなる。内容さえ
わかればそれでいいという読者にとっては、なにも文句はないだろう。
 だがしかし、このような説明一辺倒の小説は薄っぺらい、ガキの作文、単調、などと
世の小説グルメに安く値踏みされて、無情にも駄作の烙印を押されてしまう。
 では、全体にわたって説明過多でおし進む 『異邦人』 は駄作か?
 否である。カミュはここであえて描写を避けているのだ。その神算鬼謀が発揮され
るのはクライマックスにおいてである。【B】をみてみよう。

15 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:35:08
 【B】は主人公がさしたる動機もなく殺人におよぶ、この小説のクライ
マックスの場面。【A】とのいちじるしい差がすぐに読みとれるかと思う。
ここまでサクサクと進んできた話が、ここでは一転して、時間の流れが遅く
なる。なぜか? 描写しているからだ。読者はただ事でない雰囲気を感じる。
「それで事は終わる」 「ママンを埋葬した日と同じ太陽」 と不吉な言葉が
招来し、照りつける太陽、流れる汗、時は止まったようにじりじりと過ぎる。
まるで決闘シーンのような緊迫感に読者はくぎ付けになる。
 そう、すべてはこのためにあった。軽い文体そのものが人物造形と物語の伏線
として仕組まれていたのだ。主人公は何ごとにも、母の死でさえ頓着しない性格
ゆえ、物をよく見るという 「描写」 をここまでしてこないのだし、この殺人場面
の不条理さと驚きを与えているのは、まさに文中にもあるように、文体が二重の意味
で 「均衡」 を 「うちこわして」 いるからなのだ。

16 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:47:18
 ここまでの解説で、説明と描写が時間と深い関係をもっている、という
よりも時間そのものであるということを理解して頂けただろうか。基本的に
は描写が細密になればなるほど小説上の時間は遅くなる。つまり、なにかを
描き出している間、言葉の増殖に比例して虚構内の時間はその進みが遅くなり、
私たちがそれを読む(解する・イメージする)時間は長くなる。
 【B】の場面は、実際には十数秒たらずの出来事と思われる。だが読む方は、
これも個人差はあるが十秒ちょっとでは読みきれない。スローモーな展開に感じる
のはこの二つの時間軸の齟齬(そご)があるからだ。説明はこれと逆である。
 「三十年後」、たった四語、約一秒で初々しい少女もオバタリアンになってしまう
のだ。が、もしここでまだ少女のままであったりすれば、そこに幻想性やSF性がで
てくる。
 また、三時間ほどで読みきれる分量を計算して、小説内の時間経過もきっかり三時
間にするというような、ちょっと実験小説的なこともできるだろう。大に小に応用は
さまざまである。まさに書くことそれ自体が時間の調整だといっていいのだ。じゃあ
キテレツな時間処理をすれば面白いのかというと、そうではない。【B】の例にして
も言葉の近接や対立、複数の伏線や人物設定、前半のしっかりした書き込みなど、多様
な技術の支えがあってこそ生きてくるのだ。単独の技術だけで、小説はなり立っている
のではない。

 野心的な試み除外すれば、やはり普段留意すべきなのは時間の起伏であろう。
描写が続いたあとに説明を使ってすっと時間をすべらせたり、会話が続いてダラ
ダラしてきたら描写でひきしめる等の配慮であり、また回想を使って時間を過去
に飛ばすのも有効で、これは前にあげた宮本輝がよく好んで使っている。
 単にリアリスティックにみせたいからという理由で描写するのではなく、そこに
時間の概念を意識して書けば、少なくとも作文的な単調さを回避することはできる
だろう。ともあれ、原理さえわかればここでごたごた言うよりも、いろいろな小説
から学んでみたほうが早いだろう。

17 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:51:27
  吉野弘『夕焼け』 にみるイメージの喚起力

いつものことだが           
電車は満員だった。          
そして                   
いつものことだが              
若者と娘が腰をおろし            
としよりが立っていた。           
うつむいていた娘が立って          
としよりに席をゆずった。            
そそくさととしよりがすわった。       
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。   
娘はすわった。               
別のとしよりが娘の前に           
横あいから押されてきた。          
娘はうつむいた。              
しかし                   
また立って                 
席を                    
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘はすわった。
二度あることは と言うとおり
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
かわいそうに
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。

18 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:52:02
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッとかんで
からだをこわばらせて──。
ぼくは電車を降りた。
固くなってうつむいて
あの娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。  
なぜって
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。 

19 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 22:54:16
 こういう詩を読むと、小難しい語彙やひねくり回した比喩、華美な装飾に彩られた言葉が
必ずしも人の心をとらえるわけではないというところに、神妙にもなりまた自らの無知
が励まされるような気持ちにもなる。どこかの首相ならば、「感動した」 ですましてもいい
かもしれないが、小説を、文芸を志す者はそうはいかない。その「感動」のみなもとを探
り、自ら芸のこやしにしなけばならない。昔気質の職人が新米に、「技は盗んでおぼえろ」
と諭すのはよくきく話である。なんだ、そんなのは今時ではないと一蹴してしまうのは浅は
かであって、実はこの意欲こそ大切なのだということは、一度でも何かに打ち込んだ経験の
ある人ならば自明のことと思う。事実、小説に関わるもろもろの技術は逃げも隠れもせず、
書籍というかたちをとって私たちの目の前に、盗んでくださいと言わんばかりに転がってい
るのだから、これを利用しない手はない。
 では、詩の方へ目をむけよう。

20 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 23:00:47
 一見なんのてらいも算段もないかのように、日常の出来事を平易な言葉で活き活きと写しだ
して心に残る一片の詩。そのわけを、作者の視点が素直だとか無垢、あるいは純真であるから
という乙女チックなまろやかさにあえて抵抗するならば、なにが残るのか。そこにあるのは、
人はどうしたって恣意的かつ理想的にものごとを見たがり、感じたがるという当たり前の心理
作用の中心点に作品を射的する技の(言葉の)妙である。

 まず、《いつものことだが》といういきなりの断り書きである。そう、日常とは字義どおり、
いつもの、おきまりの毎日のことだ。満員電車をイメージできない人は少ないだろうし、そこ
の座席に座っているのは必ずしも年寄りばかりでないことを私たちは知っている。そんな風景
はあたりまえすぎている。そして、すでにここで善良な読者はこの作品の共作者となっている。
 あとはもうベルトコンベアーなのだ。無駄な言葉を弄せばかえって作品の質を下げて目的を
失するだろう。ここではイメージこそ主役であり、それを妨げるような記述、描写はこの世界
に現れることをゆるされない。これは時間処理で解説した 『異邦人』 とは性質の違う原理が
はたらいているのだが、これはあとで説明したい。

21 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 23:05:29
 席をゆずるろうとする娘がうつむくのは、その殊勝な行為をするために好奇の目が
そそがれるのを避けられないゆえなのだが、ここで彼女に好奇の目を注いでいるのは
満員の乗客ではなく、実は、語り手でもあり読者の分身でもある 「ぼく」である。
また、これを読む無数の(満員の)ひとりたる読者(乗客)の目であると言っても
いいかもしれない。
 そして、こんな娘は「かわいいじゃないか」と「ぼく」は思う。で、礼も言わずに
降りていった年寄りはしゃくさわるではないか。と、そこへまた年寄りが横から押し
出されてくる。押し出したのは他ならぬ 「ぼく」 である。だって、また見たいから。
そして期待どおりに娘はまた席をゆずるのだ。うつむいて。「いいぞ」と思う。二度
あることは三度ある、なんてことわざを引くのはちょっと後ろめたさもあるからだろ
うか。素直に言えばよい、もう一度見たいと。だからまた年寄りが出てくる。
 考えてもみたまえ。いくら高齢化社会といったって、こんなうじゃうじゃ年寄り
ばかりがわざわざ娘の前に出てくるわけがない。第一となりに座っているの若者のとこ
ろにはなぜ行かないのか。狸寝入りでもしてるのか。けしからん。でも、答えは簡単
で、そんなのは絵にならないからだし、「ぼく」 だって望んでいないからだ。
 三度目において娘は席をゆずらない。それはかわいそうだから、と書いてある。わけ
がわからず不審に思う人のために、もう一度書くと、この作品ではイメージこそ主役な
のだ。そこに徹底している。そういう部分では詩というはとてもわかりやすい。
 冷静に読めばこの娘に関する情報は、ほとんどなにも書かれていないことに気づく。
背格好や顔や年齢を示す言葉はなにもない。ただ 「娘」 なのだ。それなのに、恐らく
私とあなが想い描くこの娘のイメージは、ジャイ子としずかちゃんほどの隔たりはない
だろう。でもそれは、つまりこの娘がとんでもない醜女であることを排除していないと
いうことでもある。もちろん、男のご都合主義でそんなしぼむようなことは考えたく
ない。そのための技術がここにある。とりあえず先に進もう。

22 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 23:08:58
 娘は席をゆずらず、下唇をキュッと噛み体をこわばらせて座ったまま、そのあと
どうなったかを書かずに 「ぼく」 は電車を降りる。いたたまれずにキュッとなる
のは娘のくちびるだけではなく、「ぼく」 の心もなのだ。娘はやさしかったと
「ぼく」 は 思う。最後まで黙っていたからだ。つらい気持ちにじっと堪えている
その姿こそ美徳であるならば、娘はどこまで(も)ゆけるだろう。それはもう過去
の姿としていつまでも 「ぼく」 の心のなかにあり続けるのだから。
 「いま」 「ここ」 にある美しい夕焼けを見ることもなくなった娘の代わりに、
「ぼく」 は見る。まさにその沈みゆく太陽とその赤い色彩の美しさが娘の心を代弁
している。そのイメージはさらに膨張してその娘の頬を染め、容姿まで(書かれて
いないのに!)うるわしいに違いないと感じてしまう。だからタイトルも 『満員電車』
とか 『娘』 ではなく 『夕焼け』 なのだ。

 だが現実に、単に席をゆずる行為にやさしい心だなんだという必要はなく、自責や
羞恥でそんなわかりやすく下唇をキュッと都合よくかんだりはしないだろうし、美し
い夕焼けというありきたりな表現は通常避けられるものだ。それでもそうした言葉が
効果を持つのは、ただまっすぐにこうイメージしたいと願う読者の心を狙い、その的
を射て外さないためである。
 普段、人がいかに恣意的にものを見ているか。例えば、強面で五指がそろってなかった
りするとちょっと腰が引けたりするだろう。また肩書きを人間的な価値に置き換えてみて
しまうのもそうだし、眼鏡をかけて澄ましていると、なんだか思慮深い人にみえてしまう
のもそうだ。まあ、こうした例はどちらかというと陳腐な先入観として斥けられることの
ほうが多いのだが、読者のイメージを計算できるのだから、要は使い方しだいであろう。

23 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 23:13:19
 こうしたイメージというものが私たちの心理をどれだけ左右するのか、
その観念がいかに強力であるかを知ってもらいたい。だからきっちりと
イメージを誘導できる言葉を選び構成すれば、この詩の娘はきっとうら
若い10代の少女であり、まだ擦れたところもなく、髪は黒くつややかで、
内気で、小さな胸のうちは汚れを知らないやさしさにみちている。親の
しつけもよいのかもしれない。けれどまだ衆目に晒されて堪えられるほど
心が丈夫ではないのだろう。そしてこのような心根の美しさは、きっとその
面立ちにもあらわれているに違いないったら違いない。と、読者は勝手に
うれしい想像力で人物を造形してくれてしまう。この共同主観性に注目され
たい。
 特殊性を含まない事象をイメージに落とし込むためには、へたな説明や描写
をしないほうが返ってよい結果を生むのである。

 さてこれで、いかにも人畜無害な人間が人殺しになるという裏切りの装置
として、描写を避けていた 『異邦人』 との違いをわかってもらえただろうか?
ちょっと今回はわかりにくかったかもしれない。私もまだまだ勉強不足だな。

 しかし、この詩のように簡素化するのは簡単なようで実は難しい。細やかな
感性と観察力がないとなかなか共感を呼べるものは書けないのだ。適度に描写して
しまったほうが楽であるのも事実だ。
 まあ、使える使えないは別として、この詩と散文にまたがる書き方の幅という
ものを賞味していただければと思う。

24 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 23:15:19
 人のイメージをより強くかき立てるものにノスタルジーがある。これを効果的に使って
成功をおさめた映画が 『クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲』 だ。どちらかというと、
子供向けのお下品映画としてPTAのヤリ玉にあがっていた「クレしん」シリーズが、こ
の一作においてはまさに、良識ぶった大人たちのもつイメージに対して逆襲に転じたのだ。
なにしろこの映画をいちばん楽しんだのは、しぶしぶ子供に同伴していた当の親たちであっ
たのだから笑える。

 この映画はたちまち大人たち、特に中年層の話題になり大ヒット。時は平成大不況のまった
だ中。リストラ、倒産、ボーナスカットの生き地獄にあって、古き良き時代の思い出にひたる
ことは、その疲れた心を癒しまた忘れさせてくれるのにちょうどよかったのかもしれない。
ちまたでは、いい年したおじさんが子供向け映画に一人訪れて、帰りには涙しているという
珍現象を生むのだった。

25 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 23:23:37
 この映画は文芸誌のコラムにもたびたび取り上げられて、誰だったかは忘れたが
「大人帝国」 イイ!イイ! ともろてをあげて激賞していたので、私も観てみた。
 感想としては、まあたぶんこの懐古趣味に感じいるほど年をくっていなかったせい
もあって、それなりに面白いなという程度であった。だって、生まれてもいない時代
のことを(TV等で知っていても)懐かしむなんてどだい無理な話だ。
 この映画の言いたいことは、「つらい現実もがんばって生きようね」 というメッ
セージである。その対立にノスタルジーを用いている(過去の幻想vs今生きている現実)。
しかし、この映画のスゴイところは、ノスタルジックな事物が氾濫して、そんなメッ
セージを呑みこんでしまっているところだ。本来これは本末転倒でやりすぎ、鼻に
つきすぎると批判してもいいのだが、エンタメとしての側面もあるし、あらわな過剰さ
を一概にけしからんと白眼視はできない。資料集めや場面設定を考えるのも大変であった
ろうと思われる。

 こうしたノスタルジーがいつでも歓迎されるのは、多感な時期に経験したイメージほど
強く心に固着しているためだろう。小説で用いる場合はあまりくどくならないように、その
時代の雰囲気を感じさせるもの、懐かしさを呼び起こすものをさりげなく配置するといい
だろう。また、イメージというのはもともとアバウトなものなので、正確さよりも時代の
匂いみたいなものを伝えられればいいのではないか。
 ちょっと抽象的になったが、なにかのヒントになればいい。

26 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/01(木) 23:26:22
今日はここまで。
塵も積もればなんとやら、転写だけでも一苦労ですな。

27 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 19:52:48
  フローベール 『ボヴァリー夫人』 岩波文庫 伊吹武彦訳
     ―― 比喩の構造 ――


 「旦那、どこへやります?」と馭者(ぎょしゃ)がきいた。
 「好きな方へ!」レオンはエンマを車のなかへ押し入れながらいった。
 そして重い馬車は動きだした。
(中略)
 ──、植物園前で三度目にとまった。
 「もっとやれ!」前よりはげしく叱る声がした。
(中略)
 どうしてもとめろといわないのは、お客が動き病いにでもとりつかれたかと
馭者には不思議でならなかった。ときどきとめてはみるが、とめるとすぐ背中
にどなり声が聞える。そこで彼は馬車のゆれにも頓着せず、方々引っかかって
もおかまいなく、うんざりして、咽喉のかわきと心細さに泣きだしそうになっ
て、汗びっしょりの二頭の駑馬(どば)をいよいよはげしく鞭打つのであった。
 そして、船着場の荷車や樽のあいだ、さては車避けの石の立っている町角で
は、町の人々が驚きの眼を見張って、地方ではまことに珍しいこの怪物──窓掛
けを下ろし墓穴(はかあな)よりも厳重にしめ切り、船のようにゆれながら、こ
うして絶えず姿を現す馬車を眺めていた。
 一度、真昼ごろ、野原のまんなかで、古ぼけた銀ランプに陽の光がはげしく
射すころおい、小さな黄色の布カーテンの下から、あらわな手が一つ出て、千
切れた紙ぎれを投げた。それはひらひらと風に散って、その向こうに今をさか
りと咲いている赤爪草(あかつめぐさ)の畑へ、白胡蝶(しろこちょう)のよ
うに舞いおりた。

28 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 19:59:04
 比喩。いわずと知れた修辞法であり、特別くどくど教わるまでもなく普段から
使用していることと思う。ここで扱うのは、腹黒いとか腕が鳴るといった慣用句
的比喩(死暗喩)ではなくて、もっと想像的(詩的)な言葉の多義性、多用途性を
駆使し、文章に厚みあるいは深みを持たせる比喩の使い方である。

〔ここで言っている比喩は隠喩や寓喩のことです。比喩の分類と説明をもっと詳しく
フォローすべきでしょうが、辞書にも載ってることですし、自分で調べましょう。
直喩(明喩)・隠喩(暗喩)・寓喩・提喩・換喩、とりあえずこの五つを押えておけば
問題はないはずです。〕

 引用文は、散々泣きごとをいっては使用を避けてきた『ボヴァリー夫人』の、おそら
くかなり有名な一場面である。レオンという学生とのあいびきを断るためにおもむいた
主人公のエンマ・ボヴァリーが、当初の意志とはうらはらに二人で辻馬車に乗ってあちら
こちらに移動するようすが描かれている。
 バルガス・リョサ〔『果てしなき饗宴 フロベールと「ボヴァリー夫人」』 前スレ59さん
為感謝) はこの描写を擬人的な表現ととらえた。しかし、ここではオーソドックスな比喩
として考えたい。
 話の流れを念頭におけば、この場面はあきらかにエンマとレオンが一戦交えているところ
であるのは、容易に想像できるところである。現代でいえばカーセックスであろうか。
 執筆された時代(1851〜56年)では、男女の交わりを赤裸々に描写するのは社会的
に難しかったであろう。そこで作者は思案をめぐらし、さまざま比喩を用いてこれを表現
する。かなり露骨に。


29 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:02:13
 エンマとレオンは馬車に喩えられている。そして 「馭者」 だけがなにもわかっ
ていないところが滑稽であると同時に、それ故にいっそう二人に拍車をかけるのも
また馭者なのだ。
 つまり 「馬車のゆれにも頓着」 しない馭者は 「汗びっしょりの二頭の駑馬
(エンマとレオン)をいよいよはげしく鞭打」 ち、二人を絶頂に導くために使役
されるのだ。
 当然ながら、ここに出てくる言葉もいやらしい。
 「汗びっしょり」 「はげしく」 「ゆれ─」 「まんなか」 「射す」 「さかり」
「もっと行け」 「もっとやれ」。
 試しに、これらの言葉に喩えられる行為を簡潔に述べよ。と、年頃の娘に答えを
迫ればよい。うぶな娘なら固まって答えられまい。そこで実地に教えてあげたいのは
やまやまだが、妄想は小説だけにしておこう。

30 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:03:46
 さて、始まりがあれば終わりもあるのが世の常である。作品中でも突出して
エロティックなこの場面は、きちんと二人が果てるところまで書いてある。
 以下は、比喩する語をカッコで横に書いてみたものだ。

 一度、真昼ごろ、野原【陰毛】のまんなか【膣】で、古ぼけた銀のランプ【エンマ。
人妻でありレオンより年上、さらにすでに他の男と関係したあと】に陽【レオン。彼
は金髪である。】の光【ペニス】がはげしく射すころおい、小さな黄色の布カーテン
【女陰のひだ】の下から、あらわな手【ペニス】が一つ出て、千切れた紙ぎれ【精液。
元はレオンに渡す断りの手紙。この描写は同時にエンマが貞操を捨てた意にもなって
いる。】を投げた。それはひらひらと風【空】に散って、その向こうに今をさかり【発情】
と咲いている赤爪草【エンマの性器。この草は春にピンク色の花をつける】の畑へ、
白胡蝶のように【白い蝶=レオンの精液は】舞いおりた。

 これでは少しわかりにくいので、さらに私なりに(勝手にいやらしく)意訳してみた。

31 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:11:21
〈真昼ごろ、窓掛けを厳重に下ろし、二人は船のようにゆれながら汗びっしょり
になってもだえていた〉
 陰毛に隠れたエンマの膣のなかで、レオンのペニスがはげしく射しこむ。そして
エンマの小さなひだひだの下から、むき出しのペニスがとび出すと、レオンは勢い
よく射精した。それはひらひらと空(くう)に散って、まるで発情したような、
ピンク色にめくれあがったエンマの性器の上へ、白い蝶のように舞いおちた。

 (ちなみに現代であれば、こう書いても裁判に訴えられるなんてことはないだろう。
しかし、当時はこのシーンが破廉恥で汚らわしい、ほかに神を冒涜している等々で
訴えられたのである)

 こうして二人が果てたところでこのシークエンスは終わる。このあとは段落をかえ
てわずか二行の説明だけである。馭者も出てこない。こうだ。

 「やがて六時ごろ、馬車はボーヴォワジーヌ区のとある裏町にとまった。そして
そのなかから一人の女がおりて、ヴェールをかけたまま、後をも見ずに歩み去った。」
  (このあと2行あけて場面転換。)

32 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:16:04
 このタイプの比喩と違うが 「窓掛けを下ろし墓穴より厳重に閉めきり」
という文は、これより14ページを隔て、レオンとまた密会してホテルに泊まり、
「そして雨戸を立て、扉を閉めて日を暮らした。」 という説明へのひそかな伏線
になっており、この暮らしがどういものであったかを暗に示している。
 また、エンマとレオンが馬車に乗りこむ直前には、「せめて北門から出て、『復活』
や『最後の審判』や『天国』や『ダビデ王』や、業火に焼かれる 『堕地獄者』 をご覧
なさいまし!」 と、堂守のじいさんが叫ぶセリフがある。
 これは、エンマの、その人倫にもとる数々の行為によって、やがて身を滅ぼすことへ
の警告のようでもある。あるいは偽善的な人生への後ろめたさの意をこめるために、
続く性描写の対置であるようにも思える。
 とにかく、フローベールの作り出した 『ボヴァリー夫人』 という小説は、その綾目
の複雑さと美しさはもとより、物語として読んでも面白いまれにみる技術の教科書で
ある。未読のかたはぜひぜひ、一読することを奨めたい。

33 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:29:44
〔補足:文体(丁寧体と普通体)のちがいに特に意味はない。なんとなく流れで〕

 でも、このタイプの比喩は珍しくはないですよね。ある一つの言葉は、それ単体
では一つの意味しか表さないけれども、その前後関係から派生する言葉のイメージ
から語義とは違う意味を持たせることができる、ってことですね。
 「顔」 「影」 だけではそれぞれの意味しか成しませんが、「顔に影がおちた」 と
書けば、不安や悲しみを喩えているわけですよね。この例はちょっと独創性に欠け
ますけど(笑)
 ところが、じゃあ俺様仕様で奇抜な比喩を使おうとすると、「この比喩、読者は
わかってくれるだろうか? 通じるかな?」 という不安が頭をよぎるのね。
 じゃあどうするかっていうと、今回あげた例のようにどうしたってそういう意味
にしかとれないようにきっちり前後を書きこむか、気づかれなくても筋に影響しない
ように書いて、気づけばそれはそれで作品の味わいが増すような、泰然自若とした
気持ちでしこんでおくのがよいでしょう。
 気をつけたいのは、比喩だけで主題を語り、読者をおいてけぼりにするような
自己満足的(陶酔的)な書き方ですね。どんな技法にも言えることですけど、いか
にも技術を見せびらかして、独りよがりになるのは避けなければなりません。

34 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:33:13
 今回書いたものをあらためて読み返してみると、なんか消化不良だなあ、と思い
ました。抜粋した箇所はたしかに比喩の見本としてはすばらしいのですけど、普通
に読むとふ〜んという感じですね。やっぱり先のほうから通読しないと、この比喩
が生きてこないのがわかりました。ここらへんが 『ボヴァリー夫人』 のやっかいな
ところなんですね。
 約7ページ前にある話者の語りを今更に補足しておきます。

 「あの女は今にやってくる。あでやかに、そわそわと、あとをつけている人目を気づかい
ながら──そして襞附きのドレスを着、金の眼鏡を胸にさげ、華奢な半靴をはき、レオン
のまだ味わったこともないあらゆる雅びやかさに包まれ、まさに散ろうとする貞操の、得も
いわれない魅惑をただよわせて。」

 レオンの心内語ではなくて、話者の独白〔ずうっと後に解説する自由間接話法のこと〕で
あるところがミソなんですけど、それをやるとまたややこしくなるので…作品全体の理解は
リョサの批評を読んだほうが早いと思います。あれいい本です。あと、教会の堂守のはたす
対立(性への抑圧)の役割も大きいと思われます。

35 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:35:30
 蛇足ですけど、ちょっとフランス語の意味もしらべてみました。
 エンマのもっていた手紙は仏語で、lettreレットルです。これは女性名詞ですね。
これが破けてただの紙になると、papierパピエになって男性名詞になります。それ
がひらひら舞うと、papillonnerパピヨネになってこれも男性名詞です。それを蝶、
papillonパピヨンに喩えていて、これも男性名詞ですね。さすがに赤爪草の訳はわか
らないけど、草herbeエルブは女性名詞なので推して知るべしといったところでしょう。
 こうして仏語による言葉の類似性(類縁性)をみるとまた分析の助けになります。
原文の価値というのはこうしたところにあるんですね。私は学者じゃないんでこれ
以上は調べませんけど。

36 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:37:52
   フローベール『ボヴァリー夫人』にみる比喩の構造その2


 エンマは牛がこわかった。牛がいると駈けだした。そして頬をばら色に染め、
樹液と青草と大気の香りを全身から匂わせながら、息を切らしてたどりついた。
その時分ロドルフはまだ眠っていた。それはちょうど、春のあけぼのが部屋のなか
へ入ってきたようであった。
 窓辺に沿って掛けた黄色いカーテンが、どっしりした金色の光を柔らかにとおし
ている。エンマは目をしばたたきながら手探りで進んだ。そのとき、鬢(びん)に
宿った露の玉がまるで黄玉(トパーズ)の後光のように、顔を取りまいて光ってい
た。ロドルフは笑いながら女を引寄せて、胸のうえに抱きしめた。
 それから彼女は部屋の様子をいちいちしらべた。家具の引出しをあけてみたり、ロ
ドルフの櫛で髪を梳(す)いたり、髭剃り用の鏡に顔をうつしたりした。枕もとと小
テーブルのうえ、レモンや角砂糖といっしょに水差しのそばに置いてある大きなパイ
プをとって、くわえてみることさえよくあった。

37 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:43:31
 前回示した比喩は、表現と構成こそ混みいっていたが、普段みる比喩の使い方と
(一部例外はあるが)さほど変わりはなかった。わかりやすい例として同書からもう
一つ引用したい。

──二人はひしと抱き合あった。お互いの気まずさはこの熱い接吻に雪と解けた。

 この程度の比喩なら自分だって使うわい、と鼻を高くする方もおられるかと思う。
そして普通なら、比喩のために書いた借りの言葉、上でいうなら 「熱い 」と 「雪」
は使い捨てにして、さっさと次の描写や話の運びを考えることだろう。
 しかしである。「雪」 という言葉は紙の上に定着してなおそこに存在する。書かれ
たものはどんな無意味なものであれ、そこに露呈されることをまぬがれない。「雪」 は
厳然とそこに在り続けるのだ。これを最初に気づいた人が 「ユリイカ!」 と叫んだか
どうかは知らないが、文章技法の一つの発見だったに違いない。

38 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:44:21
 この箇所は、夜明け近く、伊達男のロドルフ恋しさに家を抜け出し会いにいく
エンマの行動を描写すると共に、比喩の連携がみごとに示されている。
 まず、エンマは 「春のあけぼの」 に喩えられている。また頬をばら色云々という、
まさに春を匂わせる描写は、比喩への引き込み線になっていて、さらに 「ばら」 の
花言葉などをちょっと調べてみるとなお意味深い。
 それで 「あけぼの」 というのは夕日のような赤さはない。どちらかというと黄色
によった赤さで、空は見るまに明るさを増して青みを帯びてくる。西洋では、太陽は
黄色で表現される。
 もうおわかりだろう。「あけぼの」 の比喩はそこで消去されずに部屋のなかへ入り
込み、その形象を変えて 「黄色いカーテン」 になり、「金色の光」 になり、「黄玉」
になって、またエンマの姿へと戻って現れる。なにもハリーポッターだけが魔法使い
だと思ったら大間違いである。この言葉の構造こそ真に魔法的なのだ。
 ただ実際、この比喩が類似性をともなって自己再現するという技法は、あざとくなら
ないよう後段にあるレモンあたりに落ち着くのが無難ではある。しかし、この流れるよう
に鮮やかな実例をみてしまうと自分もキメてやりたいと力がはいるものだし、冒険するに
みあうだけの価値も効果もあるのは確かだ。
 使用にあたって注意する点を述べよう。

39 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/03(土) 20:47:06
一、喩えられるものの重要度と持続。例えば、『みずうみ』の場面転換に出てきた
青いハンド・バッグはその気味の悪さを喩えて銀平にぶつけられると同時に、タイ
トルである 「みずうみ」 の青でもある。作品の中核にからむ故に青いハンド・バッグ
は容易に消去はされない。
 今回引用した比喩は花火みたいなもので、スポット的な効果を狙っている。『ボヴァリー
夫人』 にも作品全体にまたがる比喩、イメージはあるのだが、かいつまんで説明で きる
話ではないのでこれは措いておきたい。

一、使用する頻度。何度も同じような比喩を連発すると底が割れてうっとうしくなるので
注意すること。

一、類似するイメージの近遠。腹黒いやつめ、といってシャツをめくるとホントに腹が黒
かった、なんていうのは低脳なギャグでしかない。イメージの距離は、作品の性格や構成
などをかんがみてセンスよく決めていただきたい。

 あと、比喩とは関係ないが、後段の「それから彼女は〜」にみる文章は、リョサの指摘
したエンマの男性願望をよくあらわしている描写。「大きなパイプをとって、くわえて
みる」などは、フロイト的な解釈をすればまさに男根を…ってまたエロイ方向に……。

40 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 19:13:35
       『ボヴァリー夫人』下 14p〜16p


 「ああ、もうしばらく。帰らないでここにいて下さい!」とロドルフはいった。
 彼はもっと向こうの、小さい池のほとりへエンマを連れて行った。池の水には浮草
が青かった。枯れた睡蓮が灯心草(とうしんそう)のあいだに立って動かなかった。
草をふんでゆく二人の足音に、蛙がはねて姿を消した。
 「私、悪かったわ、悪かったわ。あなたのおっしゃることを聞くなんて、私どうか
していますわ」
 「なぜです……エンマさん! エンマさん!」
 「おお! ロドルフさん!……」若い女は男の肩にもたれながら静かにいった。
 ドレスの羅紗が男服のビロードにからみついた。彼女は溜息にふくらむ白い頸(うなじ)
をぐっと反(そ)らせた。そして正体もなく泣きぬれて、長く長く身をふるわせ、
顔をおおいながら身をまかせた。
 宵闇がおりてきた。横ざまに射す陽の光が枝間を縫ってエンマの眼にまばゆかった。
まわりにはここかしこ、木の葉のなかや土のうえのに、まるで蜂雀(ホウジャク)
が飛びながらその羽根を散らしたかのように、光の斑点がふるえていた。静寂はあ
たりにみなぎり、何かあるなごやかなものが木々のなかからわき出るように思われた。
彼女は心臓がまた動悸を打ちはじめるのを、そして血がミルクの流れるように五体に
めぐるのを感じた。そのとき、遠く遠く森のかなた、別の丘の頂に、かすかな長い叫
び声、尾を引くような一つの声が聞こえた。たかぶった神経の名残りのふるえのなか
に、まるで音楽のようにとけこむその声をエンマはしずかに耳をすまして聞きいった。
ロドルフは葉巻を口にくわえながら、切れた一方の手綱を小刀でつくろった。

41 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 19:15:38
 二人は同じ道を通ってヨンヴィルに帰った。自分たちの馬の足跡が泥のうえに並んで
ついているのや、同じ灌木の茂み、草の中の同じ石ころが見えた。まわりにあるものは
何ひとつ変わっていない。けれどもエンマにとっては、山が動いたよりも大きなことが
突発したのだった。ロドルフはときどき身をかがめ、エンマの手をとって接吻した。
 エンマの乗馬姿はあでやかだった。すらりとした上半身をまっすぐにのばし、片膝は
馬の鬣(たてがみ)の上に折り曲げ、顔は外気にふれて夕映えのなかに心もちほてっていた。
 ヨンヴィルへはいると馬を石畳のうえにはねまわらせた。みんなが窓から眺めていた。
 夕食のとき、夫はエンマの顔色がよいといった。しかし散歩のことをたずねるとエンマ
は聞こえないふりをした。そして火のついた二本のろうそくのあいだ、自分の皿のそばに
じっとひじをついていた。
 「エンマ!」とシャルルがいった。
 「なあに」
 「実はね、今日の昼、アレクサンドルさんの家へ寄ったんだよ。ところがあの人は
古い牝馬を一頭持っている。ただちょっと膝に傷があるだけで、まだなかなか立派な
ものだ。三百フランも出せばきっと手にはいると思うのだが……」
 シャルルはつけたして、
 「いや実はお前が喜ぶだろうと思って、その馬を約束して…いや買ってしまったの
だ…いいことをしたろう? ねえどうだい?」
 エンマはうなずいて見せた。そしてものの十五分もしてから、
 「今晩はお出かけになりますの?」ときいた。
 「うむ、どうして?」
 「いえ! なんでも、なんでもありませんのよ」

42 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 19:17:35
 邪魔だったシャルルが出かけてしまうと、エンマはすぐに二階へあがって居間に閉じ
こもった。最初はまるで眩暈(めまい)でもするような気持ちだった。木立や、道や溝
やロドルフが見えてきた。あの人の抱擁がまだ感じられる。それと同時に木の葉はゆら
ぎ、灯心草は風に鳴った。
 しかし自分の姿を鏡の中に見たとき、エンマはわれとわが顔に驚いた。眼がこんなに
大きく、こんなに黒く、こんなに深ぶかとしていたことはついぞなかった。ある霊妙な
ものが全身にめぐって、エンマの姿を一変させたのであった。
 エンマは、「私には恋人がある! 恋人がある」と繰り返した。それを思い、それに
また、二度目の春が突如として自分に訪れたことを思ってしみじみ嬉しかった。今まで
あきらめていたあの恋の喜び、あの熱っぽい幸福をいよいよわがものにしようとするの
だ。自分はある霊妙不可思議な世界に入ろうとしている。そこではすべてが情熱であり、
恍惚であり、狂乱なのだ。ほのかに青い千里の広袤(こうぼう)が彼女を取り巻いている。
感情の山巓(さんてん)は彼女の思念のもとに燦然(さんぜん)とかがやいている。そし
て日常の生活ははるか下の方、山々の狭間にこめる闇のなかにほの見えるばかりであった。

  〔引用終わり〕

43 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 19:31:12
 最初にテクスト全体を俯瞰して気づくのは、その叙述のバランスの良さである。描写
と説明とセリフの三つが、分量および配置において模範的な形に収められている。この
2ページ半は小説構成のミニチュアだと思っていただければいい。

 小説上の時間は、「描写」と「説明」 によって成りたっている、このことを思い出し
て欲しい。時間は描写によって遅くなり、説明によって早くなるという原理だ。この場
でもう一度、時間処理の説明を補足したい。
 まず、Aという対象を描写する。その対象を細密に、徹底してしつこく書けば書くほど
紙面を埋める文字は増え、A以外のものは入り込む余地がなくなってしまう。それが1ページ、
2ページ、さらに3ページと続いたら、読者は息苦しくなるだろう。やがて、「話が進ま
ないじゃないか!」 と、本を投げだしてしまうかもしれない。そう、極端にいえば、描写
することによって小説内の時間を止めてしまうことも可能なのだ。
 大切なのは、小説と読者の持つ時間の起伏であり、その結果が文章や構造のダイナミズム
を生むことになる。
 大雑把ではあるが、時間の流れを加速、減速、等速に分けて、これを引用文に照らし合わ
せてみよう。

 セリフ(発話)は虚構と現実の間にあまり差がないので、冒頭の「ああ、〜」からエンマ
のセリフまではほぼ等速状態にある。次に、森のなかでの描写が入り、ヨンヴィルに戻って
くるところまでがおおむね減速状態であり、そしてやや等速に戻す。夕食への短い説明で加速
し、またセリフが入って等速。シャルルが出かけたあとから最後までが、エンマの心理描写を
含む減速状態となっている。また、引用はしなかったが、この直後に回想へとつながるので、
全体でみるとなかなか動きの多い展開である。つまりこの時間の変速というものが、読みの
リズムを作りだしているところに注目してほしい。

44 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 19:32:37
 小説を書くのに、いちいちこんなことを考えて書くのは面倒くさいと思う人
もいるだろう。実際すべての作家が時間処理に汲々として書いているわけではな
いし、そんなことにはまったく忖度しないで書いている人のほうが多いだろう。
(だからこそここで技術的な差がつけらるのだが)
 これは車の運転と同じで、最初はギアチェンジの動作をぎこちなく確認しながらやっ
ていても、そのうち自然にできるようになってくるはずだ。なかにはテクが上達
してくると、『頭文字D』 ばりに 『異邦人』 のようなことをやりたくなってくる御仁
もいるかもしれない。まあ、上を目指すのは悪いことではないので止めはしない
が、失敗したときの破綻はより大きいものとなるので、それなりの覚悟をもって
取り組んでもらいたい。

45 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 19:49:06
 次の象徴的な比喩を取り上げてみよう。
 
>>40>>41
 《枯れた睡蓮が灯心草のあいだに立って動かなかった》
 《しかし散歩のことをたずねるとエンマは聞こえないふりをした。そして
 火のついた二本のろうそくのあいだ、自分の皿のそばにじっとひじをつい
 ていた》

 この二文の類似性にさほど説明はいらないだろう。灯心草は、名前の通り昔は
ろうそくの芯に使われていたイ草の一種である。そのろうそくの間にじっとして
いるのはエンマである。ならば灯心草の間で枯れている睡蓮もエンマということ
になる。しかし、睡蓮がどうしてエンマのイメージにつながるのだろうか。前に
も述べたが、これは翻訳という過程で失われてしまう比喩のあやなのだ。問題は、
睡蓮という花のイメージではなくて、言葉そのものにある。
 睡蓮の仏語は、nenufar ネニュファール 、学名をNymphaea ニンフィア という。これはギリ
シャ神話のNymphe ニンフ という精霊の名前からとっている。仏語ならまだしも、日本
語の睡蓮からギリシャ神話のニンフを連想するのは難しい。
 では、このニンフとはいかなるものなのか。
 ニンフは木や川、海などといった自然物はもちろん、国や町などにも宿る精霊である。
性格は純真無垢であり、若くて美しい性的魅力にあふれた女性の姿をとって現れる。
なんともあられもない男性の願望をみたした存在であるゆえ、やはりというか当然と
いうか、人間との恋に落ちる話が多いようだ。しかし、たいていその恋は悲劇的な
結末を迎えるのである。それを示唆するように、作者も睡蓮に「枯れた」 という不吉な
言葉をわざわざ付け加えている。

 『ボヴァリー夫人』を読み進めば、エンマがニンフ的な人物であると呑みこめることと
思う。さらに、ろうそくが二本である点も意味がある。この物語には、二や対という形が
構造の基本として細部から全体にわたるまで浸透している。そしてこのろうそくと睡蓮は、
非常に距離の長い伏線にもなっている。〔エンマの墓のレリーフの描写を見よ〕
 さらにテクストにはいくつかの興味深い伏線が張られていて、次はそのことについて
解説したい。


46 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 19:54:36
  〔前スレ143さんの書き込み〕
うーん、私の不勉強を棚にあげて、こう言うのもナンですが、
比喩についてはライターズ・センテンスとでもいうのか、
ふつうの(創作しない)読者に向けて書いたとは思えないのです。
なんというか、「ああ、ここで作者は遊んでるな」と創作する者に
だけ受ければいいな、といった内輪のテクとでもいいましょうか、
微妙な綱渡りだと思えるのですが……。
       *
       *
 睡蓮の比喩は、作者も読者に気づかれることをあてにしていないと
思います。作中において、バレバレの比喩というのは少なくて、どこか
ひねりのきいたものがほとんどです。もちろん文化や歴史的な背景が
日本とは違いますから、そのせいで解りにくいというのもあるでしょう。
 ただそれは技術上の遊び心からきているというよりも、フローベールの、
小説に対する厳格な美意識によってもたらされている、別の言い方をすれば、
ボルト一本の手抜きから大建築も崩壊するのだという、神経質なこだわり
の表れであるような気がします。

47 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:04:18
  〔解説つづき〕
 エンマはこの居間のくだりでロドルフの恋を確信するんですね。おまけに妻の
不倫を助けるために、シャルルは自家用の馬を買ってくる間抜けぶりを発揮して、
内心嬉しくてしかたないはず。その前にエンマが乗っていたのはロドルフの借り
馬ですし、見栄っぱりな彼女にしてみれば、それは恥ずかしいことでしょう。
 でも前段のセリフ>>41からは、シャルルの妻への愛情はまったくエンマに届いてい
ません。この冷めた関係とロドルフのやりとりに比較してある、あからさまな差別
はなんなのか。それは、シャルルという人物が凡庸や愚鈍さにみちた現実の象徴で
ある点にかかっています。エンマがその情熱や人生を感じるのは、日常からはなれた
劇的な恋や現実離れのした夢に浸っている時なのです。つまりエンマにとってシャ
ルルは、夫婦であるがゆえに嫌でも現実を突きつけてくるつまらない人間、あるい
はくびきでしかないのです。この対立は、物語中何度となく繰りかえされます。
 そしてこの現実への呪いが最後、シャルルを激しく打ちのめす効果となって現れ
るのだけど、ここで説明してしまってはつまらないので、ぜひ本書を熟読し、容赦
のない構造の力学にこころ震わせてください。

48 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:20:10
 「灯心草」 の役割は、蝶番(ちょうばん・ちょうつがい)と呼ばれている技法
で、類似した言葉・イメージの反復を使い、物語上の時間や空間をこえてA点と
B点をつなぎ合わせるはたらきをします。川端の場面転換や比喩の連携などはこの
応用といえるでしょう。「時間」 「対立」にならぶ基本技術なので、ぜひ憶えて
ください。この「灯心草」 は言葉のズレもなく、一番単純な使い方だと思います。
 この機能を理解した方は、夕食への場面転換で 《顔は外気にふれて夕映えのなか
に心もちほてっていた》 《夫はエンマの顔色がよいといった》 という部分に>>2
同じ手法をみてとることでしょう。
 ならば 「灯心草」 もロドルフが目に浮かぶ前にもっていけば、もっと効果的じゃな
いかと考えるかもしれません。私もそう思いました。ただ、同じ「灯心草」ではわざと
らしいと思ったのか、仏語の音感〔フローベールは書いた文章を何度も朗読し、少しでも
耳障りなところがあると書き直した〕を優先したのか分かりませんが、イメージの喚起
より後へ置いて余韻的な使い方をしています。しかしなにげなく 「それと同時に」 と
書いてあるところがフローベールらしくていいですね。あと、ゆらいだり、鳴ったりとい
うのはエンマの心の動揺を表現しています。

 まあそれにしても、シャルルはセリフの段でもエンマに冷たくあしらわれて、なおかつ
構造では蝶番で無視されてしまうこの二重の排斥に、哀れみを感じるなぁ。いい人なのに、
かわいそうなシャルル…。
 ちなみに人を思い出す時って、その周りの状況や印象と関連して思い出すのが普通な
んですね。あの時のアイツは変な恰好をしていたなあとか、初めてアイツに会ったのは
どこそこだったなあ、みたいに。記憶のメカニズムはそんなふうになっているんだとか。
だからこの部分は科学的な見地からも正し描写? なんていえるのかな。

49 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:24:44
 そういえば「対立」については突っこんだ解説はしてないですね。まあ、
高村光太郎の詩や 『異邦人』 にみる叙述自体(文体)の対立、エンマと
シャルルのような例をみればその原理を理解していただけるのではと思います。
 一般的な使われ方としては、文庫本でいうと上巻40pにあるルオーじいさん
が自分の結婚式のことを回想する場面、雪で「野原は真っ白だった」 という
そのイメージが、「妻のかわいいばら色の顔」 をいっそう赤く情熱的にみせる
というやり方ですね。

 原理が単純なぶんそのバリエーションも豊富で、いちいちその一つ一つをあげる
わけにもいきません。原理を踏まえて、ノウハウは自分で築いていくしかなんです
ね。しかしその原理をうまくつかめていない人もいるかと思いますので、簡単な解説
を書きました。

50 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:29:13
 人間は、対立のなかに刺激を求め、また感じる生き物である。スポーツにしかり
ゲームにしかり、また映画にしても、見渡せば娯楽というものはなにかと対立関係
を好んで採用する。白と黒が激突するその狭間に野性をくすぐられ、人はそこに面白
さや興奮を感じる。
 そしてもう一つ。コントラストの対立というものがある。色や物、気分、なんでも
よいが、主となるものを 「より際だたせるため」 に、比較して異なる言葉、イメージ
を対置する方法だ。
 「ぼくはなごみ系の小説を書きたいから、対立なんていらないんだよね」 というの
は、はなはだしい勘違いであり、作者はどうしたら読者がよりなごやかな気分になるのか、
ほんわかするのか、そのことを考え、対立に関わる差異の成分を探し求める必要がある。
 ぬるま湯のような文章をだらだらと書き連ねても、読者はなごみを通りこして退屈に
なり、あなたのテキストの上によだれを垂らすかもしれない。
 だが、対立だからといって白と黒の強烈なコントラストばかりでは能がないだろう。
実際には、対立にかかる明度変化の強弱と配分にこそ興があり、書き手にとってはそこ
が腕の見せどころでもある。いろいろと趣向をこらしてみて欲しい。
 最後にスタニスラフスキーのこんな言葉を紹介しよう。
 「悪人を演ずるときは、そのよいところを探せ。老人を演ずるときは、その若いとこ
ろを探せ。青年を演ずるときは、その老いたるところを探せ」

 〔ま、それが口で言うほど簡単ではないのだけれどね〕

51 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:37:38
  長編小説に伏線はつきものである。伏線とは、のちにおこる事態をそれとなく暗示
する、またはその事態の原因となるものをさりげなく配置する、演出の仕掛けである。
これは辞書にも載っているが、変則的な伏線としてもう一つ。小説の主題や構成そのもの
を示す伏線もある。その端的な例がつぎだ。
 作品冒頭、シャルルは登場するなりその愚鈍さを見せつけ、
「新入生、君は ridiculus sum(余は笑い者なり)という動詞を二十編書いて来たまえ」
と、教師に言わしめる場面は、この小説におけるシャルルの扱いを決定づける伏線といえ
るだろう。
 また、『異邦人』の文体もこの種の伏線と考えられる。
 この変則を別にすれば、伏線もまた蝶番と同じく、言葉やイメージの類似性を使った技術
でありその性格も似ている。だが蝶番が比較的短い距離をつなぐために使われ、表面に現れ
やすいのに対し(>>10のレモンがいい例)、伏線は導火線のように割と長い距離で仕組まれ、
その存在も気づかれにくいという違いがある。
 伏線の問題はこの距離にある。ともするとその導火線の火は、発現場所にたどりつく前に
消えてしまがちなのだ。

52 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:45:29
  〔前スレ164さんの書き込み〕
>発現場所につく前に消えてしまがちなのだ。

これはつまり、読者自身が忘れてしまっていて、もはや伏線にならなくなってしまったと、
そういう感じなのかなあ・・・。かといって、蝶番では、伏線というよりはギミックにしかならない、と。
        *
        *
 そういう感じです。目の前に本をポンと置いただけでは、これ、面白くもなんと
もないないわけですね。読者は、本を開いて読むという能動的な作業をしなければ
なりません。一冊の本を3時間で読み終える人もいれば、3日かかる人もいます。
ここが、映画や音楽の娯楽とのちがいです。

 伏線というのは、フラッシュバックの効果によって、もろもろの感情を惹起させ
ようとするものですね。
 ハッ、コレハアノトキノ…Σ(゚Д゚;)ガガ−ン みたいな(笑)。ちょっとマンガ的ですけど、
わかりやすい効果の形。でもこれは、あくまで読者の記憶の保存性にたよっている
わけです。なので伏線の賞味期限はなかなかに短いのです。だからといって、この
小説には伏線が含まれておりますのでお早めにおめしあがりください、と注を入れる
わけにもいかんでしょ。だからそこらへんを技術的にカバーしようというわけです。

53 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:50:23
 伏線の反復でもっともわかりやすい例は『千と千尋の神隠し』なんですよね。
実用度からいったら『ボヴァリー夫人』よりもこちらが上ですし。どうしよ。
こっちはすぐに書けるんだよね。ていうか書きたいんだよねw
 〔てことで書いたのがこちら〕

 『千と千尋の神隠し』 は 「水」 のイメージに満ちている。絵は百万言の言葉に勝る。
絵で語れない映画はいつだっておしゃべりだ。観客は耳で聞く以上に絵を読んでいる。
 この映画は現代版の龍宮伝説といってもいいだろう。未見の方はほとんどいないだろ
から、物語の詳細は省かせてもらい、本題に入りたい。

54 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 20:59:49
 ハクはなぜ千尋を助けたのか。また千尋も、なぜハクを信頼しその窮地を
救おうとするのか。さほど答えは難しくない。
 ハクがまだ川の神であったとき、千尋はその川に 「落ちて」 溺れ死にそう
になり、ハクがこれを助けた。真の名前を湯婆婆に奪われたあとも、彼はこの
記憶を残していたので、この異世界に来た千尋を当然助けようとする。千尋は
そのことを知るよしもないのだが、命の深いところではなにかを感じ取っている。
なにしろ千尋の尋とは水深を測る単位のことだ。お互いが 「水」 を象徴する
親和性から、今度は逆に千尋がハクの命を救うという、類は友を呼ぶ法則が働く
のである。
 お互いに似たものは、目にみえぬ引力によって惹かれあい近づこうとする。
この法則は現実だけでなく、虚構の世界においても有効であることを忘れないで
欲しい。
 もちろん、ハクが千尋を助けた川の神であるという答えは、ラストシーンの
ところまで伏せられたままだ。しかし唐突さを避けるための伏線はしっかりと
張ってある。

55 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:00:42
 冒頭、おびえる千尋とハクのセリフ、「忘れないで、わたしは千尋の味方だからね」
「どうしてわたしの名を知っているの?」 「そなたの小さいときから知っている」
がそうだし、腐れ神が大湯に浸かるシーンで千尋は湯船に 「落ちて」 溺れてみせ、
これを拾い上げてくれるのが川の神(腐れ神)であるところ。また川の神は龍の姿を
している。ハクもまたそうだ。龍は古来、雷雨を呼ぶ神話の生物である。
 千尋が空を見あげると、白い龍(ハク)が彼方に飛び去ってゆくシーンがある。
すると次のシーンには雨が降りだし、一昼夜でまわりは海になってしまう。さらに
手負いのハクと千尋が穴に 「落ちて」 ゆくシーンでは、川で溺れた記憶がフラッシュ
バックする。
 そしてついに最後、千尋はハクの真の名前を告げこれを取り戻し、二人は解放感に
満ちた空のなかを「自由─落下」してゆく。観客はこれをさも当然のごとく受けとめて、
ちょっと涙ぐんだりもするのである。これは愛の力などというありふれた理由ではなく、
厳として 「水」 の近接と反復によってもたらされた結果なのである。これにより、
ハク=川の神という伏線を支えてあまりあるほどの効果を発揮し、かつ作品のイメージの
統一性にも寄与している点をぜひ学びとってもらい、小説にも活用していただきたい。

56 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:11:30
    『ボヴァリー夫人』 にみる伏線

 《そのとき、遠く遠く森のかなた、別の丘の頂に、かすかな長い叫び声、尾を引くような
一つの声が聞えた》

 このとても気味がよいとは言えない 「声」 は、エンマだけに聞こえている。なにしろこの
「声」 は、はるか後方153p、物語的にはまだ訪れぬ未来から発せられた残響であり、その間
にはまさに広大な言語の森が層をなしている。そこにロドルフはいないのだから、聞こえる
ゆえもない。
 では、その153pに飛んでみよう。

 《乞食は前うしろの車輪の泥を浴びながら、もう一方の手でふみ台にしがみついていた。
声は、最初は弱く赤ん坊の泣き声のようであるが次第に鋭くなっていった。何をなげくとも
知れぬかすかな哀訴の声のように、それは闇のなかにながながと尾をひいた。鈴の音や木立
のざわめきや箱馬車のうなりを通して聞くと、その声にはエンマの心を転倒させるような、
はるばると遠いものがあった。それは竜巻が谷底へ舞い下がるように、エンマの魂は底へ沈
んで行き、果てもない憂鬱の虚空へエンマを運び去るのであった》

「声」の主はあきらかにこの乞食であるといっていい。さらに152pにある乞食の描写を掲出しよう。

57 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:21:57
 《峠には一人の乞食が杖をついて、行きかう乗合馬車の間をうろついていた。肩には
ぼろを重ね、顔は鍋底のように丸くなっている形の崩れた古い海狸帽(かいりぼう)に
隠れていた。しかしその帽子を脱ぐと、瞼のところに、血だらけな、ポッカリ口をあい
た二つの眼窩(がんか)が現れた。肉は赤くぼろぼろにただれていた。そこから膿(うみ)
が流れ出して、鼻のあたりまで緑色の疥癬(かいせん)のようにこびりついている。黒
い鼻の孔は、ひきつるようにクンクン鳴っていた。物をいうときには、仰向いて白痴の
ように笑った。すると青みを帯びたひとみがずっとこめかみの方へ吊りあがって、なま
なましい傷の縁へ突き当たった》

 この目のない乞食はもはや人間ではない。死神のそれである。この伏線はさらにあとの、
毒に悶え苦しむエンマが最期に叫ぶセリフ、234pにかかってくる。
 
《「めくらだ!」とエンマは叫んだ。
 そして、エンマは笑い出した。乞食の醜悪な顔が、物怪(もののけ)のように、永劫の
闇に突っ立っているのが見えるような気がして、残忍に、凶暴に、絶望的に笑い出した。》

 エンマは死の床で何度も叫び声をあげる。かすかな長い叫び声、それはエンマ自身の
断末魔として、時を越えて過去の彼女の場所>>40 へと響くのであった。

58 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:30:38
 伏線としてみると、14pの描写はどうにも弱い。読者に印象を残そうとする力みはまる
でなく、むしろ自然に忘れられていくことを望んでいるかのようなさりげなさだ。読者は
153pに至って、14pの場面を思い出すことは皆無であると言っていいだろう。どちらかとい
えば152,3pと234pを意識するのが穏当だ。しかし考えてみると、時間の流れに沿って強か
ら弱へとかすむ印象を、なるべく引き延ばそうとする通常の伏線とは、またっく逆の形式を
とっているのだからこれで正解なのかもしれない。この伏線の転倒性は難度が高いので参考
だけにとどめておく。
 14p〜16pにおける描写が、終盤の絶望と破滅への予兆を表象するものとして解説をすすめ
よう。

 物語はここから大きな展開をみせる。この不吉な呼び声に引かれて、不義と放恣にまみれた
運命の坂をエンマは転げ堕ちていくことになる。そして変化をみせるのはなにも話の内容だけ
ではない。その兆候を表すものが>>42 の二段目以降の描写だ。 


59 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:37:00
 エンマの大きな 「黒い」 眼が強調され、ある霊妙なものが全身にめぐって、エンマの
姿を一変させる。さらに次の心理描写の段でも、ある霊妙不可思議な世界に入ろうとして
いる。そこは、情熱と恍惚と狂乱がすべてらしい。そんなのはマトモな人間のみる夢では
ない。棺桶に片足をつっこんだシャブ中の妄想と大差ない。その意味でいえばエンマは
いわば恋愛中毒者であり、もちまえの神経症も手伝って幻視幻聴はあたりまえ、そこかしこ
であなたの知らない世界を垣間見てしまう。そして完全にイッてしまっている感情の頂
からみる現実、これからエンマが堕ちる現実という地獄は、はるか下の「闇」 のなか
にある。
 といっても、初見の読者はエンマの運命を知るはずもない。ただ勘のよい人は、なにか
不穏な空気を読みとるだろう。その凶兆のシンボルとなるが「黒」と「闇」という言葉である。
 上巻第一部でも「黒」と「闇」は何度となく表れるが、それはまだ不吉な影をともなっては
いなかった。下巻第二部からこの言葉はある種の異様さをちらつかせ、反復しながらも、けし
て意味を明確にせず、不安や予兆めいたものを感じさせ、読者の心理に暗い影を落とすのであ
る。これは作品の色調を統一するはたらきにもなっているし、心理色として黒がもつ効果はけし
て軽いものではない。遠からずそこには死のイメージが重なってくる。

60 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:40:17
 しかし、馬鹿のひとつ覚えのように、闇雲に反復すれば良いというものでもない。
上巻24p 「うれしかった」 を5連発するシャルルよろしく、野暮ったさを強調して
苦笑を誘うことにもなるので気をつけたい。

 実際、読者は同じ言葉の繰り返しには敏感で、まともな書き手はこれを懸命に避ける
努力をするし、一見マイナスの要素を転じてこれを利用する術もある。このように、類
似する言葉がどうも目につく場合、そこには作者のなんらかの意図があると思っていい
だろう。されども、なかには無自覚に意味もなく何度も同じ言葉をばらまく作家も、
いないわけではない。だれとは言わないが、とにかく私はくらくらと眩暈を覚えたので
あった。

61 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:52:57
 さて、伏線には基本技術の要素として「類似」ともうひとつ、「読者」という存在
が大きな要点になりましたね。
 長編小説はさっと読める代物ではありません。生活をするうえで、小説よりも憶えて
おかなければいけないことはたくさんあります。印象に残らないところは、次々と忘れ
られていくのも仕方のないことです。その対策として反復があったわけですが、もう少
しお手軽で簡単な方法もあります。

62 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 21:55:30
 《それは青葉棚の下、かつて夏の宵々に、レオンがうっとりと彼女を見つめたことのある、
あの腐ちた丸太のベンチの上であった。今はもう彼女はレオンのことなど考えてもいなかった!》

 この青葉棚のベンチは、物語のなかで重要なガジェットになっていて、最後の最後、
シャルルのオチに結ばれています。そこで消去されないように折々に登場するわけです。
 で、なにがお手軽かって説明ほどお手軽なものはないわけですね。「かつて〜あった。」
と書けば、読者には十分記憶の手がかりになりますね。キメのシーンでこんな説明を
いれるのは無粋ですけど、中継点でこうした説明を用いるのは有りかとおもいます。

63 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 22:00:50
 〔書き忘れましたが、小説技術を 「類似・対立・時間・読者・視点」 に分類して
解説しているのです〕
 
     ―― 読者と登場人物の結託 ――

『ボヴァリー夫人』上 113p

 レオンは部屋のなかを歩き廻っていた。南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、
こんな見すぼらしい家のなかで見るのは妙な気がした。ボヴァリー夫人は顔を赤らめた。
レオンは自分の眼つきにぶしつけなものがあったような気がして向こうを向いた。

64 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 22:07:14
       同 下 53〜54p

 恋する習慣の力だけでボヴァリー夫人の態度は一変した。目つきは大胆になり、言葉
づかいは露骨になった。まるで「世間をばかにするように」くわえ煙草でロドルフと散歩
するような、おだやかならぬことまでした。ある日エンマが男のように胴をチョッキで
締めつけて、「つばめ」を降りるのを見たときには、まさかと思っていた連中ももう疑
わなかった。ボヴァリー老夫人は夫と大喧嘩をしたあげく、息子の家へ逃げてきたが、こ
れまた大いに眉をひそめた。
 (3行略)
 ボヴァリー老夫人はその前の晩、廊下を横切ろうとするときに、フェリシテが一人の男
といっしょにいるのを見つけた。顎から頬へかけて黒い髭をはやした四十がらみの男で、
足音を聞くと急いで料理場から逃げて行ったというのである。エンマはその話を聞いて笑い
出した。ところが、老婦人は気色ばんで、風儀の良し悪しを頭から問題にしないのなら知ら
ないこと、そうでなければ召使いの風儀ぐらいは取締まらねばいけないときめつけた。
 「あなたはどんな社会のお方です?」そういう嫁の目つきがあまり横柄なので、老婦人は、
お前さんは自分自身の言い訳をしているのだろうとやり返した。
 「出て行って下さい!」若婦人は飛び上がって叫んだ。
 「これエンマ! お母さん……」仲裁しようとしてシャルルは叫んだ。
 しかし二人とも激昂して、もう向こうへ飛んで行った。エンマは地団駄をふみながら、
 「ああ、世間知らず! 土百姓!」と繰り返した。
 シャルルは母親のほうへ走って行った。母親は狂気のように口をもぐもぐさせながら、
 「生意気な女! おっちょこちょい! いやもっとひどい女かも知れない!」

65 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 22:09:37
 嫁姑の争いとそれに翻弄される夫を活写し、それを傍観しておもしろおかしく茶をすする
図は、みのもんたの決め台詞「 奥さん……別れちゃいなさい!」 を昼時に楽しむ現代にも
通じるものである。昔小説、今テレビといったところであろうか。
 まあそんなことはどうでもいい。この技術の話は単純だ。今、読者が読んで知り得た内容
をそのまま、登場人物も共有してあるかのように振る舞うという手法である。
 伏線のところで、読者はやたらと忘れる生き物なのだということを書いた。しかし、今読
んでいる部分を忘れてしまうほど、ひどい健忘症の人はそういないだろう。つまり、短期的
にみれば、読者は書かれてあるすべてのことをよく知っているわけだ。

66 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 22:13:16
 まず最初に上巻113p、エンマはここでなぜ顔を赤らめるのか。レオンの眼がぶしつけ
だったから、などと答えてはいけない。学校のテストなら○だが、作家の答えとしては×。
 正解は、《南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、こんな見すぼらしい家のなかで見
るのは妙な気がした》 というレオンの心理をエンマが読みとったせいだ。なぜ読みとれ
るのか。読者(わたし)が知っているからだ。
 エーッそんな馬鹿なことあるわけないと、異議をとなえたくなるだろうが、そんな馬鹿な
ことあるのが小説なのである。もちろんあまり露骨にやると超能力じみてくるので、そこは
曖昧さを加減してやる必要があるだろう。
 この一文も現代的な水準にあわせれば、レオンの眼がぶしつけ云々という説明の逃げ道は
なくてもいいのだが、リアリズムに徹するという作品の性格もあってのことと推測する。
 しかし無節操に誰とでも読者との結託を用いていいわけでもなく、やはりそれなりにわき
まえるべきルールはある。

67 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 22:18:08
 一、作品の性格を考慮すること。リアリズムやルポルタージュ風などの少しお堅い性格の
作品には、派手な使用を控えたほうがいいだろう。

 一、人物の性格もまた考慮すること。エンマやボヴァリー老婦人、ひいてはこの作品に
登場する女性たちはみな勘がよい。元来、男性よりも女性のほうが細かいところによく気
がつくという性質がある。相手の営みや心理をやすやすと見破るその勘どころのよさに
よって、読者の分身ともいえる結託が成立する。間違ってもシャルルのような抜け作が、
相手の心情を読者と同じように察知するなんてことはおこらないし、おこしてもいけない。

 最後は、やはり距離である。53〜54pの例は少し入り組んだ構成になっているけれども、
老婦人との結託のもとになる情報(ロドルフとの不逞)は、すぐ隣に書かれてある。なる
べく1ページ以内の距離でおこなうようにすれば、空振りを防げるだろう。

68 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 22:26:36
 この技術がもっとも鮮やかな効果を発揮するのは、地の文とセリフの連携である。
その例として>>64 をあげた。しかしながら、なるべく目立たないように書いている
こともあって、こう今ひとつぱっとしない。他にいいところもなかったので、お粗末、
恐縮ながら、私のやっつけを例にとって見てみよう。
 
 「あいつ絶対許せない! キミとはやっぱり馬が合わないみたいぃ? ふふ、ふざけんじゃ
ないわよ! 他に女ができたのはわかってんだから、チクショー!」
 どうやら飲んできたらしい。目をまっ赤にして、真紀子はしきりにソファを殴ったり蹴ったり
している。そのうちに疲れてぐったりとソファへもたれ、鼻をチーンとかんだ。
 離れたところでテレビを見ていた弟の純一郎は、呆れたように横目で姉の醜態を見やり、そうやって
すぐヒステリックになるから、男に逃げられるんじゃないのかね、と内心つぶやいた。
 ティッシュの箱が飛んできて、純一郎の頭に命中した。
 「あいつが悪いのよ!」
 「痛いな、おれに当たらないでくれよ」

69 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/08(木) 22:31:43
 文章の拙さはご容赦いただき、地とセリフの構成を看取してもらいたい。
 このような感じにすればさほど不自然にもならず、地と会話の連携(真紀子
と読者が結託してる)が図れると共に、興趣のあるすっきりとした流れになる。
 非現実的な世界や幻想性を前景化する作品なら、もっと大胆な結託をみせても
いいだろう。不気味で奇妙な世界をさまよう 「私」 を書いた、内田百 『冥途』
にその例をみることができる。さすがにこちらは惚れ惚れするような名文である。
 
 《女は暗い道をどこ迄も行った。私は仕舞いに家へ帰れなくなる様な気がし出した。もう
後へ引き返そうと幾度も思いかけても、矢っ張りその時になると、今にもその泣き声が思
い出される様な気がして、どうしても離れることが出来なかった。道の片側に家の二、三
軒並んでいるところを通った。家の戸は皆しまっていた。隙間から明かりの漏れない真暗
な家だった。その前を通る時、自分の足音が微かに谺(こだま)しているのを聞いて、私
はふとこの道を通った事があるのを思い出した。私の足音が、一足ずつ踏む後から、追い
かける様に聞こえたのを思い出した。
 「いいえ、私の足音です」 とその時一緒に並んで歩いた女が云った。そうだ、その道を
歩いてるのだと気がついたら、私は不意に水を浴びた様な気がした。》

 初心者はなにかと現実性を踏襲しようとする断り書きによって、文章の流れを濁らせてしまう。
下手な親切心は返って作品のあだとなる。ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、
書き手には必要であろう。最終的に作品を完成させるのは読者なのだから

70 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 19:44:15
   ──〈黙説〉空白の引力 ――

   『ボヴァリー夫人』上 111p


 そのときレオン君が書類の束を小脇にかかえて近所の家から出てきた。彼は近寄って挨拶し、
ルウルウの店先に張り出したねずみ色の日覆いの影へはいった。
 ボヴァリー夫人は、子供に会いに行くのですけれど、そろそろ疲れてきましたといった。
 「もしも……」 とレオンは答えて、それから先はいいよどんだ。
 「どこかご用がおありですの?」 とエンマは聞いた。
 書記の返事を聞いてエンマはそれではいっしょにきて下さいと頼んだ。そのことが早くも
夕方にはヨンヴィルじゅうに知れ渡った。村長の妻テュヴァシュ夫人は女中の前で「ボヴァリー
の奥さんはあやしい」とはっきりいった。

71 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 19:45:09
 しかるべき情報をわざと書き落とす。知られたくないものを隠蔽してはぐらかす。これを
黙説法という。
 黙説法などというと、なんだかエラそうな技術に聞こえるが、なんのことはない。はっき
りものを言わない日本人お得意の 「暗黙の了解」 や 「沈黙もまた答え」、表現としては、
「こんな所で立ち話もナンですから」 「ここは遠慮しておいたほうがアレですし」 など、
最近では(ry なんていうのもこの黙説の範疇に入る。なんだかとたんに下世話な感じになっ
たけれども、小説には


 さて、上述のように唐突な切り方をしたらどうだろう。小説には? なに? とにわかに尻切れ
になった部分が気になりはしないだろうか。黙説の効果のひとつとして、この空白の生むいわば
真空的な誘引力がある。
 私は「読者との結託」で、ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、書き手には
必要であろう、最終的に作品を完成させるのは読者なのだから、と書いた。
 黙説はこれを書くことではなく、書かないことで成そうとする技術である。つまり読者はそこ
に書かれてある以外のことは知りようがない。肝心なところをはぐらかされるとそこが気になる。
しかし、その動機、真相は容易につかむことができない。なぜか。書かれていないからだ。ある
程度どころか、すべてを読者の想像や解釈に放擲(ほうてき)することで、黙説が生む空白は
あさましいほどの引力をあらわにする。



72 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 19:47:38
 空白はとても魅力的な機能をそなえている。さも意味深なように書いて読者を
惹きつけつつ、どうにも解せずに難渋しても、それはきっと自分の読解力が未熟
なためだろうと思わせてしまう詐術である。ことによると、読者は何度も同じ
箇所を読み返し、ページを遡行して答えを、納得のいく解釈を探りだそうとする
だろう。こうした空白を作品全体にちりばめ、構造そのものを黙説化してしまうと、
純真な読者はコロリとこれに引っかかる。まるで底のみえない深遠さや得体の知れ
ないスゴイ小説のような勘違いが生じるのだ。
 そしてこの空白の名手ともいえるのが村上春樹である。読者の興味と関心を惹き
つけるためならば、創作者が持つ情報の独占的な立場を大いに利用してはばからず、
なおかつ本来あるべき答えさえも実はないという態度によって、ときに厳しい非難
や不興を買っているのはこのためだ。そんなことはへのへっちゃらで、気にもとめ
ない図太い神経を持っていると自負する人は、その手並みを研究してみるのもいい
だろう。

73 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 19:48:30
 黙説法のえぐいところばかりを書いてしまったが、通常はもっとしとやかな情緒性
を誘い出すために、あえて語らないということが多いだろう。卑俗な例でいえば、結
びあう男女の目線とか、おなじみの医者の告知シーン(セリフを挟まず、落胆の仕草
や表情で病状の深刻さを表す)といったものが思い起こされる。

 より自覚的に黙説を利用する場合、ひとつ注意点がある。読者の感情や思惟によって
空白を埋めるためには、前後の書き込みや話の流れから、見えざる答えを導けるように
しておかなければならない。あまりに勿体ぶった書き方をすると、書く側の優位性に寄
りかかった悪手か横着と取られかねない。懸念や謎を煽るような目的で使用するならば、
伏線の一つや二つを同時に配置するくらいの気配りをみせるべきだと、私は考える。

74 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 19:50:21
 さて、上巻111pにみる例は、地とカッコ書きでやりとりする会話を黙説でつなぐ良い
お手本。
 「そろそろ疲れてきました」 というエンマの言葉をうけて、「もしも」 とレオン
は言うが、この先は言葉になっていない。彼の性格からしてもじもじと、「そこで少
し休んでいきませんか」 とか 「お茶でもどうですか」 といった、月並みな誘い文句が続
くであろうことは容易に想像がつく(正確には読者にそう思わせる)。並の書き手なら
ここで 「もしも…なんですの?」 なんてセリフを挟んでしまいがちになるが、フロー
ベールはこの二人のやりとりで両者の力関係をはっきりと見せつけている。エンマから
みると、レオンは典型的な年下のかわいい坊やという扱いだ。

 エンマは 「もしも……」 というレオンの言葉の先を気にもとめず、「どこかご用がお
ありですの?」 と自分の質問を浴びせかける。それに対する、イエスかノーかという簡単
な答えも、あるいはそれ故に、レオンは言葉を発する(書かれる)ことを許されない。
しかし、エンマの 「それではいっしょにきて下さいと頼んだ。」 という一文によって、
レオンの答えは容易に察することができる。
 いったいどちらが主で従であるのかという力関係がこの黙説の内に示されている。小説の
主人とは、限られた紙面、場面を、どれだけ占有しその領域を支配しているかということに
つきる。続く112p、エンマとレオンが乳母の家へむかう道すがら、
「彼は彼女の足に合わせてひかえめに歩」 くことも必然の所為といえるだろう。

 このレオンとは対照的な、エンマのもうひとりの恋人が、ロドルフである。



75 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:01:06
〔前スレ216さんの書き込み〕
漏れは例の空白部分には全くピンと来なかったなあ。
言われてみたらその通り、とは思うんだけど。

漏れが鈍いのか、それにしても
「もしも」のあとに口説き文句がくるとは思わないもの。
(もしもお茶に誘ったら……とかそういう台詞を切ったのかな)

訳の問題だろうか?
        *
        *
 例文は物語の流れのなかで活きてくる黙説なので、そこだけ取ってみても
なかなかピンとこない、というのも確かにあるかもしれません。「もしも……」
という言葉のなかに、語られない彼のエンマに対する思いや性格というものを、
説明やあからさまな演出によらず読者に訴えかけるところがミソなんですけど、
やはりこの技術特有のいやらしい側面が取り扱いを難しくしています(使い方
自体は簡単)。
 なので、ぶっちゃけ張りきって習得してもらわなくても構わない、それとなく
意識せずに使うくらいが安全で、せっせと使ったところで作品に箔が付くわけ
でもなく、返って泥を塗るような結果にさえなります。まあ、身も蓋もないことを
言いますと、この技術のところは読み飛ばしてもかまいません。
 じゃあ書くなよということになるんですが、知識として持っておく分には大過ありま
せんし、いやオレはうまく使ってみせる、というか好んで使ってましたという方には、
やはり慎重な扱いをうながしたいと思います。あと、無駄な文章をそぎ落とすことと、
黙説をごっちゃにしている方も注意してください。

76 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:03:29
 非常にいい例(悪い意味で)として、アニメの 『新世紀エヴァンゲリオン』
があります。
作品全体に散見する黙説はあきらかに空白の求心力を発揮していたし、後半に
至ってはもう開いた口がふさがらないという有様でした(ファンの方には申し
訳ないが)。
 ただ、エポックメーキングの役割は確かにありましたし、その圧倒的な支持
によって本来マイナス面となりうる部分を覆い隠していました。誰だったかは
忘れましたが、良心的な分析を試みて、なるほどとうなずける現代性を提示した
批評もありました。しかし、冷静になって見てみれば、黙説のあざとさはハッキリ
していて、これをもろ手で誉めるわけにはいきません。
 これや良しと、二番煎じのまねごとで同じ黙説を取りいれることはくれぐれも
しないでください。 あまりほめられることではないのです。

77 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:04:13
   ―― 余情…あるいは余韻 ――

 余情とは何かと問われれば、なんだか分かりにくい。しかし、なんだか分かり
にくくても、どんな感じかは分かるような気がする。「余情がある 」と言えば、
まず褒め言葉だと思っていいだろう。
 私たちは、この余情感を感動のひとつとして捉えているとみていい。余情からう
ける感動は、ハリウッド映画によくあるような熱のこもった激しいものとは質を
異にする。
 辞書を引けばなるほど、余情とは何かと、無駄のない筆致は役所のごとしである。
 しかし、いかにすればその 「しんみりとした美的印象」 やら 「言外の情趣」
が醸し出せるのか。どのように書けば人は余情を感じやすいのか、いくつかの例を
示ながら解説してみたい。


78 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:05:32
 まず、一連の文章から受ける情景やその背景に、読者がどれだけ感情移入して
いるか、という部分にポイントがある。
 私は 『クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲』 を観た感想で、一部で騒
がれるほどの懐古趣味に感じ入ることはなかったと書いた。そうしたノスタルジック
な事物を 「知っている」 ことと 「体験している」 ことには、大きな隔たりがある。
その差が、そのまま作品への感情移入度に反映したとみていいだろう。懐古趣味の
感動を支えているのは、体験的イメージに依るところが大きい。
 このイメージの効果をよく表しているのが、『夕焼け』 の詩であった。今一度
読み返してみて、どうだろう。情報は決定的に少ないのに、印象は返って鮮明になると
いう、詩ならではの趣が発揮されているかと思う。これは電車内や夕焼けといった日常
風景だからこそ、読者はそこに共感しつつ書き込まれていない情報をイメージで補完
するのである。この黙説の手法に注意してもらいたい。そして、この詩の読後感を言葉
で表すならば、「しんみり」 という表現を用いてもなんらおかしくはないだろう。
 余情が生成される要素として、感情移入と印象があり、そこに黙説の空白が加わること
で読者に言い難い複雑な情感を呼び起こす。と、言い切れないところにめんどうくささが
あるのだが、その強い傾向性をもっていることだけは確かである。

79 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:06:26
 さて、これだけではなんだか分からないので、『千と千尋の神隠し』 をまたまた
例として取りあげたい。ちなみにフランス語のタイトルは『Le Voyage de Chihiro』
で、「千尋の旅」とそのまんまであるが、こちらの方がより内容を浮き彫りにしてい
ると言えなくもない。旅とは、出会いと別れ、自らを省みる人生の縮図という見方
もできるし、その響きにはどことなく感傷的な影さえちらつく。情に訴えかけるには
申し分ない舞台装置なのだ。さすがフローベールを生んだ国であると、褒めておいて
いいのだろうか。

80 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:07:26
 余情が最も強く表れるのは、主に作品の終結部においてである。
「けして振りむいちゃいけないよ」 「さあ行きな、振り向かないで」
 映画の終わり近く、千尋を見送るハクのこのセリフはいったいなにを意味するのか。
すぐに思い浮かぶのは、主人公に対しての制約とペナルティを与えるという筋書きで、
これは民話や伝説などの物語でよくみられる形式である。卑近な例でいえば、浦島太郎の
玉手箱、シンデレラの12時の鐘、走れメロスの暴君との約束などがあげられるだろう。
 もし千尋があそこで振り返ったとしたら、どうなるのだろう?  ソドムとゴモラの滅亡
を見たロトの妻のように、塩の柱となって死んでしまうのだろうか?
 結果として、なにか土壇場でイベントが起こるような筋をみせながら、千尋は
何ごともなく元の世界へと帰っていく。これといった伏線もなく、わざわざ振り返るな
という制約を設けた意図はどこにあるのか、ここで分析したみたい。
 余情を生むための要素として、印象と感情移入、そして黙説が大きな役割を果たして
いることは先に述べた。かなり大雑把で抽象的要素だが、細かな点はあとで書くことにする。

81 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:16:16
 ラストにおいて、ハクのくだんのセリフをはさむことで、まだなにか有りそうだという
期待感を煽っているところがミソだ。いわゆるどんでん返しへの布石であるような予感が、
「ああ、もう終わりだな」 と、作品から離れかけてゆく観客の心をまた惹きつけるので
ある。途中、千尋は振り向くようなそぶりをみせるものの、物語の流れがここで変わる
ことはない。つまりなにも起こりはしない。
 そして、千尋の一家がトンネルを出て車で去っていくそのあとに、まだなにかエピローグ
があるような淡い期待(構成的な振り向き)をまた裏切るように、映画はそこでふっつり
と切れてエンドロールとなる。そこへ木村弓の歌う切なげな主題歌がかぶさり、美しい彩り
を添えて終劇となる。
 スクリーンに吸いついていた観客の意識はここで唐突に引き剥がされる。黙説の最大
効果である不確定感は、映画に深く没入していた観客ほど強く感じられ、その語られぬ
空白に余情は拡がっていく。もはやそこは言葉の領域ではなく、一様でもないために明
確な説明をほどこすのは難しい。人によっては、余情という言葉でかたづけられないほど
の複雑な情感を訴えるかもしれない。逆にいえば、容易に言葉へと置換できるようなも
のから余情は生まれないとも言える。

82 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:18:04
 さて、構造的な視点でラストシーンをみた場合、どのような解釈ができるだろう。
 やはり千尋は現実を生きるのであって、あれからまた油屋の世界を訪ねることは
ないし、またハクに会うこともない。きっとまた会えると約束するのも、最後に千尋
を振り向かせないための方便にほかならない。なぜなら、観客はもうハクの川が埋め
立てられてしまっていることを知っているのだし、物語は観客の期待を裏切るかたちで、
なにも特別なことは起こらないと示しているからだ。
 また、最後に一瞬映るあの髪留めは、ファンタジーによくある実は夢じゃなかった
という暗喩とみるよりも(そのオチも含んではいるが)、千尋が現実を生きる力を獲得
した証なのだ。映画冒頭の、気力のないだらけた少女ではなくなっている点をみればよい。
そして、映画の終わりと同じく、観客もまた現実を生きなければならない。それがあの
ラストシーンの意義であり、黙説の最大の焦点であるように感じられた。
 『天空の城ラピュタ』 や 『もののけ姫』 のようなスペクタクルロマンとはまったく
性格の違う詩情性に作品の眼目があるのだ。観客をぐいぐいと惹きつけて、どっぷり
と感情移入させておき、最後の最後でスッと突き放す。
 「さあ行きな、振り向かないで」
 これは千尋だけでなく、観客にも向けて発せられた作者の言葉であるように思う。
作品は虚構なのだ。けれども、そこから受ける感動は嘘ではない生きていく力になる。
それで十分ではないかと、その憎らしい演出に私はいたく感心した。これは既存の
商業アニメに対するアンチテーゼなのである、といったら少し大げさであろうか。

83 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:22:24
 小説作品では、宮本輝 『螢川』 の終結が印象的なので、ひとつ余情の例として
取りあげてみたい。
 約80ページほどの短編なので立ち読みでも読みきれる分量だ。技術的に学べる
ところも多いので、暇があったら読んでみて欲しい。頭から通読すれば、次の場
面をより深い感嘆をもって迎えられるのではないかと思う。


84 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:27:03
 夥しい(おびただ)しい光の粒が一斉にまとわりついて、それが胸元やスカートの裾から中に
押し寄せてくるのだった。白い肌がひかりながらぼっと浮かびあがった。竜夫は息を詰めてそんな
英子をみていた。螢の大群はざあざあと音をたてて波打った。それが螢なのかせせらぎの音なのか
竜夫にはもう区別がつかなかった。このどこからか雲集してきたのか見当もつかない何万何千万も
の螢たちは、じつはいま英子の体の奥深くから絶え間なく生み出されているもののように竜夫には
思われてくるのだった。
 螢は風に乗って千代と銀蔵の傍らにも吹き流されてきた。
 「ああ、このまま眠ってしまいたいがや」
 銀蔵は草叢(くさむら)に長々と横たわってそう呟いた。
 「……これで終わりじゃあ」
 千代も、確かに何かが終わったような気がした。そんな千代の耳に三味線のつまびきが聞こえ
た。盆踊りの歌が遠くの村から流れてくるのかと聞き耳をたててみたが、いまはまだそんな季
節ではなかった。千代は耳をそらした。そらしてもそらしても、三味線の音は消えなかった。
風のように夢のように、かすかな律動でそよぎたつ糸の音は、千代の心の片隅でいつまでもつ
まびかれていた。
 千代はふらふらと立ちあがり、草叢を歩いていった。もう帰路につかなければならない時間
をとうに過ぎていた。木の枝につかまり、身を乗り出して川べりを覗き込んだ千代の喉元から
かすかな悲鳴がこぼれ出た。風がやみ、再び静寂の戻った窪地の底に、螢の綾なす妖光が、
人間の形で立っていた。

85 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:28:15
 情と景が渾然となっているような文脈である。まず銀蔵のセリフを境に、上段の
竜夫と英子のいる川べりの場面と、下段の千代と銀蔵のいる土手の場面
における印象の類似性がある。
 螢の大群が立てる波のような音、英子の体に群がる何万という螢、それを息を詰め
て見る竜夫の驚き。
 千代の耳に聞こえる三味線の音、覗き込んだ川べりに立つ人形の螢光を見、かすかな
悲鳴をこぼす千代。
 それぞれの場面を描いた一連の文脈は、乖離すことなく読者のなかで混じり合い一体
となり最後、螢と人間のキメラとなって静かに闇にたたずむのである。千代と竜夫の
見るこの唖然とする情景は、そのまま読者の脳裡に残光として残るだろう。
 作者はしかし、千代の聞いた三味線のつまびきや銀蔵が呟いた終わりとは、螢とはな
んであったのか、その答えを明らかにしてはいない。
 もちろん、これを魂や生命の具象化であるとみるのは容易い。しかし、そうした安易
な答えに収斂してしまうことを拒むような、底の知れない感触がこの世界にはある。
ひとり闇のなかに取り残された読者は、いつしか無数の螢のひとつとなって、この得体の
知れぬキメラに吸い込まれていくのだった。

86 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:32:50
 余情を生むための仕掛けとして、雨や雪などの自然物はかなり利用価値の高い
小道具である。こうした道具を使う場合、なるべく周知な、イメージしやすいもの
を選ぶといいだろう。上記の小説では、タイトルにもなっている螢が強力な役割
を果たしている。
 もちろんこうした道具を単独で使ってもあまり効果はない。できれば登場人物の
心理や物語の核心をそこはかとなく反映することで、単なる雨粒は、語られぬ悲し
みや涙へと読者のなかで変貌するのである。ならば、わざわざ話者を借りて悲哀を
語ったり、人物に露骨な独白をさせるのは明らかに愚の骨頂であろう。これは比喩
の技術と似たようなところがあるけれども、こちらはあくまで余情を与えるような
雰囲気作りが目的であって、あまり手の込んだ仕掛けは必要ない。それよりかは、
いかにさり気なくかつしっかりと読者に情景をイメージさせられるか、表現の繊細
さ、シンプルさといった筆致に労力を注ぐべきだろう。そして読者の感情移入を妨げ
ないためにも、なるべく冗長な描写や無粋な説明は避けた方が好ましい。大事なこ
と、言いたいことはあえてぼかして描いてみせ、明確な答えではなく 「なにか」 を
匂わせ感じさせる。多分に書きすぎるよりは、少し書き足りないと思うぐらいで、
丁度よいのである。
 しかし、いくら簡素淡白がよいといっても、新聞報道に余情を感じる人はほとん
どいないように、単に事実や出来事を書き連ねただけでは情感に乏しい。心や風情、
自然や日常をしっとりと表現するところに余情の因子はあるのだ。

87 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:33:56
 さらに注意すべき点を述べれば、濃く強く激しい表現をなるべく排除し、露骨な
情動を避けつつ難解で錯乱した文章になってはいけない。かといって稚拙で軽薄
な文章ばかりでは刺激がなさすぎる。そして一番の問題が、「読者」 という存在
である。
 余情をもたらそうと、どんなに書き手が汗水たらし、耳から脳汁が垂れそうな思
いをして必死に言葉を紡ぎだしても、最後は読者の感性に委ねられている。読者の
持つ経験、思想、知識に左右されることはもちろん、その時の気分なんてもので、
こちらが狙った余情など吹き飛んでしまうのだ。書き手は、そうした幻の読者を怖れな
がらも、一方でまた読者を信じて書くしかない。

 ちなみに喜怒哀楽という分かり易い感情を作品内で狙うのなら、対立の技法を駆使す
れば結構な効果が得られるし計算もしやすい。同じ感情操作でも、余情はあっさりと一
般化できない微妙な感情であるために、その表現に 「深い」 という言葉、意味が多く用
いられる。うまく言葉にできないが 「とにかく、いい」 「ぐっと胸にきた」 と評され
たら、作家冥利に尽きるというものだろう。

88 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/16(金) 20:35:10
 ちょっと今まで解説してきた技術とは勝手が違いますので、すぐさまこれを自分の
作品に取りいれるというのは難しいかもしれません。奇抜さや文体の妙で読ませる小説
にはまず向きませんし。
 それに、最終的な表現は個々人のセンスという問題になってしまい、黙説の技術だけ
で成り立つほど単純ではないんですね。当たり前といえば当たり前ですが、作品に感情
移入してもらわなければ余情もなにもないわけです。それには他の技術、表現力をも含
めた総合的な文筆力が試されるわけなんです。ちょろっと幽玄霊妙な小説でも書いてや
るかと、さらりと書ければ、芥川賞の選考も楽でしょうね。ま、本格志向はトレ
ンドじゃないのかな。私もよくわかりません。
 それでもなお、この種の叙情文、美妙の醍醐味を求めて止まない人には、「情」と「景」の
関係をしっかりと考えて書くことで、洗練さの部分では及ばないにしても、少しは見栄
えのよいものに仕上がるかと思います。

 また、読者に対して、書き手の不安や期待が伝わってしまうと、もうそこに自然な感動
は生みだされないとみてよいでしょう。特に文学好きの読者の目は肥えていますので、
あざとさやいやらしさのほうが目についてしまうはずです。
 本の帯に 「涙が止まらない」 なんてコピーがデカデカとあると、返って白けてしまう
感覚ですね。まあ、心がねじけていると言えなくもないのだけど。素直な心で大いに泣け
るという人は、こういった感覚を気にする必要はないかと思います。小説を楽しむには、
そっちのほうが幸せなんじゃないかな。

89 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:10:59
 映画は、その表現のために目まぐるしく視点を変化させるが、元ネタともいえる小説は
定点的な視点でしかものを見れないのだろうか。いつも同じような視点でしか小説を書け
ないのは、小説が不自由な媒体だからではない。それどころか、あまりに自由すぎて大抵
の書き手はその取り扱いをもてあましているのだ。
 書きたいものがあるという 「思い」 だけではやはり、なかなか読者に伝わらないとい
うのが現実であろう。その 「思い」 を形にする、見えるようにするための技法をおおま
かに、「類似」 「対立」 「時間」 「読者」と、分けて解説してきた。
 今回で一応最後となる 「視点」 は、直接小説の表現にかかわる技術でもあり、解りに
くいと感じるところもあるだろう。そこはまったくもって私の力不足からなる業であるため、
ご容赦していただきたい。

 小説上のカメラワークともいえる実際的な視点の操作を解説する前に、私たち自身の感覚
器官が捉える視点、ものの見方についてまず考えてみたいと思う。

90 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:13:24
         ─ イメージと視点 ─

 小説の世界は、なにがしかを見るところから始まる。小説が映画化できるのも、ひとえ
にいろいろと 「何か」 を見ているからに他ならない。ここで見るというのは、なんとな
くカメラでパチリと撮るような、単なる切絵的な見方をいうのではない。
 おおらかな気持ちで空を見上げるとき、私たちは風の香りや鳥のさえずりなどの諸感覚
から入る情報も視覚に織り交ぜて、空というイメージを見ている。だからこそ、そこにあ
る空に春を見つけもし、うららかなる語の情緒も育まれてくる。逆に針穴に糸を通そうと
しているときはどうだろう。視点は針穴や毛先の一点に集中し、周囲のものはほとんど感
取されなくなり、息をするのさえ忘れてしまう。ひとくちに見るといっても、このような
差異がそれこそ無段階に生じている。

 人は全知覚から得る情報を、イメージに集合させて外界を捉えている。もちろん視覚は
そのうちの8割強を占めているが、残りの知覚もイメージを構成する要素として無視はで
きない。また、意識下ではさまざまな刺激から別のイメージが浮いたり沈んだりしている。
それがなにかの拍子に前面に表れ、実際に今見ているイメージに融合したり投影されると、
壁の染みが途端に人面の相を成し、その虚像に怯えたりするのである。そして、この虚像が小
説世界という現のなかで動きだせば、人はこれをファンタジーやホラーと呼んで類別す
るだろう。
 平生は、意識下のとりとめのないイメージは抑制されているため、絶えず錯覚を起こす
ようなことはない。しかし、麻薬などの作用でこうした抑制の働きが鈍化すると、強い幻覚
症状を引き起こす。現実にはあり得ないもの、見えるはずのないものが、ありありと見える
という。 




91 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:15:53
 物書きが、言われてムッとくる言葉のひとつに 「陳腐」 というのがある。
別に陳腐なものを書こうと思って書いたわけではないのに、ひとは陳腐だあり
きたりだとバカにする。じゃあと次は珍妙な表現手法をかってがんばってみる。
すると今度は、そのみなぎった珍妙さが、みえみえの魂胆がまた陳腐極まると、
したり顔で吐き捨てるのである。いったいどうすればいいのかと、明日はどっちだ
と言いたくなるだろう。
 トルストイの自伝的小説 『青年時代』 にこんな記述がある。


 《公爵夫人の好きな場所とは、庭園のいちばん奥深いまったくの低地にある、細長い
沼にかけわたされた小さな橋の上だった。ひどく限られてはいるが、非常に瞑想的な優雅
なながめだった。われわれは芸術と自然を混同することにすっかり慣れてしまったため、
絵画の中で一度も出会ったことのないような自然現象が、まるで自然そのものまで作り
ものであるかのように、人工的なものに思われることがじつにしばしばある。反対に、絵
画の中であまりひんぱんにくりかえされてきた現象は陳腐に思われるし、現実で出くわす
ある種の景色が、あまりにも一つの想念や感情にみちすぎていたりすると、わざとらしい
ものに思われるのだ。公爵夫人の好きな橋の上から見る景色も、このたぐいだった。》

92 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:17:40
 日常において私たちに必要とされるのは、きれいなものをきれいと言い、きた
ないものをきたないと言う神経である。散りゆく桜ははかなく、梅雨はうっとう
しいのである。直截な、ありきたりなもの言いができることは、他人の安心を買う
うえで便利な思考ルーチンだといえるだろう。

 風景を発見したのは都会の人間だと言われている。
 ともすると、私たちは馴染み深いシンボリックなイメージから逸脱するのを避け、
「あまりにも一つの想念や感情にみちすぎ」 た、平凡な表現のなかへ対象を回収し
ようとする。また、ときにその陳腐さは、知らず人間を差別的に選り分ける政治性
さえ発揮する。
 既存のなかにうずもれた風景を、裸の目線でもう一度発見すること。そう口で言
うのは容易いが、習慣的な発想はなかなか私たちを解放してくれない。ついつい紋
切型の思考と文句を連ねてしまうのは、無思慮であるか、高ぶった気持ちでいると
きだろう。落ち着いてものを見れる(イメージできる)状態にない人は、概してお
さだまりのフレーズ(バカとか死ねとか)を連呼するのだし、書ける書けるぞと、
三倍速で小説を書いてみたら、ことごとくなにかの真似事、しかも出来の悪いしろ
ものであった、なんてことも無きにしも非ずである。
 そこで書き手は一所懸命に、独創的で、個性的でカッコよく、うまい文章を書こうと
意気込む。そして、頑張れば頑張るほど、返って 「わざとらしいものに思われるのだ」った。

93 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:19:05
 >>22-23 のところでも触れたことだが、私たちはさまざまな観念を養ってきている。
意図的であろうとなかろうと、ある種のイメージを工夫なしに扱えば、陳腐化を
助長して作品を台無しにしてしまう恐れがある。陳腐さの判断はつきにくいとこ
ろもあるだろう。だが、世界を見る自分の視点が固着していないか、ただ漫然と
書いていないか、おりおり自省してみるのは大切なことだ。

 マンネリが加齢的であるように、幼年と成年でイメージの仕方も変遷していく。
次はそうしたイメージの方向性と、見ることが書くことにどう繋がるのか、そん
なところを解説したい。

94 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:21:28
     ―― 詩人 まなざし 異化 ――

 多少なりともクリエイティブな仕事をしたいと願う人にとっては、前にいった
陳腐さを避けたり、克服するのに、もっと深くものごとを見なければ。感覚だって
「カミソリみたいに」 なんて比喩を持ち出さないくらいに鋭くしなければ、そんな
風に思い至ったかもしれないし、またそう思い至るように書いたかもしれない。
 たしかに、なんの工夫もなく、当たり前のことを当たり前に書いて、読者の感動
を催促するのはなんとも横着で虫のよい話である。仮に卓抜した観察眼をもって
「なにか」 が見えたとしても、それを言葉として描写につなげる筆力が伴なわなけ
れば、活力ある文章を書きつづるのはむずかしいだろう。その上、現実や小説を深刻に読み
たがるほどに、表面的な人生論や人間像といったものを獲得してしまう場合も、ままある。
そうした読み手が書き手の側に回ったとき、この抽象的な 「深さ」 は、まさに陳腐の
裏返しになってしまうのだ。
 では、そうならないために、どのようなものの見方、書き方があるのだろう。と、いうこ
とで、今回はブレヒトの演劇理論とロシア-フォルマリズムの文学理論から、異化の効果に
アプローチしてみたい。合わせて、言葉とイメージの関係性とイメージの構築方向についても
思量する。まあ、理論といってもいかめしい話をずらずら並べるのが目的ではないし、概念的
に共通する部分も多い両者を細かく弁別したりはしない。また、私の解釈の違いもあるやも
しれない。なので、お手元にへぇボタンでも置いて気楽に読んでいただければと思う。なかに
は創作に役立つキラリと光る種もある、かもしれない。

95 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:23:31
 北朝鮮拉致被害者である地村さんの子供たちが日本に戻り、故郷の福井に帰る途中、
整った水田を見て長男が訊いた。
 農作業をしている人があまりいないけど、なぜ?
 父の保志さんは、日本では機械で作業をするから、人手は必要ないんだ。そのよう
に答えると、ずいぶん驚いていたという。
 端的にいえば、この驚き、予期せぬ出会い、発見が異化である。
 北朝鮮では、昔の日本と同じように、田植えや肥料の散布に多くの人の手を借りて
おこなっている(農業の機械化はかなり遅れているらしい)。それが常識であり、
変わらぬ営為であり、自明の事柄なのであった。
 かの地では、よれよれと不揃いに並ぶ稲も、この地では北朝鮮軍の行進と同じように
整然と並んでいるのである。彼はそのとき、日本を祖国ではなく、異国なのだと実感した
だろう。

 逆転させれば、これは私たちの常識、田植えは機械でおこなうこの時代に、―─『木を植
えた男』ならぬ『稲を植えた男』とでも言おうか─― ひとりせっせと腰をかがめて、一本
一本、広大な水田に向かって稲を植えている人がいたら、どうだろう?
 そこには、とかく風になびく稲穂を 「美しく」 描写したがる視点からは見えてこない、
「現実」 のすがたがある。
 世間にすんなりと共感される自然な目線とか通念といったぬるま湯に、どっぷりと浸かっ
ていては見えてこないものがある。もはや変わることはあるまいと安心しきっている人々の
認識をうたぐり、見直し、また解体していく。そうした異化の効果が、人を、なかんずく
社会を転化させるひとつの力ともなる。

 蓮池さんの子供は、はじめソウルという言葉に嫌悪感を示していたという。しかし、韓国
ドラマ 『冬のソナタ』 を観たあとには、自分からソウルに行ってみたいと口にするまで、
その態度を変えている。それはなにも、ヨン様がステキだったからという理由だけでは
ないだろう。

96 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:31:21
 この事例をみれば、北朝鮮当局が自分たちの体制=神話を守るために、必死になって
情報を統制するのも当然であろう。北朝鮮に限らず、神話作用というのはいたる所に
働いているものだ。それは日々の習慣であったり、学校や会社の規則であったり、法律
であったりする。そして異化は、それらが決して不変であり絶対ではないと訴える。昨今、
物議〔皇位継承、雅子さまの問題〕をかもしている皇室、天皇という不可侵の神話とて
例外ではない。 〔個人的には、皇室は外交の面で国益にかなっていると思うが〕
 なんだかアナーキーな話しぶりになってきた。とりあえず、必要なのは、眉間にしわを
寄せた思想ではなく、決めつけてものを見ない開かれた見識であろうと思う。

97 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:33:11

   「しにん」 小二 ふじもりてつ

 雨ばかり  ふって  いたので
 こうずいに  なって  しまった。
 たくさんの家が  ながれる。
 人が  しぬ
 どこの  うちも
 おそうしきを  やって  いる。
 おはかばかり  ふえた。
 おはかには  みんな
 そうしきまんじゅうや
 みかんを  おそなえして  いった。
 夜  になると
 しにんたちが  でてきて
 ちゃいろの  どろみずを  はきだしている。


98 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:36:31
 この詩を、小学二年生の児童が書いたから驚けというのではない。また、よくある
「心の闇」 について語るのでもない。
 「子供」 という記号がもたらす 「純真」 とか 「無垢」、「明るい創造性」 などと
いうイメージが、まがいものとまでは言わないまでも、必ずしも子供の実像ではない
ことを承知した上で、この詩を玩味しなければなるまい。
 注目すべきは、やはり作者の一貫した視点であろう。詩の内容に伴なって現れがちな、
怖いとか悲しいといったありふれた感想には支配されず、ただ、ただ、無情のカメラとし
て世界をとらえている。このリアリズムが、詩に迫真性をあたえている。そして最後の
二行(ここでも視点はいささかもブレはしない)、突然作者の内より吐き出された異化
の 「こうずい」 で、この硬質な世界は押し流されてしまうのである。
 仮にこの詩が、 「みかんを  おそなえして  いった。」 のところで終わっていたと
しても、それはそれで重みのある詩として成立はする。
 だが、堅密な現実のあわいを突き破り、超現実の使者(死者)がわれわれの眼前にその
すがたを現すと、詩全体(世界)がいっきに異界化され、重みに増して凄みさえ感じさせ
るまでになるのだ。
 もちろん、計算高くそうした効果を意図して書いたわけではないだろう。むしろ妙な見栄や
分別をひけらかそうとしない子供のほうが、言葉の美的構成力をそのまま感知して、すぐれた
詩を生み出せるのかもしれない。
 さかしらな大人はこういう詩に触れると、さらに言葉のウラへ回り込もうとして、無遠慮に
心理学的メスを振るいたがる。しかし、なにやらわかったような同情や感傷を招く解釈をして
は、返ってこの詩から遠ざかることになるだろう。
 ちなみに、鋭い方は 『螢川』 のラストと類似した構造を、ここに重ねるかもしれない。
まあ向こうは小説で、情緒に流れている分、迫力という点ではこちらに軍配が上がるけれども。

99 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:38:40
  
  「光」 小六 石川せき子

 しめったわらから光がとびだした
 光にはねがはえてとんでいった。
 とんでうすくすきとおった中へはいった。
 その中に、春がさいていた。


100 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:39:29
 うって変わってこちらの詩は朗らかで、健康的な明るさに満ちている。親が手放し
でよろこんでほめそうな詩であり、実際よろこんでいいし、ほめてあげていい
(ふじもり君の詩もほめてあげよう。あの詩を理解できる審美眼が親にあるかが問題
だが)。
 その簡明な印象から、なんだか自分にも書けるかしらと、そわそわする方もなかに
はいるかもしれない。だが、はたしてそれほど簡単に書けるであろうか? いや、書く
前に、同じ状況にあってこの 「光」 を 「見る」 ことができたであろうか?

101 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:43:30
 作者は、おそらく田畑などに刈られて積まれたわらを目にしたのであろう。
日差しに強さを感じられるようになった春の昼時と思われる。たぶん周りには
もっと 「春らしい」 ものがたくさんあったに違いない。
 草木が芽吹き、花が咲き、蝶が舞い、鳥が歌う。そんなどこにでも転がって
いる春の意匠が、目につくはずである。
 しかし、作者は春を描きたかったのではない。作者は見つけたのだ、光を。
 この詩の命は、一行目に集約されている。とびだした光を追った先に、春があった
だけだ。言い方は悪いが、一行目以降はおまけである。
 形のないものに形をあたえ、命のないものに命をあたえる、アニミズム的自然観の
あらわれといえばそれまでだが、私はやはり作者の一般的な感興に落ちない(これは
両方の詩に共通している)まっすぐな視点を称えたい。

 私たちは日常を円滑化させるために、必然、瑣末なもの、茶飯事となるもののすがた
を省略してしまう。例えば、洗濯物を干すのにいちいち洗濯バサミの形状をしげしげ
と見定めて手にするだろうか。パソコンで文字を入力するのに、一文字ずつキーの配置
を確認していたのでは埒があかない。
 たしかに、脳ミソを効率的に働かせるために、そうした情報のエンコードは必要である。だが、
そんな雑な、ほとんど盲目的な目でいたとき、あの 「光」 が見えたであろうか。
 異化の眼 ―─ 詩人の眼といってもいいが ─― は、そうした日常の自動化された感覚を止め、
意識の表へと知覚能力をフィードバックさせ、対象を自在に生け捕ってみせる。そのとき、
言葉は見る者のイマジネーションと同じようにゆがめられ、世界は自然の法則から解き放た
れる。
 結果、異化効果をもたらす。

 これで、よしわかった! と、詩人の目になるのだったらなにも苦労はない。
なぜなら、ここまで書いてきたのは、ほとんど感覚の領域の話であるから。
 柄谷行人の言説をここで引用しよう。

102 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:46:43
 《たとえば、怒りや悲しみがいかに真率なものであってもそれをことばにすれば
凡庸であり他人を感動させないのは、それらが本来伝えがたい失語の溝を一挙にとび
こえて社会化したクリシェ〔紋切り型の表現〕に頼ってしまうからだ。固有の怒りや
悲しみでありながら、ことばにしたとき私たちは他人の怒りや悲しみしかもつことが
できないのである。書く意図や動機がどんなものであっても、私たちは社会的言語と
の格闘を経なければリアリティを実現することができない。したがって、いかに書く
かは技術的な問題ではなく、もっとも倫理的な問題であり、ここにすべてがふくま
れている。
 批評が文学となりうるのはこういう地点においてのみだ。そして批評が、批評家
自身の存在の一端に触れるのもこういうときだけである。》
                       『畏怖する人間』 柄谷行人

 その倫理的な問題というのは、創作の舞台の上では言語感覚の問題になる。
そういう感覚をなかなかつかめないという方もいるだろう。技術そのものの
伝達は容易であっても、「感じ」 とか人の内的資質を伝えるのは至難であり、
ついに才能はコピーされ得ない。
 だがしかし、そこをなんとかして、技巧的に異化へ近づく方法を考えて
みよう。

103 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:50:17
〔前スレ339さんの書き込み〕
異化の視点については、それをメインとして作品を仕上げるためには、
つまるところ個人に特別な資質・感性が必要なのではないかと思っています。
しかし、異化の視点を作品の一部分においてスパイスとして使用することは、
技術として身につけたものであっても、有効に利用できるとは考えています。
             *
             *
 あとちょっと補足で、いくら異化といっても、何度も何度も使いまわされ、
反復されれば、もうそこに異化の効果はなくなってしまいます。素材のうまみ
を引き立てるスパイスとして異化を用いるという意識は正解かと思います。
技術のほとんどはそうした調味料的な性格なのですが、その主客を大胆にひっ
くり返すということもできます。実験的、前衛的小説というのは手段が目的化
しているんですね。
 別にそういう書き方がダメだというんじゃないですよ。ただ、その目的や
理想のためには、どのような手段も正当化されてしまう勘違いが、ときにおこ
ります。作家という人種は、なにを書いてもかまわないんだ、という論理は、
ゴシップを書くような売文屋の理屈であって、まっとうな物書きのものでは
ありません。渡部直己が筒井康隆のテンカン差別を指弾するのもそういうところ
でありまして、くわしくは 『日本近代文学と<差別>』 を参照してもらい、ここは
江藤 淳の一説を取り出してみましょう。

104 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 14:51:40
《 当然、作家は自分の恣意にまかせてあらゆることを描くことを許されていない、
いや、描き得ないという態度でなければならない。
 いいかえれば、作家には、自分の都合で他人を勝手に傷つけてもよいという 「権利」
は扶与されていない。にもかかわらず、対象を 「写生」 しなければならぬ場合には、
本来 「智識的」 「打算的」 なものである礼儀─「虚礼」 を介在させなければなら
ない。具体的にいえば、それは知的な虚構を介在させて描くか、または暗示によって
描く、という方法を採用することを意味する。つまり 「写生」 は、「殺風景」 な、
あからさまなものであってはならない。それは描かれる対象に対するいたわりを内に
含み、ときには見ながらあえて描かぬという断念を含むものでなければならない。》
                       『リアリズムの源流』 江藤淳


 作家というのはなにも職業的な人ばかりを指すのではありません。文字を使って
言葉を外部に表出する行為(メールやチャット、掲示板など)が一般化されたいま、
だれもが(まさに小学生であっても)作家性というものを持ち得るのです。そうし
た環境の変化に対して、人々の認識が追いついていかないために、チャットや掲示板の
マナーといったものを広く啓蒙しなければならないような問題もおこってくるわけ
です。
 先にあげた柄谷行人と江藤淳の言葉をかみ合わせて、書くこと、書かれることの
意味をたまに考えてみるのもいいかも知れませんね。

105 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:02:04
 〔わかるひとにはわかるだろうが、以下に示す図はソシュールの言語学を援用して
いる。といっても、まんま同じではないし(というかだいぶ違うが、どこがどう違う
かをここで詳しく述べる余裕はない)、ラング(言語体系)とかシニフィエ(記号内容)、
シニフィアン(記号表現)、共時態やら虚定的なる術語の解説から入らなければなら
ないことを考えると、あまりにめんどくさい。だからその種の術語には頼っていない。
言語学に関する知識を得て理解した人にだけ向けて書いては、初心者にきびしいものと
なる。まあ私自身、言語学に通暁しているわけではないので、下図はこの解説用に、
かなり都合よく私が改変した、言語の 「イメージ」 であり、学術的な正当性はまっ
たく保証されない。だからソシュール云々ということも書いてない。デタラメのでまか
せを書いたつもりはないが、求知心のある方は、ぜひきちんとした学術書にあたって
もらうことを望む〕


 言葉というものは、決して辞書的な意味だけにとらわれて機能しているのでな
いことは、だれしも経験的に承知されていることと思う。抽象度の高い、「愛」
や 「花」 や 「海」 といった名詞からは、さまざまなイメージが導かれてくる。
逆に 「グルタミン酸」 という名詞は、イメージの喚起力に乏しい。あまり人口
にあがることのない専門的な用語や具体的に対象を指示する言葉には、イメージ
の広がりに欠けるところがある。
 日常を引き剥がすことによって得られる驚きの異名が異化であるならば、やは
りその材料となる言葉も、親しみ深い、つまりすっかり油断してしまっている日
常の言葉から選び取るということになるだろう。
 では便宜上、名詞だけに絞って言葉の中身を図式的に表してみよう。


   << 形象⇔言葉(記号)⇔記号内容 >>

    < 記号内容(概念)一般性→連想─類似系→辺縁系 >
    <                └→対立系   >

    < 外形=イメージ→写実的 閉鎖型  >
    <       └→空想的 開放型  >

106 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:08:34
 言葉は、使用される条件によって大きくその意味内容を変えてくる。例えば、
「女子高生」 という名詞は高等学校に通う女子生徒という意味だが、渋谷あたり
で中年オヤジが若い女の子をつかまえて 「女子高生?」 と、いやらしい目つきで
言うとき、この名詞は本来とは違う意味内容を持ち、卑猥なイメージさえ期待され
ている。この 「女子高生」 はひとつの記号として表現され、そういう性質を与え
る概念(イメージ)を記号内容と呼ぶ。
 形象は文字通り形を有して私たちの知覚に触れるものすべてである。如上のエロ
オヤジは、もろもろの視覚的判断、その体形とか肌の色艶とか服装などの情報(物理量)
を、脳内で心理量(妄想含む)へと変換し、そして自分の持っている言葉の辞書から
ふさわし語を選び、これを表出、さらに不確定な部分を確定させるため疑問符をつけ
加えた。
 こうした文脈のなかで、言葉は高い記号性を持ちえるが、紙切れに 「女子高生」
とただ書いてあるだけだったり、機械的な抑揚のない発話は、そうでもない。また
「田舎」 と聞くと、非常に肯定的なイメージを持つ人もいるし、その逆のイメージ
を抱く人も少なからずいて、言葉によってはその記号内容が大きくゆれているもの
もある。前置きとしてそうした複雑な過程や問題を逐一取り上げるわけにはゆかな
いので、一応そういうメカニズムがあるんだと概観してもらって、記号内容(意味)
の類別から異化の源泉にせまってみたい。とはいっても、女子高生をジロジロ眺め
まわすのも具合が悪いので、もっと抽象度の高い 「石」 を材料に選ぶとしよう。

107 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:09:45
 まずは 「石」 という名詞から思い浮かぶイメージ、意味を、とにかく思い
つくままに書き出してみる。辞書などを参照してみてもいい。多少の個人差は
あるとしても、その社会集団のなかで通用されるイメージが抽出されると思う。
それを 「石」 の中心概念として定置させる。
 近いところから、「硬い、重い、冷たい、くすんだ色」 そして 「小さい、
つまらない、ゴツゴツした、沈む、落ちる、岩、瓦礫」 と、類似系のイメージで
「石」 の外郭を広げていく。さらに進めていくと、「墓、彫刻、遺跡、武器」 と、
関連しつつも動詞や形容詞、副詞が減って名詞が増え、中心にある一般性から離れ
たものが出てくる。あげくには 「石川県、医師、イッシッシ」 など、単に発音が
似ているとか字が同じといっただじゃれ、「うまい、うるさい」 というナンセンス
に行きつく。ここが 「石」 の辺縁系である。記号内容の統一概念が崩れ去る地点だ。
 たぶん滑稽やシュールとしての異化が、この辺縁系にありそうだと、感ずかれた
かもしれない。試しに辺縁系に属する言葉を拾い上げ、本体である 「石」 に結び
つければ、次のような表現が生まれる。
 「この石うまいね」
 そう言って石をボリボリ食べる輩がいたら、たしかにそれは奇妙な事態といえる
だろう。この隠喩的実在はゴーゴリの 『鼻』 やカフカの 『変身』 を極点として実
を結んでいる。だからといってこれらの二番煎じを求めたがるのは軽率で、もうすで
に何十番も煎じられていて、今さら味など残ってはいない。小説の主題としての可
能性は一分もないのかといわれれば、まだあるような、でもないような、と微妙な
ところである。どちらにしろここを目指すのには、そうとうな念力で干からびた泉を
掘り下げる必要があるだろう。
 また、類似系のイメージの数々はあらゆる比喩の下敷きとなっている。頑固で融通の
きかない人のことを 「石頭」 というし、ジャンケンのグーはその形状から 「石」 の
記号で用いられている。こういう比喩表現は枚挙に暇がない。それは、いうなれば安定
と調和をもたらすイメージの和合反応だ。


108 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:13:47
 例えば 「水」 というキーワードを用いて映画全体の統一感をもたらしたその
手法は、すでに 『千と千尋―』 の解説で触れた通りである。
 しかし一方で、類似系のイメージは、画一的な印象を与える側面も有している。
ここでもう一度 >>99 の詩をみてみよう。その一行目。
 「しめったわらから光がとびだした」
 この詩の核となっている句だ。あまり他人の詩をいじくりまわすのははばかれる
のだが、「しめったわら」 を違う言葉に置き換えたらどうなるか。
 「たんぽぽから光がとびだした」
 こうすると、なんだか本当にどこにでもあるような句で、この 「光」 は私たち
の胸に飛び込んでこない。下に続く句もすべて台無しになる感がある。つまり、あり
きたりなのだ。まったく詩味というものがない。これは 「たんぽぽ(ひまわりでも
いい)」 と 「光」 が非常に似た、近いイメージで連結されているのと、語そのもの
も使い古されて新味に欠けるためである。

 詩において直喩よりも隠喩が好まれるのは、「ような・みたいな」 といった助動詞
を省くことでより名詞間の相互関連度が高まり、お互いのイメージが強く読者のなかで
結ばれるという効果を感得しているからだ。印象をすくいあげる絵画的な趣を狙ってい
るといってもいいだろう。魅力的である反面、使い方を誤れば作品の質を一気に下げて
しまうリスクもある。ポイントはイメージの距離のとり方にある。
 そこで、「たんぽぽ」 と書かないためにはどうするか。「光」 を生かすも殺すも、
たった一語がもたらす異化にかかっている。

109 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:15:48
 対立系─― 反意系と書くのが正しいだろうが、今までの流れからこちらを選ん
だ─―は、普段の言語生活では縁のない意味作用である。「お水ください」 と
言って 「ライター」 を差し出す人はいないだろう。だからこそ、そこにインパクト
がある。矛盾やコントラスト効果を狙う対立技法の応用だ。

 先に書き出した 「石」 の記号内容に再び目を転じてみよう。
 そして、「石は鳥だ」 と言ってみる。
 石は一般に水よりも 「重く」、「沈む」 ものであるし、なにかの支えがなけれ
ば地面に 「落ちる」 のが当然で、投げた石が鳥のようにどこかへ飛び去ってしま
うことはあり得ない。しかし、虚構上ならば石は鳥になる。
 「飛行石」 というものがある。映画 『天空の城 ラピュタ』 に出てくる、物語
の中心となるアイテムだ。この映画のキーは、「飛翔」 にある。
 作中、空を飛ぶ道具はたくさん出てくるが、なぜ 「飛行石」 が特別な地位にある
のかといえば、この 「石」 だけが対立系に属する隠喩的実在だからである。どんな
巨大な戦艦が宙に浮かぼうと、それは空力学的な保障を得ている間だけであって、その
自然則が破られればどんな飛翔体も地に落ちていく。本来、飛翔とはま逆のイメージを
持つ石(飛行石)だけが、こういう決まりごとを無視するのである。故に、物語はこの
「飛行石」 を中心に回転し、逆説的にこの石に向かって物語のすべてが落下してゆく。
その果てにどんなカタルシスを迎えるのかは、ここで紹介するまでもないだろう。

110 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:17:55
 手法さえわかればあとは連想力の勝負となるし、これ以上くだくだしく例を
あげる必要もないと思う。細かい距離のとり方や構成は自分で試行錯誤してい
くしかない。

 さて、内容が前後して凝縮だが、また例の詩にある異化の成分を考えれば、
「光」 の対立系としてあるのは、「わら」 ではなく、「しめった」 という
動詞にあった。「かわいた」 でも、ましてや大げさに 「つめたい」でもなく、
「しめった」 たというイメージの距離がいい味をだしている。
 これを大人のいやらしい技巧を加えて書き換えるならば、「みずのそこから
光がとびだした」 などと書けもしよう。でも、レトリカルでない 「しめった
わら」 のほうが自然な気がするし、なにより足下にちまちま咲くたんぽぽなど
に目もくれぬ炯眼がなければ、この詩は生まれなかった。
 しかし、天賦の才に頼らずとも、ある程度形式的な手法を借りて異化的フレーズ
や発想を創作に導入できれば、表現の幅も広がり、かつ連想力も鍛えられて一石二鳥である。
つまりここでも、石=鳥なのであった(イテテ

111 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:18:53
     「銭湯で」 石垣りん


 東京では
 公衆浴場が十九円に値上げしたので
 番台で二十円払うと
 一円おつりがくる。

 一円はいらない、
 と言えるほど
 女たちは暮らしにゆとりがなかつたので

 たしかにつりを受け取るものの
 一円のやり場に困つて
 洗面道具のなかに落としたりする。


112 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:19:40
 おかげで
 たつぷりお湯につかり
 石鹸のとばつちりなどかぶつて
 ごきげんなアルミ貨。

 一円は将棋なら歩のような位で
 お湯の中で
 今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

 お金に
 値打ちのないことのしあわせ。

 一円玉は
 千円札ほど人に苦労もかけず
 一万円札ほど罪深くもなく
 はだかで健康な女たちと一緒に
 お風呂などにはいつている。


113 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:21:33
 ちょっと時代を感じさせる生活詩ですけど、価値転倒の異化と自然な筆致で
おこなわれる擬人化がどこにあるか、考えてみてください。テクスト分析の
問題としてはかなり簡単ですけどね。
 単に好きな詩を載せたいだけって話もありますけど(笑

114 : ◆YgQRHAJqRA :2005/09/18(日) 15:43:07
やっと半分を過ぎたかな。肩がこります。
ちょーしこいて、だんだん解説の分量が増えていくんだよなあ。
まあ読まれる方もシンドイでしょうけど。

115 :名無し物書き@推敲中?:2005/09/18(日) 21:11:16
このスレから読み始めて、まだ前スレくらいしか読めてないけど
期待してるよ。おもしろい。

116 :名無し物書き@推敲中?:2005/09/20(火) 22:52:17
勉強になります。
できれば、まとめサイト(ブログででも)作っていただけないかなあ、と。


117 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:30:50
文芸というものの面白さが少しでも伝われば、これ幸いであります。

ブログですか。あーいうのは、ずぼらな人間(たとえば私)には向かないでしょう。
何にしろ、独立したサイトを別に作ろうという気は、ちょっと起きそうもない
のです。すみません。


118 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:31:48
 私の目は真実しか映さない。
 そんなセリフを無条件に信じきってしまうのは、よほどのお人よしである。なん
ていくらか誇らしげに文明人の理を説いてみても、超魔術とかイリュージョンとか
のトリックに目を白黒させてしまうあたり、やはり見えるものは真実だという体験
的了解はそう簡単に崩れたりしないようだ。日記や伝記をノンフィクションに列し
てみるのも、肉眼への信頼が前提としてあるためだろう。
 小説も言葉という道具を使ったイリュージョンである。意識的な書き手は、言葉が
いかに読者のなかでリアルに結像するかを思案するだろうし、時間と資金があれば、
そのための取材を惜しまないだろう。

119 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:33:59
 経験はあらゆる表現の原石であり、物書きにとって 「見た」 ものは、すでに
「書いた」 ことに等しい。あるひとつのものを点として描くだけならば、それは
絵を画くよりもはるかに容易だといえる。まずほとんどの、形あるもの(ないもの)
に付いている名前を書いてやりさえすれば、それで済む。たとえば、「人間」 と。
 だが、小説は一幅の肖像画とは違う。小説は時間の織物であり、物語を紡ぐのは
絶え間ない視点の運動である。その線的運行を私たちはプロット(筋)と呼び、
そのなかで 「人間」 は解体され、分裂し、文章という形に構築(テクスト化)され
ていく。見るべきものは漸増し、かつ複雑化する。しかし、なにもかも書きしるして、
そのすべてを厳密に見定めることをしても意味がない。文章の冗漫化を避けるため
にも、「見る(語る)」 ものと 「見ない(語らない)」 ものとを取捨し、話が野放図
とならないよう、体裁を整える必要がある。あらかじめ作品全体を俯瞰し、綿密な計算を
立ててから書き始めるのに越したことはないが、いつもそんなベストな状態で書ける
とは限らないだろう。気まぐれで、唐突にやってくるファンタジーを、締め切りは待って
くれない。

120 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:35:53
 しゃれた物語なんてものはどこにも見当たらず、文体だけに頼って書きなぐる
力量も野蛮さも持ち合わせていない方にとって、小説はまるでブラックボックス
である。見えないものは書きようがない。だったら書かなければよい、というもっ
ともな進言はひとまず呑みこんで、コーヒーをすすりながら 「書けないなあ」
とボヤくすぐそばに、案外と物語は転がっていたりするかもしれない。

 「見たこともない天使は描けない」 と宣言して、絵画に実際的現実を導入した
のはクールベだったが、パッチリ目を開けていればなんでもリアルだということ
にはならない。そもそも眼球に映じているのは単なる光の乱反射でしかなく、
私たちはそこに形や意味を 「読み」 にいくことでイメージを確立する。あるい
は記号化させる。それは生得的なものではなく、もっぱら学習的なものである。
言い換えれば、私たちは見たことのあるものしか描けないのだった。
 ストックされたイメージと言葉を相互変換し、それを切ったり貼ったり混ぜた
りして、「なにか」 を、私たちは表現しようとする。そして、ものの見方の違い
は、そのまま表現方法の違いともなって現れてくる。

121 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:36:28
 ロールシャッハと呼ばれる有名な心理テストを幼い子供に実施すると、大人と
は違うなかなか興味深い結果が得られるようだ。
 テストは、左右対称の無意味なインクのしみを見て、そこになにが見えるかと
いうものである。(あからさまに病的でない)大人はまず、しみを大きな輪郭と
して把握し、なるたけもっともらしい顕在的な形を見る。輪郭線は固く結ばれて
いて、ちぎれるようなことはない。ちょうど影絵でも見ているような感じだろう
か。そこには人の顔や昆虫や動物などのすがたがあって、なるほどそういわれれ
ばそのようにも見えるなと、うなずける答えと傾向性が示される。内的に閉鎖し
たイメージによって、それらは見えて、または読めている。

122 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:37:11
 対して子供、というか幼児は、大人とは対照的な反応をみせる。まず、しみ
全体の対照性、整合性にとらわれない。輪郭の部分部分を指し、ここにゾウが
いるとか、ここにはお花が咲いているといって、ほとんど自分にしか見えない
形の解釈をする。ある輪郭の出っ張った形がゾウの鼻に見えたとすると、そこ
からイメージが拡大してゾウの全体を空想的に補完するという具合である。
 思えば子供というのは、消しゴム一個を車にしたり船にしたり、はたまた飛
行機にしたりと、多様な遊び道具に変えてしまう。そういうイリュージョナルな
空間になかば身をひたしていられる、おおっぴらにそれが許されているのが幼
年期であるといえよう。大人はそこに、懐かしさと共に羨望の眼差しを送り、
しきりに幼年回帰を試みる。かの芭蕉も、俳諧は三尺の童にさせよ、なんてこと
を言うのだから、ストーリーが思い浮かばずに、あっぷあっぷしている物書きの
救いのわらとしてなにか役にたつやもしれない。

123 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:39:26
 ここにコーヒーカップがあるとしよう。
 「コーヒーカップ」 というイデアをどこからか引っ張ってこれる者同士では、
この名詞の交通は実にスムーズなはずなので、私たちはそこになんの不審も抱か
ない。その上で、ひとまず、コーヒーカップというこの便利な名前をうち棄てて、
「それ」 なるものを言葉で表し、他人に認知させるとしたら?
 私たちはあらためて 「それ」 をじろじろ眺め回しながら、「見る」 ことの複雑
さと、それをいか様にも表現しうる言葉の弾性に戸惑うかもしれない。そしてなか
ば習慣的に、いわゆる写実的な描写という方法を用いるかもしれない。ある種の饒舌
が最低限のリアリティを確保する、そんな期待。けれども、それは全体から部分へと
膠着する閉鎖的な視点であり、なおかつ過剰な言葉の累積が返ってイメージの発展性、
拡張性を妨げる、といえなくもない。
 もちろん描写は今日でも有効であるし、今後も有効であり続けるだろう。ただ、
ここでは物語を示唆するものの見方を上位に置く。

124 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:42:58
 「朝の一杯から立ちのぼるブルーマウンテンの香り」 は、「コーヒーカップ」
と呼ばれる物の共時的幻想を私たちにいだかせる。その一杯は湯のみかもしれな
いのに。
 部分から全体を、あるいはその延長を想起させるリアリティ、この換喩(提喩)
的な表現に帯びるイメージの開放性が、物語というわらをつかまえるヒントで
あるかもしれない。

 例えば、帰宅した夫のシャツに長い髪の毛が付着していれば、妻はこれを非常に
訝しむ。長い髪の毛とはつまり、「女」 を表象するものであり、夫と女が親密であれ
ば、これは愛人ということになる。さらに露骨に香水のにおいなど染みついていた
りすると、妻はもう平常心を失って夫に詰め寄り、修羅場となる。
 こんな話は月並みだと、バカにするかもしれないが、実はこの同工異曲はいたると
ころで、何度も繰返し用いられている。夫婦が親娘に、髪の毛がコンドームに替わる
だけで、シークエンス自体の構造はほとんど変わらない。
 そして、次に夫の切断された足が河原で発見されれば、なんとかミステリー劇場
になるし、妻もお返しとばかりに浮気にはしれば、トレンディ(かなり死語)ドラマ
仕立てとなろう。小説もそういう部分では変わりがない。
 物語というのは、こうした個々のシークエンスの集合体であると同時に、シークエンス
自体が派生的に(この例でいえば髪の毛が)物語を発現させるのだとも考えられる。


125 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:44:43
 さて、ここでまたコーヒーカップに目を移して、だが、認識は 「それ」 の
ままで、見てみよう。その胴横に付いたアーチ(取っ手)の部分に注目すると
なかなか面白い形をしているではないか。
 それはネコのしっぽのように、白鳥の首のようにも見え、ゾウの鼻、耳、
蝶の羽、滑り台、乳房、いろいろなすがたが想起されてくる。また、コーヒー
の波紋は海に、そのほのかな湯気は女のため息だろうか。
 いうまでもなく、物語は関係の構造であるから、AとBがそれぞれで充足し
て隔たっていてはお話にならない。拡張したイメージからまたイメージが誘発
される。細かなディテールは気にしない。一度見えたものは、あとでいくらで
も精査できる。そこは大人だ。
 部分から波及して物語が生産され、筋の連関が成される発想─イメージとい
うのは、ドラマチックな小説を作るには都合がよい。
 『ボヴァリー夫人』 も、夢見がちな田舎娘だったエンマがシャルルと結婚し、
ブルジョアジーにつまづいて人生を踏み外すところからドラマが展開される。
その小さな過誤がやがて大きな病変となって、エンマを蝕むのである。これが
最初から救いようのない破滅的な女だったなら、彼女の悲劇は退屈な寓話にしか
ならなかっただろう。

126 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:46:38
 現象の一部分に潜む物語性を、ほとんど病的な妄想力によって拡大すること。
とにかく針小棒大に事を荒立てること。それこそ物語小説の面白さではないか、
くらいに思えれば、借金の形に友人を人質に置いて遁走し、とうとう 「戻らな
かった」 太宰の体験が、のちに 『走れメロス』 の美談に変体して、人の感動
を誘う仕儀となる。(byトリビアの泉)


 はてさて、これで物語のわらしべ長者になれるだろうか。それともやはり、
溺れる者のわらであろうか。それは各人の努力しだい、とまた都合のよい責任
転嫁をするのだけれど、私にはこれ以上のことはできないので仕方ない。
 無闇に長い割には実のない話で、自分でも書いててうんざりしてきて、途中
かなりへこたれたのだけれど、〔これを書いたのはアテネオリンピックの時期〕
室伏の 「過程が大事なんだ」 という言葉を勝手に自分への励ましにとらえて
最後まで書いた。(だからなんだ)
 まあ、小説(ほとんど文学)に対して私小説的な強度を求める手合いには、
なんだかドーピングくさい手法かもしれないが。


127 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:48:50
           ―─ 語り手と時制 ─― 

 一応、メインは時制である。が、それは同時に語り手がどう振舞うのかを考える
ことでもあり、語り(ナレーション)そのもののディープなところへ首をつっこむ、
とまではいかないが、覗き見るくらいはしてみよう。
 また、ここからは 「視点」 と表記した場合、それは叙述上の 「語り手」 とほぼ
同義であり、文脈によってふたつを使い分けることもあるが、随意に解釈してもらえ
ればありがたい。

 初めに、一人称視点と三人称視点(めんどくさいので以下一視点、三視点と略す)
とはなにか、十分わかっている人もいない人も、いま一度、簡単におさらいしてみよう。
なお、二人称は広義の一視点としてここでは区別しない。

128 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:51:11
 一視点は、「わたし」 とか 「ぼく」 といった人称代名詞で語られる叙述形式。
この 「わたし」 は人間である必要はないのだけれど、幽霊とか神さまとかのイレ
ギュラーな設定は別にして、基本的に 「わたし」 の視線が通る範囲以外のものは
見えない。壁の向こうや他の人物の心理を透かし見ることはできないことになって
いる。そんな制限があるにもかかわらず、この一視点の人気が高いのは、やはり
「わたし」 から見た世界を自由に解釈(表現)できるからで、独白を用いた観念小説
のようなものを書くのに適している。それと、(うまく書ければ)読者の感情移入を
誘いやすいというのもある。
 また、視点をもっと語りの中心へ近づけようという野心は、ついに視点を超越論的
に反転せしめ、「今この小説を書く、書きつつある私を書く」 という現在小説、
メタフィクションの域へ達する。
 作者自身に還元されるほど自己言及的ではないものの、石川淳の小説 『葦手』 には、
そうした視点の相転移が、断章をかいして繰りかえし用いられている。
 一部だけ抜粋するが、やはり全文を読まないとこの視点操作の妙味がわからないので、
未読の方は一読をお薦めしたい。

《「まあ、いいだろう。一緒に来てくれ。」 そういいながら、銀二郎はもう手を
あげて通りかかったタクシイを呼びとめたていた。

 ここまで書いて来たとき、わたしはびくりとしてペンを擱(お)いた。もともと小説
めかしてこんなふうに書き出すとは柄にもないことといわれるまでもなく、》
(新潮文庫 『焼跡のイエス・処女懐胎』 に収録)

129 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:53:05
 一方、お手軽な自分探しの延長にあらわれる 「わたし」=「作者」 という構図
が作家を頽廃させたとする見方もあり、いわゆる私小説の筆頭格である志賀直哉を
して文学の没落をまねいたとする怨み節さえちらちら聞こえてくるような弊害がな
いわけではない。
「ボヴァリー夫人は私だ」 と叫んだフローベールのセリフを、文字通りそのまま
受け取ってしまう呑気な人々のことを考えてフローベールは発言すべきだった、
なんて非難はさすがに聞かないけれど、昔、私小説の圧力が強かったころには、
「私小説に比べれば、フローベールの『ボヴァリー夫人』も、「偉大なる通俗小説」
にすぎない」 と、大変勇ましいことを言った人がいた(名前は失念)。際限のない
自己撞着と強烈な自意識の過酷さを生きない場所で、いま、躊躇なくそんな大言を
言い放てる人がいるであろうか。
 私は 「わたし」 というものがわからない。この哲学的問題に立ちつくすとき、
私小説作家は言葉を失う。そして志賀直哉は言った。
 「さういうものは面白くなくなつた」 と。

130 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:57:32
 三視点の語り手は、基本的に人称のない、つまり名指されない透明な存在である。
登場人物を 「山田」 とか「花子」 といった固有名詞や 「彼・彼女」 で呼び、
また一視点のような視点範囲の制限がない。真暗な土のなかだろうと、人物の内奥
にある秘めごとだろうと、おかまいなしに焦点をあわせられる。まさに神のごとく
時空を駆けめぐるSFチックなレベルから、一視点と変わらないレベルまで、視点
の権限を自由に設定できる。多数の人物が立ちまわる壮大な物語などには、この
三視点が適しているだろう。そこで読者は、物語の目撃者になるのである。
 今でこそ、三視点の透明な語り手はあたり前のように受けとめられているが、
語り手がこうした特性を持つようになったのはフローベール以後だといわれている。
例えば、ユゴーの 『レ・ミゼラブル』 は冒頭から次のようなくだりになっている。


 《かれがその教区に到着したころ、彼についてなされた種々な噂や評判をここに
 しるす ことは、物語の根本に何らの関係もないものではあるが、すべてにおいて
 正確を期する という点だけででも、おそらく無用のことではあるまい。》

 この語り手は、のっけからテクストが物語─虚構であることを暴露しながらその口で、
「正確を期する」 などと言うのだから、論理的な思考になじんだ現代人にはいささか
面食らう話である。もちろんこうした書き方が間違っていておかしいというのではない。
それが時代のスタイルだったのだ。
 『ボヴァリー夫人』の革新は、その写実性、客観性の徹底によって、それまで事ある
ごとにしゃしゃり出てきていた、いわば書き手と結びついたあからさまな語り手の人格性
を封じたところにある。
 と言っても、完璧に封印したわけでもなかった。フローベールは、自由間接話法という
人称と時制の代置をおこなうレトリックを用いて、前時代となった語り手の性格を隠微な
形で表現したのだが、煩雑になるのでひとまずこれは措いておく。


131 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 11:59:34
 こうして、一視点と三視点をわけて捉えることになれてきた私たちは、
この二つの視点をつとめて分別し、境界線のようなものを引いて断絶的に
扱おうともするのだが、はたしてそれほで別たれたものなのであろうか。

132 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:08:08
        『夢みる少年の昼と夜』 福永武彦


 太郎は眼を開いた。あたりがくらくらする。魔法の世界が過ぎ去って、真昼の
眩しい光線が縁側に一面に射し込み、その余熱が頬をかっかとほてらせる。茶の
間の中は蒸し暑い。箪笥の上で、啼き終った鳩時計が、もう何ごともないかのように
平和に眼の玉をくるくる動かしている。コノ鳩時計ハモウオ婆サンダ。ソレハオ母
サンモ知ッテイル。オ母サンノオ父サンモ知ッテイル。コレハドイツ製ダ。コレハ
ドイツノ鳩ダ。オジイサンガムカシ外国デ買ッタモノダ。コノ鳩ハ色ンナ死ンダ人達
モ知ッテイルノダ。鳩ハ何年クライ生キルノダロウ?


133 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:09:39
 一見してわかるとおり、この小説は特異な叙法をとっている。物語は 「夢想/現実」
「昼/夜」 「一視点/三視点」 という典型的な対立構造に支えられており、ひらがな
の述部が現実(三視点)を、カタカナの述部が夢想(一視点太郎)を受けもって、それ
らが進行的に微妙に重なり合い交錯し、混沌としていくところがこの小説の面白さである
といえよう。
 問題は、きっちりと弁別しているかに見えるこの二つの視点に、むしろ横断的な特徴
が表れている点である。カタカナという字面に惑わされずに、三視点の語り手と一視点
の語り手(太郎)を識別するならば、まず文末の形、断定の強い言い切り 「ダ」 の多用と
指示語(コソアド)の頻出が目立ったちがいとしてあげられるだろう。たしかに、こう
した文体の工夫によって読者は二つの視点のちがいを意識することができる。単なる異化と
してカタカナを用いているわけではないのだ。
 太郎の語りはとても一視点らしい叙法だが、三視点の語りは、「太郎」 を 「僕」 に換え
てもなんら違和感がない。この例文では、三視点よりも一視点として読まれうるニュアンス
が高い。表面上は断絶している視点も、実は基部において横断しているゆえに、物語の夢と現実
は乖離することなく混交していくのである。
 形式的な区別ではなく、語りのなかでつくられる遠近法的な視点の正体、それが 「時制」 である。

134 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:10:35
 時制というのは、現在形とか過去形といった、時を表す動詞変化の一形態のことで、
さして耳に新しい文法ではないだろう。文法と聞くとなにか憂鬱な面持ちになって
しまう方もいるかもしれないが、私の低クロックな頭脳でもなんとかなっている
ので大丈夫。(ちょっと遠い目になっているのは内緒だ)

 まず、結論から先に言ってしまおう。
 文末の述語、つまり動詞の終止形が現在形(「たべ-る」)をとる場合、事象に対
する語り手の認識点は主観的な位置を、過去形(「たべ-た」)では客観的な位置をとる。
そのため、読者は主語(人称)が記述されていなくとも、時制によって一視点や三視
点的な印象を受けとる。視点の距離感を生みだしているのは 「わたし」 や「太郎」
よりも、動詞の語形なのである。

 このあと、時制に関するこざかしい文法の解説を書く予定だったのだが、書いている
途中で不毛だと感じて止めた。例証を含めて説明すると甚だしい分量になってしまう。

135 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:12:39
 もう少し具体的な話をしよう。
 『夢みる少年の昼と夜』 の文末は、全体として現在形の割合が多い。太郎の視点
では 「ダ」 が多用されているが、これは語り手の意思を示す 「ね」 や 「よ」
といった終助詞と同じような作用があり、時制的な意味は少ない。この 「ダ」 の
おかげで語り手の人格的な押し出しが強くなり、対比して三視点の語りが 「引いて」
みえる。だが、太郎の述部を消して三視点だけをみれば、この視点はけっして引いて
いるわけではない。現在形は語られるものに対して 「寄る」 視点である。また過去形
よりもより人格的である。一視点的な性格が強まるというのはそのためだ。
 この三視点の語り手はつねに太郎のそばにいて、ごく近い外部として視点を共有して
いる。語り口や字面の相違から、最初、二つの視点は水と油のような対立関係をなして
いるように見えてしまうが、そうではなかった。いわばそれは水(三視点)と魚(一視点)
の関係である。水のなかに魚はあり、魚のなかにも水はある。昼と夜、夢と現実、その
境界はどこまでも曖昧なのである。

136 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:15:04
 『ボヴァリー夫人』は云うにおよばず、過去形文が醸し出す醒めた、事実
だけをそこに投げ出すようなニュアンスは、三視点の語り手をあたかも語られる
その世界から超越しているかのようにみせかける。映画を観ているとき、私たち
はそのスクリーンに切り出された景色が、カメラマンという語り手の主観によって
「構築」 されていることを忘れ、まるで自分がスクリーンにであり、超越者で
あるかのような錯覚を起こす。
 ときに人はこの視点を神≠ニ形容する。神と聞くと不埒にもこれを引きずりおろ
さずにはいられない現代精神は、「わたし」で試みたのと同じ自己言及的な手法で
脱構築を目論んだりもするのだが結局は徒労に終わる。私たちの眼界が自らの外に
出られないように 「語り」 も 「語り」 の外へは出られないからだ。
 アニメーション映画の 『千年女優』 はヴィジュアル的にこの問題をよくわからせて
くれる隠れた名作である。それはある種の循環論であり、決定不可能性などといわれる
ものだが、これ以上やると話がややこしくなる。

 とりあえず、小説はフィクションの内部でしか語れないのだから、「語りえないもの
については沈黙せねばならない」というウィトゲンシュタインの言を素直に聞いておく
ことにしよう。

137 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:17:32
 04年9月に亡くなった水上勉は、『螢川』 の解説でこう書いている。
 「作者はこの幻世界へ読者をいざなっておいて冷たく筆をおく。」
 実際的に見れば、このいざなう者とは、三視点の語り手にほかならない。
そしてこの冷たさは、過去形文末に畳みかけられた視点の冷ややかさではないか。
もし、これが逆に現在形であったなら、文意は同じでも、この小説にただよう
静謐さは失われるだろう。水上勉も、きっと 「冷たく」 感じることもそれに
類する印象も、持てなかったはずである。

 共通日本語の文末は、「-る」 や 「-た」 で終わることが多く、どうしても単調
にならざるを得ない。体言止や倒置法、黙説的三点リーダ、助詞で止めたりと、いろ
いろ工夫しても、そう連続で使えるものでもない。
 書きなれてくると文末の単調さが気になって、しばらく 「-た」 が続いたからここ
らへんで 「-る」 を混ぜてみるか、といった程度の意識はおそらくだれでも持つだろう。
ここまで読んだ方はもうおわかりだと思うが、時制を単なる時の規則ではなく、もっと
空間的な視点の距離感を生みだすための表現なんだと理解し、また活用してもらいたい。

138 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:19:41
 文法的な説明をはしょったので、一般的に時制と目されている動詞の語形が、
一律に時制の働きをするわけではないということは書きませんでした。例えば
「友達が"きた"」は過去ではなく動作の完了(形)を示し、「友達が"くる"」は
未来を示しています。断定の動詞は、種類や文脈によって時制的な働きが変化
します。また、動詞の連体形は文末の時制に支配されるのですが、そんなこと
どうでもいいですね。
 安定した時制の働きをするのは、断定形よりも、「-している(た)」という
持続相(継続相)と呼ばれる語形なんですが、ま、あまり正確さを気にすると
ノイローゼになるので、アバウトに文末の語形を変えてみて自分なりにニュアンス
の変化を確かめるのがいいでしょう。

139 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 12:23:26
〔前スレ437さんの書き込み〕
お疲れさまです。
いつも楽しみにしています。

ケチをつけるわけではありませんが、
「一視点」、「三視点」よりも、
今は「単一視点」、「多元視点」の方が多く用いられているのではないでしょうか。
「一視点」を含んだ、第三者的な(客観性を装った)語り手の視点がイメージしやすい、
という意味で「三視点」よりも「多元視点」の方が適切ではないでしょうか。
まあ、用語はいろいろ変化していきますので、「三視点」で悪いというわけではありませんが。
             *
             *
 私の不勉強がたたってか、単一とか一元とか多元という用語はいまだあまり、
というかほとんど目にしません。私の私淑する渡部直己はよく使うんですけど(笑
 でも一元とか多元て、ちょっとわかりにくいと思うんです。
なんとなく、気分で一人称とか三人称の形式をとっている限り、視点を制御し書き方
を整えるという意識は育たないでしょう。それこそノリで書くやり方です。この形式
をとったらなにが可能であり、どんな点が不都合になるのか、そこを知らないと一元も
多元もないわけですから。ここに書いたのはその形式の基本的なところです。
 それに、やはり読者は小説を読むとき、人称を目印にしているのです。人称形式に
よって読まれ方が決定されると言ってもいいでしょう。もちろん、視点というものを
突き詰めれば、それはただひとつのもの、作者の恣意にいきつくわけで、基本的に視点
は単一であるという考えになると思います。その意味で、三人称視点は小説上のレト
リックだというところをもっと指摘せねばならないかもしれません。メタフィクション
的な入れ子構造が文学的な試みとなるのも、そうした視点の原理があるからですが、
当然これはいかなる人称を用いているかにも関係するところです。
 なんか頭痛くなりますね。

140 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:14:03
        ── 視点移動・虚構のカメラマン ──

 小説中の視点操作を、映画のカメラワークになぞらえることはよくあることだと
思う。では、それがそのまま映画と同等、同質の効果を読者にもたらすのかといえば、
赤べこ(知ってる?)のようににわけもなくウンウンと首肯してしまうわけにもいかない。
小説は、映画のようにワンショットで対象を明示することはできないし、逆に映画は、
あまりにすべてが露わに見えすぎてディテールの誤魔化しがきかない。
 現実を取り囲むさまざまな 「目」 が、人の意識(心理)のなかで機能している限り、
ありのままの現実を映すテクストは存在しない。書き手は、客体化した言葉のなかで
リアリティを装うだけだ。主体を持たぬカメラは、その意味で客観的であるといえる
が、映像の価値判断を下すのは結局人間である。
 原理的相違はあるにしても、両者の表現コードはまるきりかけ離れているわけでもな
いから、作家は映画を小説のように読むことができるだろう。当然そこにあるもろもろ
の技術に、作家はインスパイアされていい。
 なぜ面白いのか? この問いかけがあれば、道は明るい。

141 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:14:44
        『ボヴァリー夫人』 上巻37p

 菓子屋は万事念入りにやった。デザートにはみずから菓子の造りものを運んできて
一同をあっといわせた。まず一番下には、青いボール箱の四角なのが殿堂をかたどり、
廻廊もあれば列柱もあり、まわりには漆喰製の小さな像が立ちならび、それぞれ金紙
の星をちりばめた龕(がん)の中におさまっていた。ついで第二段にはスポンジ・ケーキ
の櫓(やぐら)が立ち、まわりには、鎧草の砂糖漬やアーモンドやほしぶどうでこしら
えた小さな砦をめぐらしてある。最後に、一番上の平屋根は緑の原で、そこには岩山が
あり、またジャムの湖水に榛(はしばみ)の実の殻で造った舟が浮かんでいた。野原には
小さな天使がチョコレートのブランコに乗っているのが見え、ブランコの二本の柱の先
には、珠にかたどった本物のばらのつぼみが二つついていた。


142 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:15:58
 その場にありながら、書き記され、読み進むことでしか明示されない対象。描写を
単なるリアリズムのためのテクスチャーと考えていては、例に見るような描法を駆使
する発想は出てこないだろう。これは、シャルルとエンマの結婚の祝宴に出された
デザート(ケーキ)を描写している。一同をあっといわせるくらいだから、けっこうな
大きさだろう。だがフローベールは、それを安直に説明したりはしない。

 視点はケーキを細密に写しながら、下から上へと移動していく。この視点の、下から
上へと向かう描写の長さが、そのままこの菓子の威容を示してもい、古来、価値ある偉大
なものは上昇のなかにその姿を現す。
 描写は、物理的に視点(カメラ)を対象に接近させることだとイメージすれば、その
機能が見えやすいかと思う。ケーキの周りにいる人物たちは、必然的にフレームから
除外される。よって読者は、その描写の外でなにが起きているかを知りえない。この原理
を利用すると、視点にいろいろなサスペンスを導入できるだろう。また、描写=遅延とい
う時間軸の働きも頭に入れておこう。

143 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:16:28
 ちなみに、もしこれがケーキなんぞでなく、なまめかしい女体であったりすると、
これはまた意味が違ってくるわけで、あの 「なめる」 ような、いやらしくセクシャル
な視点になるのだが、どうも男はフェティシズムが働くせいか視点が特定の体部に吸
いついてしまったりもして(フローベールは足フェチらしい)、それはそれでまた
エロティックかも? という下卑た話はさておいて、この視点、まだ一方向の視点だ
からやさしい。書き方そのものがひとつの表現体になるところまで企図できれば、なか
なかの玄人はだしといえよう。
 次はもう少し動きのある例を示そう。

144 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:17:04
    『ボヴァリー夫人』 上巻8p

 それは楕円形で、鯨骨を張り、先ず一番下には輪形の丸縁が三つ重なっている。次
にビロードの菱模様と兎の毛の菱模様とが、赤線に仕切られて互いちがいになり、そ
の上には袋のようなものがあり、その上に多角形の厚紙をおき、これには込み入った
飾り紐で一面にぬい取りをほどこし、そこから金糸の小さい飾りを房にして、むやみ
と細長い紐の先にぶら下げてあった。帽子は新しく、庇(ひさし)は光っていた。
 「起立」 と先生がいった。
 彼は起立した。帽子が落ちる。組じゅうが笑い出した。
 かがんで拾おうとすると、隣りの生徒がひじで帽子を突き落とした。彼はもう一度
拾いあげた。


145 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:29:00
 作品冒頭、シャルルというキャラクターをまさに決定づける場面。あえてそれを一口
で言い表すなら、「まぬけ」 である。
 学ぶところは、描写と説明の緩急を視点の運びと連動させる構造である。シャルル
の膝の上に乗っている帽子は、同じく下から上へ向かって描写される。この接近─上
昇は、ふいに 「起立」 という声で急転する。説明=加速の時間軸をまた思いだして
ほしい。そして、拾う(上)落ちる(下)拾う(上) の、コントじみた動きがクラス
メートの嘲笑を誘うのはもちろん、先生にもあなどられ 「余は笑い者なり」と、二十
ぺん書かされる罰を与えられてしまう。
 なぜ彼はこれほど貶められるのか。やるせないもうひとつの悲劇がここにあるのだが、
それはシャルル最期の台詞にある、小説(ロマン)という 「運命の罪」 にほかならない。
小説のために、彼はレオンでもロドルフでもあってはならない。他でもないシャルルで
あること。このシーンに、すべては決している。

146 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:56:56
 世に横長テレビはいたるところで目にするものの、縦長テレビにはとんとお目にか
かったことがない。それは、人の目が横に二つ並んでついているからという、しょーも
なくあたり前な理由にある。
 生物学的にどうこうはともかく、人は水平方向よりも垂直方向に対して強く惹かれたり、
恐れたりといった動的心理を持ちやすい。遊園地の絶叫マシンはもとより、映画のアク
ションシーンなども、やはりこの上下動でスリルや躍動感を演出している。日常を突破する
力を、人はそこに見るのだろうか。
 紙の上に固定された文字に、同じ効果を期待するのは酷であるかもしれないが、イマジ
ネーションを具象化するためにこうした視点と描写、説明のテクニックは無駄でない。
少なくとも、ホームビデオで運動会を撮るようなのどかさ、だらしなさとは違う、緊張感と
立体性をテクストに織り込むことができるはずだ。 

147 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 16:59:22
 長いので引用しないが、本が手元にあれば上巻の88ページをひもといてほしい。

 「しかしきわ立って人目をひくもの、それこそは旅人宿 「金獅子」 の向い、
オメー氏の薬局である!」
 にはじまる描写の向こうには、雑然とし、かつギラギラしい彼の店構え。そして
隠そうとしても隠しきれない功名心が、目にイタいほどに見えてくる。ほどなく、
視点は店の外へはずれ、「ヨンヴィルには、それからさき見るべきものはもうなに
もない。」 と断じて、そっけない説明に町のありようを俯瞰して終わる。「なにも
ない」 のだから、もうこまごまと描写する必要などないのだ。ここの部分は、ちょう
ど映画でいうクレーンアップの撮影に似ている。(というか、映画のほうが小説に
似ているのだが)

 描写から説明への呼吸はいいだろう。シャルルやオメーの登場する場面においてキモ
となるのは、叙述の手法それ自体が、人物を描くひとつの姿となっている点である。
 一朝一夕にまねできるほど簡単ではないかもしてないが、「人目をひくもの」 の描写
がやはり表現のカギとなる。そこを地道に練習して腕を磨いていただきたい。
 とにかく、語彙力と構成力が盾もなく露顕してしまう技術ゆえ、一足飛びに上手く
やろうとしなくていい。語彙と構成は、絵画でいえばデッサンみたいなものだ。本を読
んだり辞書をめくったりして書きつつ、基礎的な筆力を養うしかない。かつて自分の
なかを通らなかった言葉が、ひょいと出て来ることなどありえないのだから。
 「描写は一日にして成らず」 である。

148 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:00:45
    『ボヴァリー夫人』 下巻165p

 つぎの木曜日、ホテルの二人の部屋で、レオンといっしょになったときは、なんと
いうはげしい感情の沸騰! エンマは笑った、泣いた、歌った、踊った、氷菓子を
取った、煙草をすいたがった。レオンには彼女が突飛に見えた。しかしたまらなく
よかった、すばらしかった。


149 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:01:19
 描写が対象の細部を際立たせることで特殊化をはかるなら、説明はその細部を捨象
して一般化をはかるものだといえる。説明の説明たる有用な機能とは、手短でわかり
やすいということである。やたら晦渋な取扱説明書があったら用をなさないであろう。
 だが、ときにその直截さは、凡庸と退屈の代名詞のように言われ、如上の例も普通
なら手抜きと見られかねない。もちろんこの筆致が手抜きでなく、計算して書かれて
あることくらい、まっとうな読者は承知している。どうしてかといえば、
繰り返すようだがやはり描写とのメリハリが利いていること、そして極端な要約の配列
によって、文に一種のリズムを作りだしているのだ。なんとなく、だらだらっと説明し
てやり過すところを、点描ふうに短い言葉のショットでモンタージュする。
 ともすると漫然となりがちな長編小説を書くさいには、こうした小さな趣向にも目
を向けたい。

150 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:02:16
 映画には、パンと呼ばれる撮影法がある。A点からB点へ、画面をカットせず、
主に水平方向にカメラを移動させて撮る方法だ。
 映画でいうワンカットが、小説の一文(ワンセンテンス)に照応するものと考えて
みる。すると、小説でパンというのは、一文のなかである対象からある対象へと、
視点をなるべく散らさずに連続描写していくような書き方になろう。

151 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:02:49
      『焼け跡のイエス』  石川淳

 あやしげなトタン板の上にちと目もとの赤くなった鰯(いわし)をのせてじゅうじゅう
と焼く、そのいやな油の、胸のわるくなるにおいがいっそ露骨に食欲をあおり立てるかと
見えて、うすよごれのした人間が蠅のようにたかっている屋台には、ほんものの蠅はか
えって火のあつさをおそれてか、遠巻にうなるだけでじかには寄って来ず、魚の油と人間
の汗との悪臭が流れて行く風下の、となりの屋台のほうへ飛んで行き、そこにむき出し置
いてある黒い丸いものの上に、むらむらと、まっくろにかたまって止まっていた。

152 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:06:40
 視点の移動に応じて、当然一文の息が長くなる。この連続描写をどこまでも続けて
いけば一大パノラマのできあがり、にはならない。
 視点の線性といっても、それは描写の量的な自主規制によって実現されているものだ。
 薬も飲みすぎれば毒となる。逆もまた真なり。この弁証法を地でいくのが、ジョイスの
『ユリシーズ』 であろう。そのなかでジョイスは、句読点のまったくない長大な一文
の独白を、「意識の流れ」 として書いた。
 文を成型するのに、句読点は欠かせない記号である。しかし、そもそもテンやマルや、
段落? 秩序だった文脈? そんな 「読みやすさ」 を意識する意識のリアリティとは
いったいなんだろう。あやふやでとりとめもない意識のどこに、句読点の入る隙間がある? 
 近代リアリズムが自明のものとしてきたリアリティの風景を変えたのも、また(メタ)
リアリズムであった。意識(主観)そのものにたち返る視点によって、現代芸術はその夜明け
をむかえる。ただ、その光芒が小説界の大地をあまねく照らして、ロマン主義や自然主義の
読者の認識を豁然(かつぜん)と開かしめ、世の小説から句読点が消え去る、なんてことには
なっていない。
 一見して上手な絵に、多くの人がたちまち共感するのと違って、結局、なんだか 「よく
わからない」 ものである現代芸術に真の共感や理解を寄せる人は少ない。かつてのゴッホ
のように、同時代の印象派の画家たちさえ認めないということもある。
 最初から前衛する勇気もいいが、まずは相応の技術を身につけておいて、それからいくら
でも転向したらいいと思う。

153 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:09:15
 さて、一文の長さはどのくらいが適当なのだろう。
 個人差はあれ、小説の一文の平均が約40字であることを考えると、パンに模して
始点→中間点→終点 の流れを一文に収めるには、だいたい120字内外、本にして
3行くらいが適当ということになるが、ある程度の描写性を待たすとなると、さらに
その倍くらいになるだろうか。もちろん平均字数など気にしながら書く必要はないので
これはあくまで参考だが、描写の性格上あまり短くもできないし、逆に10行、20行
となると構文に無理が生じ、視点の線性がぼやけ、意味は拡散し、描写は 「印象」
に呑みこまれてしまう。 普通リアリティというものは、直示性(いま・ここ、で起きて
いる事)に依拠している。時間とともに記憶の鮮度が失われていく以上、文の長さにも
限度がある。その見極めも大切だ。
 同じようなことを、伏線の技術の解説でも述べたと思う。私たちは読みながら忘れて
いく。長い距離で伏線を張る場合、反復≠うまく使うのだと。
 もう一度、石川淳の例文>>151 を読めば、この反復の要領が長文にも通じることがわかる。
描くものは少なく、イメージを反復させる。また、蠅を使ってうまく視点を誘導している
ところなども、押さえておきたいポイントである。

154 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:10:12
 作文では、読みにくい、文意がつかみにくい、しまりがない等、たしなめられる長文
も、小説では非難にあたらないどころか、逆に効果的に利用することができる。
 例えば、酔っぱらった人物の朦朧とした視点を表現するのに、あるいは混濁した思考や
心の乱れとして、長文の持つネガティブな要素の有意味性を作品に活かしてみるのも一興
であろう。

155 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:10:55
 〔ちょっと個人的な応答なんですが、転写します〕
 アラ、なんだか懐かしい名前の方が。まだ日記かエッセイみたいなのを続けてい
らっしゃるのかな。文体への意識は身につきましたか? 自分のスタイル、スタンス
はつかめましたか? エッセイのようなものを書くときは、個性的な文体とか変わった
視点(異化の技術参照)が読者への訴求力になりますからね。
 まあ、個性的といっても、どこか他人の言葉であることをまぬかれる書き手はいない
わけですが、柄谷行人はこう言っています。ちょっと長いけど引用しましょう。

156 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:12:04
 構造主義者がおこなったように、文学作品の構造への還元は可能であり且つ必要な
ことである。しかし、それが明らかにするのは、ある種のテクストには必ず還元不能な
何かが残るということである。なぜ、われわれはある種のテクストを作者の名で呼ぶの
か。それはロマン派的な 「作者」 の観念のためではない。構造に還元できないような何
かがあるかぎり、そのかぎりにおいて、われわれはそれに固有を名を付すほかないので
ある。実際、構造主義的分析が成功するのは、神話や大衆的文学にかんしてのみである。
 固有名について語ることで、私は別に作品を生み出した作者、あるいは主体の地位を回復
しようとしているわけではない。ロラン・バルトが言うように、「作者は死んだ」 といって
もよい。しかし、たとえばバルトの著作に言及する際に、私はそれらを 「バルト」 という
固有名で名指さなければならない。そうすることは、それらがバルトに属するものだという
ことを意味するのでない。そこに、たとえば構造主義とかポスト構造主義といった類(集合)
のなかに回収しえない、「単独的」 な何かがあるということを意味するのだ。それは、バルト
自身が意図したりコントロールしたりしえないもであり、さもなければ、それらは 「特殊性」
でしかなくなるだろう。
                (「個体の地位」『ヒューモアとしての唯物論』)

157 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:12:59
 通俗的に個性的な文体といっているものは、ほとんど 「特殊性」(例えば若者言葉
に代表されるようなもの)と言っていいものでありましょう。
 別の箇所で氏は、この構造に還元できない 「単独性」 を、猫のたとえにしてさらり
と、なにげに 「愛」 であるなんて言うのです。
 巷間では、ジャンクフードのように供給、消費されているアイ(love)ですが、こう
いうインテリゲンチアにとって、この種の語はほとんど禁句であるはずです。めったな
ことでは、愛なんて言葉をストレートに使ったりしないものなんです。そこのところも
引用しちゃいましょう。

158 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:13:59
 《たとえば、ここに 「くろ」 という名の猫がいる。特殊性という軸でみれば、
「この猫」 は、猫という一般的な類のなかの一つであり、さまざまな特性の束
(黒い、耳が長い、痩せている、など)によって限定されるであろう。しかし、
単独性という軸でみれば、「この猫」 は、「他ならぬこの猫」 であり、どんな猫
とも替えられないものである。それは、他の猫と特に違った何かをもっているから
ではない。ただ、それは私が愛している猫だからである。》

159 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:15:03
 氏は、「人間」 という語を用いるのにも気をつかうと、違う論説のなかで言っていた
くらいです。このテクストには柄谷行人の、ひとつの語に対するひそかな決意とか決断
があり、まさに構造に還元できない 「愛」 が、「単独性」 があると、私は感じてし
まうのでした。
 たまたま前を横ぎった野良猫や、ゴミを漁っているカラスに、いちいち名前を付けて
いる人はいないと思います。私たちの固有名─名前というのは、自分を指標するためと
いうより、むしろ自分以外の、他者がそれを必要とするために用いられ、名付けられ
るのですね。
 ペンネームとかハンドルとか、私たちは自分に好きなように名前を付すことができま
すが、例えばtina、と呼んでくれる人がいてはじめて、その名が自分に与えられるわけです。
そして、栄えようと衰えようと、また良くも悪くも、その名を忘れない人のなかに単独性
はあるのです。映画の 『ミザリー』 なんかは、それをもっとも極端に表したものかも
しれませんね。

160 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:16:06
 文章の持つ身体性として、どんな個性があってもいいし、自分のコントロール下に
あるからこそ、それは道具にも武器にもなります。技術もその範疇でしょう。しかし、
そうしたものを越えて、読者の心を捉えるテクストのよろこび、味わいというものも
あるのですね。そのようなテクストとは、柄谷をリスペクトして言えば、
 「ただ、それは私が愛している(人の)言葉だから」 だれのためにでもなく、義務感
からでもまなく、それを読むのです。
 例えば、自分を固有名で呼んでくれる近しい人からの言葉、あるいはそういう人へ向
けて書いたもの、そういうダイアローグ(対話)的なテクストには、単独性を感じやす
いかもしれません。
 誕生日に、「お母さん、だい好き」 と書かれたカードを見て母さん涙ぽろぽろ、徳光
さんもらい泣き、みたいな。

161 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:17:27
    ―― 場面転換の汎用的方法 ――


 いつ・どこで・だれが・なにを・どうする。
 俗に5W1H(上では 「なぜ」 が抜けているが)といわれる要素は、情報の
明確性や信頼性をはかるのに最低かつ必要な条件であり、報道の基本事項でもある。
これは別に専門的な話ではなく、ごく日常的な理屈の話である。


 「あなた! こんな時間までなにしてたの! 」
 午前様のぼくに向かって妻が怒鳴る。元来、臆病者のぼくはひとまわり小さくなり
ながら、いや、その、会社の打ち合わせで……とかなんとか、もっとらしく例の5W
1Hをさりげに使って、妻を納得させるのだ。それに、子どもが起きるよ、とか。
 「ふーん」と、にらみを飛ばす妻。
 ぼくは風呂に入り、湯船にどっぷりと浸かりながら、あくび混じりのため息をつく。
 あっとぼくは声をあげそうになって、みるみる思い出す。背広のポケットに、キャバ
レー 『パフパフ』 のレシートを、うかつにもそのままにしてあったのを。
 腰を半分浮かしかけた湯のなかで、ぼくのちんちんは縮みあがっていた。


162 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:19:20
 私たちの世界がパラレルな可能世界に侵食されているのでなければ、事実は
ただひとつしかない。犯人(ぼく)は、アリバイを作るために二重三重の虚構
を作り出す。だが、その話はどこかで現実との整合性を欠き、ひとつしかない
はずの事実は二転三転し、情報の確度は失われ、結果的にウソは破たんする。

 小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、そしてそれを
まったきひとつの(虚構)世界として描くのならば、当然そのなかの事実もひとつ
であり、<いつ・どこで・だれが・なにを・どうする> のかというルールは暗黙
のうちに守られなければならない。それをふまえて、場面転換の汎用的方法という
ものを考えてみよう。

163 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:21:44
 目を閉じて、顔を横に動かして、目を開けてみる。そこには違う景色が映って
いるはずだ。あたり前じゃないかと感じるかもしれないが、この景色の跳躍は、
映画の表現力を革新させる(実は偶然の)大発見だった。もし、カットとカットを
組み合わせてシーンを構成するモンタージュがなかったら、大げさに言えば、映画
はいまだに固定された画面のなかを人が出たり入ったりする演劇であっただろう。

 景色の跳躍を、もっとユニークに、よりダイナミックに動かすと、場面は転換する。
好例は場面転換で紹介したものをいま一度味読してもらい、凡例は上に書いたお粗末
な話のように、どこにでも転がっているので苦はなかろう。
 <いつ・どこで・だれが・なにを・どうする>
 この五つの軸線が話の整合性を保つのに必要な要素であるのはわかったこと、加えて
同時にこれは時空と運動の関係として捉えることができるし、構文の基本形としても捉
えられる。つまり、時間(いつ)、場所(どこで)、語り手・人称(だれが)、
対象・名詞(なにを)、作用・動詞(どうする)、というふうに。
 このなかで場面の基軸となっているのが、<いつ・どこで・だれが> である。通常の
文章では、これらは(省略されていたとしても) 一致した状態にある。ひとつのカメラは、
ひとつの直示性を前提にしている。だから、「あした、わたしはカレーを食べた」り、
「今日は家で本を読みながら、学校でテレビを見る」 ことや、「彼が山田君の家へ行くと、
ぼくが山田君と遊んでいる」 事態にはならない。説明するまでもないと思うが、これらは
時制・場所・語り手の不整合がある。面白半分でこういう二重視点の叙法に手をだしても、
単に作者のリテラシー(読み書き能力)を疑われるだけである。あえて使うとしたら、日本語
のあやしい外国人のセリフとして、そのインチキ臭さをだすためとか、そんな使い方にした
ほうがよい。

164 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:25:42
 ともかくも、普通に書いていれば視点は均衡して、ひとつの場面が生成される。
そしてその場面場面を連続的に布置してゆけば、自動的にそれは物語上のシーク
エンスとなる。しかし、いつまでも同じ時間、同じ場所に居座っているわけにも
いくまい。読者は、物語に変化を求めるものだ。
 ちまちま視点を動かしていても埒が明かないので、書き手は連続した場面の
<いつ・どこで・だれが> の軸のどれか、あるいは複数をずらす。前の場面との
ずれが大きければ大きいほど、場面転換としての効果も大きくなり、行空けや断章
の形式を生み出すことにもなる。基本的には、この三つのパラメータをいじること
でさまざまなパターンの場面転換が表現できると考えてよい。

165 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:26:16
 例えば、<いつ(時間)> だけをずらしみる。
 人物:太郎 場所:机 時間:深夜>>朝 
 と、設定し、<なにを・どうする> に、「勉強中いつの間にか寝てしまう」
という行為をつないでみれば、どのような場面転換として叙述すればよいか大体
わかるだろう。

 <どこで(場所)> でいえば、災害や事故などの外的要因によって、その場の
様相が一気にガラリと変わってしまうことも場面転換の一種と捉えられる。

 <だれが(語り手・人称)> の軸を動かすのは、一人称視点か三人称視点かの
形式で少し変わってくる。
 一視点の場合、いわばカメラの持ち手を代えることになる。同じ 「わたし」 で
あっても、カメラマン(語り手)が代われば、画の作り方(書き方)が変わるのは
むしろ自然であろう。といっても、小説は基本的に個人の営為であるから、ここで
問題となるのは作者の人物造形力と、人格(文体)への没入力、持続力である。作者
はひとりで何役もこなさなければならない。いくつものハンドルネームをもって、
すべてのキャラクターを苦もなく使いわけられるマルチアイデンティティな人は、
一人称小説向きかもしれない。
 ただ、一編の小説中で主人公をそう何度も代える機会はないだろう。最初から書簡体
形式を採用するか、断章形式で語り手を代えるか、『こころ』(漱石)のように、先生
の手紙という違うテクストの形で本文に挿入するか、あるいは長い会話、そういう工夫
がまず必要になるのであった。

166 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:28:58
 三視点の例は、>>7 にみる通りだから多言するにあたるまい。要は視点(焦点)人物
をずらせばいいのだ。
 三視点の自在性と透明性は、映画的なカメラワークに類似した技法に適している。
特に継ぎ目を感じさせない場面転換はかなり技巧的で、川端のような手筋はそうお
目にかかれない。テクストを分析するのも骨が折れるので、もし場面転換のいいお手本
を捜そうと思ったら、小説より映画を観たほうが手っ取り早いかもしれない。
 しかし、文章化のむずかしいものもある。例えば、『プライベート・ライアン』
の冒頭と最後で現在と過去をシームレスにつなぐ手法は、CG技術のたまものだろう。
映像をすべて言葉に直訳するのは無理があるが、そこをなんとか言語表現の技術に
置換してみようと創意をめぐらしてみるのも面白い。

 映画草創期の監督、エイゼンシュタインは、自身のモンタージュ理論を確立するのに、
日本の俳諧のもつコードを知人から聞いて、その着想を得たといわれている。発句
(五七五)と脇句(七七)の関係は、べったりくっついていてはいけないし、まったく
切断さていてもいけない。付かず離れずの曖昧な言葉(イメージ)の関係によって、句
の連なりがひとつの情趣をかもしだす。この句と句の連結関係を、エイゼンシュタインは
カットとカットの連結関係にみたてた。それに近いものが、>>2 のような手筋だと思えば
いい。『プライベート・ライアン』 なかにも、地面を打つ激しい雨音が戦場の銃撃音と重な
ることで場面転換するシーンがある。
 さすが文芸はエライというのではない。表現技術は、ジャンルを飛び越えるのである。
タコツボに進歩はない。

167 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:30:14
 〔前スレ501さんの書き込み〕
> 小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、
> そしてそれをまったきひとつの(虚構)世界として描くならば、
>当然そのなかの事実もひとつ

芥川の藪の中は?
           *
           *
 『藪の中』は、断章的に話が独立していますよね。そして、個々の話(世界)
は整合性がとれています。ただ、それらの話が、同じ時空間上の同じ事象を語っ
たものである、という 「了解」 のなかで読まれたとき、それは同時並行(パラ
レル)の可能世界として認識されるわけです。また、そう読まれることを前提に
しなければ、この作品の面白さはないわけですね。
 もちろん、もっと前衛的に、個々の話をひとりの語り手のなかで輻輳(ふくそう)
させてしまう方法もとれるでしょう。しかしそうなると、もはや物語や場面転換が
どうのというより、小説という表現の可能性を問う話になってしまいます。一場面
転換の技術から、メタフィクショナルなところまで射程に入れてしまうと、ちょっと
荷が重いですね。 「汎用的方法」 でもないでしょう。だから、通論として、ひとつ
の物語(世界)がもつ時空間上のルールを 「ふまえて」、場面転換を考えてみましょ
う、ということなのです。

168 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:32:11
 
 自由間接話法とは、フランス語のフランス語による表現形式であり、レトリック
である。言語体系の違う日本語で、その文体効果を再現させるのは難しい。
 日本語は、インド・ヨーロッパ語族のように、人称が文の成分として切っても
切れない要素になっているわけではない。そもそも、文脈重視の室内言語である
日本語には、西洋語のいう主語は元々ないのだという論もある。〔うるさくいえば、
守護ではなく主格がある〕 人称は、修飾語とそう変わらない扱いを受け、付け外
しが自由である。ために、語り手の位置がしばしば不明瞭になりやすく、人称を伴
わない主観的言説をゼロ人称や四人称(こういう呼称は語弊があると思うが)と言っ
たりもする。自由間接話法はこれに近いものだ。その意味で、自由間接話法的表現
は、そのカッコよさげな名前に期待されるほど、文体として特段目立つことはない
と思われる。 それでも、うまく使えばそれなりの見栄はするので、その形を(フラ
ンス語のレクチャーなどできないので)日本語に即して紹介しよう。

169 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:33:14
 まず、自由間接話法以外の話法との違いを比べておきたい。直接話法と
間接話法の二つである。


   「〈これこそ私の最高傑作です〉と彼は言った」

 直接話法はおなじみの書き方だろう。地の文(語り)とセリフを分けて、誰が
それを言っているのかを判然とさせる。
 原則、語り手は人物の発した言葉をそのまま再生しなければならない。日本語
は、くどさを避けるためもあって、往々に人称(ここでは私)を省いてしまうこと
が多い。西洋語ではなかなかそうはいかないので、人称を勝手に省くと直接話法で
はなくなってしまうのだが、そこは先に言ったように言語体系が違うので厳密に
考えなくてもよい。

170 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:34:02
  「彼は、これこそ最高傑作だと言った」

 間接話法は、人物のセリフを単に地に開くことではなく、又聞きしたことを話す
ような表現に近い。発話者の一人称が単純に省かれるのはもちろんだが、語り
手の人称と時と場所に、セリフを従属させ、ひとつの文に組み込んでしまうよう
な書き方である。
 「〈これこそ最高傑作だ〉と彼は言った」 こう書いてもいいのだが、前後の
文脈がないので、これでは直接話法との違いがわかりにくいだろう。日本語的には、
語り手の用いる主語(三人称)と述語の間に、他者のセリフの部分を挟んだほうが
それらしい構文になる。
 この文体は口語から取り入れられたもので、もっとくだけた書き方をすれば、
「ねえねえ、部長ってマザコンなんだって、さっきそこで聞いちゃった」と、こう
した間接話法は日常会話によく使われているものである。

171 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:36:17

   「これこそ最高傑作だ。作品にこめた彼の……」

 これだけ見せられて、自由間接話法だと言われても、どこが自由で間接なのか
さっぱりだろう。間接話法に増して、このレトリックは、ここに掛かるテクスト
の形式と文脈をまず要するのだ。(そこは『ボヴァリー夫人』の例を出して説明する)

 間接話法と比してみれば、省略されている部分が何かすぐわかるだろう。人称は
当然として、「―と言った」という語り手の指向性が消されている。単なる地の文
となにが違うのかといえば、自由間接話法の言辞は、主観的な思惑や感情の表明と
なっている点である。そして時制は現在形をとる。だから、「これこそ最高傑作で
ある」 と書くべきだろうが、何もお固く考える必要はない。日本語の時制には厳密
な形式性がないので、とりあえず主観を表する文として機能していればよい。ニュ
アンスを優先しよう。
 では、『ボヴァリー夫人』 の例を見てみよう。

172 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:40:18
   『ボヴァリー夫人』 上巻83p

 四年間も居を構えて 「やっと根を下ろしかかった」 頃にトストを見捨てるのは、
シャルルにとっては痛手であった。しかし必要とあらば仕方がない! 彼は妻を連
れてルアンの町へ行き旧師に会って診察を乞うた。それは神経のやまいであった。
転地させねばならない。


173 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:41:30
 過去形文が、客観的リアリズムを支えるひとつの文体、ニュアンスであること
は前に述べた。それは、語り手を物語に介入させないための自覚的形式である。
『ボヴァリー夫人』のテクストは、ほとんどが過去形で占められている。
 フローベールは 「文体だけが事物を見る絶対的な方法なのです」 と言うくらい、
文体にこだわった作家である。彼は自由間接話法を使って、瞬間的に語りの視点を
滑らせ、語り手と人物の位置を曖昧なうちに同化させることに成功する。
 「しかし必要とあらば仕方がない!」
 この記述は、文脈からしてシャルルの心理と読めるが、セリフは地に開いており、
シャルルを指向させる語を語り手は示さない。では、これは神の視点を持つ語り手の、
つまりはロマン派的な作者=神の叫びなのだろうか。いや、ロマン主義者はたぶん、
こんな手の込んだやり方はしない。もっと堂々と物語のなかで熱弁を振るうであろう。
 『ボヴァリー夫人』 の語り手は、物語から一定の距離を保ち、その位置取りを決し
て崩さない。語り手は、現在形で自らを明々と照らし出してしまうようなヘマはしな
いのだ。そうした文体があるからこそ、自由間接話法が活きるのである。

 日本語でこれを読む者にとって、このレトリックの違和感はほとんどないのではなか
ろうか。どちらともとれる二声的な文体を、なにか特殊な表現をしているとは感じない
だろう。人称が付随的で、言わなくてもわかることは言わないという、話し言葉のコード
を書き言葉にも多々適用してしまうので、私たちにはふつうに読めてしまうのである。

174 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:42:10
 フローベールの手筋に学ぶなら、まずは文脈をしっかり作ること。そして
自由間接話法にあたる言辞を、作中人物の主観と重なる形で織り込むこと。
文はあまり長くないほうがいいだろう。連続使用はさらに控えなければなら
ない。現在形は、語り語られるものをいま・ここの場に指向させるニュアンス
を作り出すので、それが連続すれば、どうしてもあからさまな語り手の思弁と
映ってしまう。三人称の神様が、臆面もなくべらべらと物語に闖入してくる
体裁とは、やはり技術として一線を引いておかなければなるまい。
 語り手のささやかな声と人物の心理が、そこはかとなく一緒に響く、そんな
繊細さが欲しい。

175 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:43:09
 例の最後の一文も自由間接話法ですね。なんとなくどういうものかわかりました?
三人称形式の小説だと、知らず知らずこういう文体になる可能性はあると思います。
 語り手は人物の心理を代弁する以外、説教を垂れたり、感情的にわめいては
いけないという文体上の抑制をかけないと、自由間接話法のずれが活きない
ですからね。最初から、それこそ自由に書きたい、そんな煩わしい形式なんて
知らない、という小説ならこの技術は意味のないものだと思います。


176 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:43:54
  〔前スレ517さんの書き込み〕
自由間接話法というのは今ではあたりまえの手法だが、

ということは、
フローベール以前の作家、バルザックやスタンダールにはそういう手法は使われていなかった。
少なくとも一般的ではなかった、ということですね。
            *
            *
 そうですね、フローベール以前にも、自由間接話法を使う作家なり作品は
あったのですが、小説でこのレトリックを効果的に使ったのは、彼が最初だと
言われています。今では「自由間接話法」 は文法として理解されていますが、
文法は20世紀半ばから本格的に研究されだした新しい学問ですから、当時は
あくまで文体、語りの表現法のひとつという意識だったでしょう。
 小説は直叙でなければならない。この理想の追求から、フローベールは自由
間接話法に新たな可能性を見出したのかもしれません。まあ、ここらへんの
むずかしい話は、フランス文学史とその書き言葉(エクリチュール)の変遷に
ついての知識(当然フランス語をマスターして)を要します。
 もっと詳しく知りたい方は、自分でお勉強してね。

177 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:44:26
バルザックの 『ゴリオ爺さん』 の書き出しの一部を見ましょうか。

 ――とはいってもこのドラマが始まる1819年には、そこにひとりの気の毒な娘が寄宿
していた。悲壮文学のはやる今日このごろ、むやみやたらと誤用され酷使されたために、
ドラマという言葉がどんなにか信用を失ったとはいえ、ここではやはり、それを使わな
いわけにはゆかない。この物語が、言葉の真の意味で演劇的だからというのではない。
だがこの一巻の物語を読み終えたときには、《都の城壁の内でも外でも》 〔訳注 パリ
でも地方でも、の意〕、読者はいくばくかの涙を流すかもしれないのだ。

178 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:46:15
 なんと自信満々でエラソーな語り手でしょう(笑)。これでは自由間接話法
なんて霞んで問題になりませんね。
 バルザックは、1834年にこの作品を執筆し始めています。、この約二十年後に
『ボヴァーリー夫人』 が登場するわけです。ほぼ同時代と言ってよいでしょう。
フローベールの文体がいかに革新的であったか、近代リアリズム小説の旗頭とさ
れるのも当然かと思います。

179 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:46:51
  ――『永すぎた春』とポストモダン的なるもの ――


 『永すぎた春』 は青春恋愛譚である。三島特有のアフォリズムや比喩が小気味
よく、また話もわかりやすくドラマ的で、純文学というよりは俗受けを狙った娯楽
小説、という見方にさして異論はない。実際この小説は俗受けしたので、単行本
の上梓から半年もたたないうちに映画化された。
 それに、ウブなお嬢さんが電車のなかで読まれても、恥ずかしい思いをしなく
て済むように書かれている。まちがっても、「百子は郁雄のたくましいペニスを
小さな口で……」 なんて表現や場面は出てこないから、となりの客に覗き読み
されても安心だ。さすがは三島である(ちょっと違うか)。
 しかし本当にさすがというべきは、作品を通俗(飯の種)と割り切って書き捨て
ない三島の文学者としての矜持であり、『永すぎた春』 にはその文学的なカラクリ
がしっかりと仕組まれてある。

180 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:47:27
 話は単純だ。主筋は、主人公である宝部郁雄(いくお)と木田百子(ももこ)
の、婚約→結婚の道程を語るものである。このプロットだけを与えて、なにか
小説を書けというと、どうだろう、春樹的な 「僕」 が出てきてうだうだセン
チメントするのが現代的にイケてる書き方でなのであろうか。
 ロマンスとセンチメンタルは飽きられたことのない 「通俗」 の強力な武器で
あるから、そこに飛びつくのは至極まっとうな感性であろう。それを卑しみ馬鹿に
してきた 「純文」 が凋落して、それこそ黄昏たことを言いだすのも面白いとい
うかあわれな話だけれども、書けることと同時に読めることの能力が文学である
ならば、通俗でありながら文学であることはなんら矛盾しない。

 うだうだもいいが、恋愛小説に物語の機能をしっかり持たせてやると素直な読者
はもっと喜ぶにちがいない。それは、愛の試練という甘美な響き。

181 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:50:17
 主人公たちにとって、敵や障害、つまり郁雄と百子の信頼関係や結婚を邪魔
する者たちがいてはじめて、物語にサスペンスが生まれる。私たちの実人生に
おいては、なるべく波風を立てないよう社会秩序に従うのが賢い生き方であろう
が、しばしばそれが 「退屈」 にみえてしまうのも確かである。退屈を紛らす
ために小説を読んで、いっそう退屈が増進するはめになってはやるせない。
娯楽(ゲーム)に敵はつきものなのだ。
 ここで主要な役者を並べてみよう。

 宝部郁雄:T大法学部のまじめな学生。お坊ちゃん。
 木田百子:古書店の看板娘。元気ハツラツ。

 宝部夫人:郁雄の母。通称、無敵不沈戦艦。

 宮内  :郁雄と同じT大の友人。28歳、妻子有り。
 吉沢  :郁雄の友人。影のある男前。

 本城つた子:都会気取りの艶女。画家。

 木田東一郎:百子の兄。通称、雲の上人。
 木田一哉:百子の従兄。詐欺師。

 浅香さん:看護婦。東一郎にみそめられるが……。
 浅香つた:浅香さんの母。貧乏という病。

182 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:50:51
 「幸福」 のプロットをぶち壊しにする危機、これを惹起させるのが、一哉・
つた子・吉沢・浅香つた、の四人である。そしてなにより、二人(郁雄と百子)
の 「生殺与奪権」 を握っているのが郁雄の母、宝部夫人であり、この小さな
神話(物語)における気まぐれな神人は、援助と災難を同時にもたらす裁定者
でもある。唯一、二人にとって利害を入れない味方となってくれるのが、人生
経験豊富な宮内だ。
 敵と味方と超越者。
 こうして物語の構図を開いてみれば、まさに古典的ともいうべき三極構造が
現れる。別種のパターンとして三角関係のドラマが奥様方を魅了するように、
三 は物語の定番的構造である(『ずっこけ三人組』 『三銃士』 『三国志』等)
 大体においてカッチリした物語というのは、こういう構造に支えられている。
それは別段珍しくない薀蓄だが、こういう構造分析をやるとキリがないので
やらない。
 三島劇場の開幕はここからだ。

183 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:51:24
 では、物語の筋を追いつつ小説の深部をさぐっていこう。
 最初の危機は、二人(郁雄と百子)の婚約がやっと決まってめでたいと喜んで
いる矢先、百子の従兄である木田一哉が詐欺の現行犯でタイホされ、新聞の三面
記事にさらされる。これを目にした宝部夫人は青ざめるやら真っ赤になるやら。
 『だから言わないこっちゃないんだ。私のカンは正しいんだ。だからあんな家の
娘と婚約なんかさせるべきじゃなかったんだ』 とすっかり冠を曲げてしまう。
 仮にも上流階級である宝部家が、犯罪者を抱える家とねんごろになるなんて、
末おそろしい。とにかく、平身低頭なにか申し開きがあるものと思っていたら、
木田のご夫婦はずいぶんとのんきに構えてるんだからあきれちゃう。おまけに、
一哉(とかいうゴロツキ)をかばう百子の態度ったらなんなの、えらい神経に
さわるわ(私を殺す気かしら)。郁雄のためにも、こんな恥知らずな嫁をもらう
わけにはいかない、絶対にっ。
 ところが、折り悪く、婦人の良人の弟(役人)が汚職で摘発。新聞の一面を
デカデカと 「宝部」 の文字で飾ってしまう。一哉の件など比較にならない身内の
とんだ面汚しに、宝部夫人はあっさり手の平を返して(こういう羞恥心には鈍感
らしく)百子と仲直りを図る。
 《「―― 丁度オアイコなのよ」
  と夫人はいとも軽やかに言った。》

184 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:51:59
 僥倖、郁雄の知らぬ間に事の破局は避けられたものの、宝部夫人のこの性格
がのちに大きく災いする因子であることを、読者に印象付けるのであった。


 次なる危機は郁雄に降りかかる。
 彼は若いくせに古風な貞操観にこだわる青年で、また、大学の卒業が結婚の
条件ということもあって、婚約期間中は百子(もちろん処女)と 「アレ」 は
しないぞ、勉強優先でがんばるぞ、と決意する。なかなか見上げた心意気であ
る。とはいっても若い男子、やっぱり溜まるものは溜まるわけで、アッチの
処理はどうなしているんだろう、なんて余計な心配をしてしまうところへ
つた子登場。

185 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:53:31
 あたくし、田舎っぺを相手にするような安い女じゃなくてよ。
 という感じの、いかんにも都会の洗練された女を演じるつた子にとって、郁雄
みたいな坊やを手玉に取ることなど朝飯前である。
 で、
 『この娘〔百子〕はどうあっても、結婚まで大事にしておかなければならない。
指一本触れてはならない。僕のやるべきことは、早くつた子の体を知った上で、
一日も早く、百子のために、つた子を捨てることだ。よし! そう決めたぞ』
 とまあ、女性を擬物化して新品と中古品のそれと同じ扱いをしようと、およそ
T大生らしからぬ短絡的な結論を導くわけだが、さすがにちょっと不安になって
親友の宮内に相談を持ちかける。彼は28歳で妻子があり、学生の身分でいったい
どうやって生活しているのかしら、なんて疑問もわいてくるけれど、とにかくも、
人生の場数で宮内には一日の長がある。
 「君のやり方は、回避しながら深入りしてゆく典型的な例だから、危なくて見
ちゃおれんね」
 まあ、別につた子とやりたきゃやればいいさ。俺の女じゃないし。だが、それ
ではなにも知らない百子さんが不憫でもある。どうやら、この世間知らずのお坊
ちゃんには、人生の修羅場をくぐり抜ける儀式が必要らしい。

186 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:55:01
 つた子を 「知る」 ために、夜、そぼふる雨のなか彼女のアパートを訪れる
郁雄。戸口にメモ。
 「一寸(ちょっと)買物に出てきます。カギはドアの下にかくしてあります。
中で待っていらしてね」
 ひとり部屋に上がって帰りを待つ。…低く流れるラジオの音楽。意匠を凝らし
たアトリエの調度。重くたちこめる香水の匂い。郁雄は、手もなく甘いわなに捕ら
われ、長椅子(ソファ)に寝そべってぼんやりとまどろんでいた。
 ノック。
 「どうぞ」
 ドアを開けて入ってきたのは、つた子ではなく、宮内と百子であった。
 郁雄ははねおきた。
 恋人がほかの女の部屋にいる。悪夢のような現実に、百子は 「帰って……
私と一緒に帰って」 そう言うのが精一杯で、郁雄の顔を見ることもできない。
郁雄としてもこれは目が覚めるような悪夢であった。

 「対決するんだよ。裁判をやらかそうと思って、俺はやって来たんだ。人間と
人間とは、かち合わせてみなきゃ、何も判らん。おとなしくつた子の帰りを待ち
たまえ」 と宮内。

187 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:55:35
 もはや言い逃れのできない状況に、郁雄は従うしかなかった。
 ほどなくしてつた子が帰ってくる。予想外の面子に迎えられ、神妙にしている
百子を認めたつた子は、どうやらとんだ茶番に巻き込まれたらしいと、気がささ
くれてくる。
 「でも私、郁雄さんとはまだ何でもなくってよ」 「大変な大芝居なのね」
 (百子をとるか、つた子をとるか)「サイコロで決める?」
 百子とつた子に挟まれて、郁雄の惨めさはいかばかりか、ざまあないのである。
それでも、小説としてドロ沼の愛憎劇を描こうというものではないから、フィアンセ
である百子が裏切られるような急展開はない。このあと、つた子が椅子に掛け
てあった百子のレインコートをはたき落とす場面で、奇妙にあっけない決着をみる。
 「レインコートをお拾いなさい」
 「お友だちがいると勇気が出るのね」
 「お拾いなさい」
 「御自分で拾ったらいいんだわ」

 宮内が、レインコートが山場だったというように、このやり取りに決定的な
決別があらわれているのだが、それを説明するには少し話をさかのぼってみな
ければならない。そもそも、どうして郁雄はつた子に惹かれたのか。魔が差し
た、火遊びが過ぎたなどというほがらかな理由で片づけるわけにはいかないのだ。

188 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:56:10
 どこからか仕入れたジェンダー(性差)の観念を装備して、一個の女を自認
するつた子は、素朴自然主義的な百子とは対蹠的な空間に身をおいている。
 服飾と美容に金をかけ、高雅な趣味を持ち、そしてなんとも近づきがたいオーラ
を発散して並みの男どもをたじろがせる。お高くとまるのはいいけど、気づいて
みればオールドミスに入りかけ…。たしかにそれは、都会のハレやかな舞台に昇って
自らを広告する女の成りゆきとでもいうもので、いかにも今日、「負け犬」 と称さ
れるポジションである。

 「そうね。はじめ思想や主義を作るのは男の人でしょうね。何しろ男はヒマだ
から。―― でもその思想や主義をもちつづけるのは女なのよ。女はものもちが
いいんですもの。それに女同士では、義理も人情もないから、友達づきあいなんて
ことを考えないですむもの」

 つた子のこの考えには、むしろ女性らしい卑屈さがにじみ出ている。
 同姓とうまく、仲よくつき合えない性格があり、かといって数多の男との浮名
を流すような尻軽女にもなれない。彼女にとって男は、部下や生徒のような位
にあるのが望ましく、決して自分より強い男とは関係を持ちたがらない。バカで
威張りくさった男は、つた子の芸術的感性にそぐわないのである。その点、年下
で優男の郁雄は、理想のパートナーと映る。

189 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:57:27
 郁雄には不満があった。
 自分の露わな嫉妬のほむらが、百子の頬を幸福に火照らせる。しかし、それが
彼の自尊心に火傷を負わせるのだ。年下の女性に対して、人間的な小ささや弱さ
を見せたくないと思うのは、男性の正直な心理であろう。けれども郁雄は、どう
も武張った男になれない。百子の前で、男としての理想と現実がきしみ、うまく
歯車が回らなくなる。
 口には出せないが、精神的に、百子も弱いところを自分に見せて欲しかった。
それで 「オアイコ」 になれるのに、百子は負けん気が強すぎて嫉妬のしの字も
見せないのである。

190 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 17:58:01
 つた子の前では、少なくとも精神的な矯飾にわずらうことのない安堵があるに
違いなかった。端的に、楽なのである。
 「僕がだらしないことから起こった事なんです」 と郁雄が言うとおり、男とし
てだらしなくいられる場所(つた子)に惑溺したかった、それは百子に対してなに
か当てつけたいという、それ自体女々しい底意から生じたのである。
 受動的な立場に甘んじることの快楽。つた子の部屋で待つ郁雄の姿に、それがよく
あらわれている。フロイト的解釈をすれば、部屋とは女性器のシンボルである。
そしてそのなかで郁雄は、いきり 「立つ」 のでなく逆に弛緩して長椅子に 「横た
わって」 しまう。これは男としてつた子を抱くというより、むしろつた子に抱かれる
ために待っているといったほうが正しい。郁雄は、はからずも娼夫≠ノ堕している。

191 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 18:02:57
 とかく 「人工的」 と三島の小説は揶揄されるが、どうしてつた子の陰影の
つけ方は秀逸である。いつも澄ましていて、あまり笑うことのないつた子が、
最後に、心中もっともつらいシーンであえて見せる微笑み。しかもそれをこと
さらに表現しようとする臭みやクドさがなく、三島らしからぬ? ゆかしい筆致
は見事と言うほかない。

192 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 18:03:35
 この一件のあと、
 「彼女が発見したのは、郁雄の弁明しようのない弱さ、彼自身がいつもそれと
戦って、それをひた隠しにして来た弱さに他ならなかった。自分の恋人を弱者だ
と感じることくらい、女にとってゾッとすることがあるだろうか!」
 と語り手は思弁する。古きを尊ぶ、古書店の家風のなかで育った百子が感じた
弱さとはなにか。百子は怖れ、つた子は受け入れた弱さの本質とは。

 ここで私は、小説のテクストから、文化・社会の背景へと視線を伸ばす。なにも
弱い男というのは郁雄だけに限った話ではないだろう。ここに語られている弱さ
というものが、ポストモダン的な時代を予兆するなかで書かれていることに目を
向けてみよう。

193 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 18:04:18
 この物語の時代背景は、昭和30年代(1955)の初めごろとみていいだろう。
つまり、小説の執筆時期とリンクしている。敗戦の荒廃から十年余り、はや日本は
平和のぬるま湯につかりはじめていた。
 「もはや戦後ではない」 という名文句は、昭和31年の経済白書に記されたもの
である。同31年には、若者の風俗をあけすけに描いた問題作、『太陽の季節』(石原
慎太郎)が芥川賞を受賞し、文学の不可逆的地滑りが起こる。
 週刊誌が続々と創刊され、昭和33年には東京タワーと言う巨大なペニスが都心にそそ
り立ち、やがてそこから、良識の人をして低俗と卑下される番組が全国に垂れ流される
であろう。そして、俗臭ふんぷんたる世相を揶揄して、「一億総白痴化」 なるコピーが
登場するのもこの時期である。いよいよ大量消費と情報化の波が社会を洗い始めたので
あった。

 もう男たちは、銃を手に、あるいは爆弾を抱えて、死にに行かなくてもよいのである。
火の雨と銃爆撃に脅えることもない。貧しくとも、明日への望みが、夢が、人々の心に灯った。
 時代は変わったのだ。男の仕事は、戦争から金儲けにシフトする。そこで男は、郁雄の
セリフを借りて言えば、「公然と許されすぎている」 のだ。弱さが。
 男たちは強さの脅迫から開放され、モラトリアムとなってあふれ出た。今日に続くポスト
モダンの萌芽がここにある。昭和30年過ぎは、その兆候が次第に表面化してきた時期で
あったろう。

194 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 18:04:53
 強い力(組織のコード)が頽勢し、弱い力(私的なコード)の優位を得て新た
な文化がその相貌を現した。それがおおむね戦後の社会・文化的な時代の流れで
ある。
 絶対的な他者(神・父・天皇・死者等)を解体してきた近代とその後(ポスト)
のよるべとして、人は、「自分自身」 を信じて生きていく、という再帰的自己像
のあやふやな仮構に他者―中心のモデルを求めるようになるだろう。このメタ
フィクショナル(自己言及的・決定不可能的)な戯れの果てに、オタク系文化に
顕著にみられる並列世界が現じてくる。
 それは、東浩紀の分析を拝借すれば、データベース化した、カスタマイズ可能な
断片的中心(萌え)だけを持ち歩き、総体的中心(理念)を必要としない文化の
形態である。(くわしくは『動物化するポストモダン』)
 この観点からもう一度テクストを読む。

195 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 18:09:24
 まず結婚の裁量が家から個へ、自由恋愛がそれなりに尊重される社会風土なし
にこの物語は成立しない。女性の横恋慕を可能にするのも、社会的ヒエラルキー
(強い力)が個人を縛りつけることができなくなったためである。
 「私だって―― 本当に好きだった初恋の人がありましたのよ。でも―― 親の
決めた人のところへ来てしまいましたの」 と語る宝部夫人は当然、戦前の
「強い力」 の信奉者として現代(昭和30年)とのギャップを作中にもたらす。
 ポストモダンのひとつの特徴は、それまでの文化・制度・観念の上下関係を
パスティッシュ(ごた混ぜ)に平準化してしまうことである。この小説もそのよう
な磁場の上に立っているのだ。

196 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 18:12:25
 百子を選ぶか、つた子を選ぶか。
 実はそこには、読者の目に見えていないだけで、単純なルート選択のカーソル
しか用意されていない。第一、つた子の部屋を訪ねたのも、宮内の助言があって
のことで、郁雄は主体性もなくほとんどその場の流れでやって来ている。本来
あるべき精神の葛藤や苦悶が、ここでは無効化されてしまっている。むしろ直接的
な苦悶を引き受けるのは主人公ではなく、周りの人間(百子であり、つた子であり、
後で出てくる東一郎や浅香さん)であって、主人公はただそれをシミュレーション
するにすぎない。それがポストモダン的なるものの、(村上春樹などにも通じる)
空疎さや弱さではないか。
 郁雄は、レインコートというちょっとしたきっかけ(フラグ)で、百子を選んだ
と言ってもいいくらいで、(オススメではないけれど)場合によってはつた子でも
いいという程度の、ある意味ゲーム的な 「対決」 をしただけであった。この場面
に、おそらくは宮内が想像していたであろう、もっと逼迫した人間の緊張感が希薄
なのは、郁雄のなかにもはや他者を背景とした倫理の葛藤(格闘)がないためで
ある(例えば『こころ』(漱石)のKや先生のような)。
 極端な話、幼児性愛も調教陵辱も、萌えるか萌えないかのちがいにすぎず、単
なる要素(パーツ)として受容されてしまえば、それは内面や社会の問題として、
齟齬として自己の深部(システム)へ還元されないであろう。ただ皮相な差異だけ
に、感心が留まる。つまるところ、郁雄の欲動はオタク系文化と同質の平面を共有
している、と言いたい。
 『永すぎた春』 のもつ軽妙な娯楽性は、駘蕩(たいとう)たるポストモダニティ
から発しているといえ、半世紀を経て、この小説は風化すどころかより現代的になった
のである。そこを批判的に捉えるかどうかは、読者の考え方に任せたい。


197 : ◆YgQRHAJqRA :2005/10/10(月) 18:20:02
これで前スレの転写終了です。
ここからのつづきは、またそのうちに。のんびりお待ちください。
一番のんびりしてるのは私なんですけどね(^^;

198 :名無し物書き@推敲中?:2005/11/05(土) 23:09:12
展開を思いつかずにやけになってオチを先に書いてしまうと泥沼

199 :無名草子さん:2005/11/08(火) 11:55:23
89

200 :名無し物書き@推敲中?:2005/11/10(木) 04:20:30
200ゲト―(゚∀゚)

201 :名無し物書き@推敲中?:2005/11/19(土) 18:42:15
復活乙!
知らない間に消えててしょんぼりしてた。


202 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:35:54
 どうも、お待たせしております。といって私の解説を鶴首(かくしゅ)して待って
おられる方は少ないと思われますが、のこりわずかの年の瀬を数えて、ちょっとヤバイ
なんて言ったり言わなかったり、そんな季節になりました。
 しかしなんです。前スレの誤脱を直すといって直ってないどころか、誤脱が部分的に
増えてるのはいったいどういう節穴の仕業でしょう。
 ええ、もちろん、無駄口というのは進捗かんばしくないところによくわいて出る現象
であることは周知のとおり、三島の解説ぜんぜん書けてません。イエイ

 とりあえず、いじることがないだろう解説の頭のところだけアップしますね。
(てゆか、まともに書いてあるのがそこだけという有様(´・ω・`)

>>201しょんぼりさせてごめんなさい。私もしょんぼりしてました。

203 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:38:10
      『永すぎた春』 第二部 ――物語られる物語――


 つた子をめぐる出来事は、作中最初の山場であった。そのたとえでいえば、
山の向こうは当然谷となるだろう。
 ピ―――――――…と鳴る試験電波に、私たちは音の楽しさを感じないし、
緊張は弛緩のあとのやってくるのが道理である。
 起承転結といい対立の技法といい、人はなにかと 「盛り上げる」 部分に策を
弄するし注目をするが、実はそれよりも留意すべきことはいかにうまく話を
「盛り下げる」 かである。盛り下げながらしかし、ここで次の山へ向けての準備
を怠ってはならない。(中編以上の)娯楽小説の出来映えは、この盛り下げの按配
にかかっているといってもいい。

204 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:40:07
 百子の兄、東一郎は、大学を卒業しても就職せず、家に引きこもって小説家を
目指している文学青年である。ウソかホントか、文学とは世間から脱臼している
はみだし者の生業(なりわい)であるらしく、それは、ヤクザに刺青といったいか
にもありがちなイメージを想起させる。でも、そこは娯楽性を求める作品の仕様
であるから、大げさにこれを指差して、瑕疵(かし)とあげつらうのもやぼ天で
あろう。それに、どうやら文学を志しているらしいというバイアス(先入観)を
かけられた読み手は、物語終盤の読解において、策士三島の罠にすぽっとはまる
仕掛けになっている。そこらへんのカラクリはまたあとで話そう。

205 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:42:11
 文士と病は相性がよいという御多分に漏れず、東一郎もなにやら盲腸炎なぞ
を患ってみたりして手術入院の沙汰となる。このもやし育ちの殿様がベッドの
上でおとなしくしていればいいのだが、じっとしていると体の節々がこってくる
だの、体のどこかに触ってもらっていないと不安だのと訴えるから困りもの。
さようかと、うっちゃっておくわけにもいかず、家族の手を煩わせるハメに。
百子も徹夜で兄の体をもんだり触れていたりと、身内とはいえあまり気持ちがよい
とはいえぬ看病の日々である。
 「贅沢きわまるわよ。百子をタダでこんなに使って」
 しかし、そう言う百子にも一分の利はあった。つた子との一件で露呈した、郁雄
のもろさ弱さに対する不安や怖れが、さらに不信や軽蔑へと化膿せずに済んだのは、
ひとえに東一郎の看病に打ち込むことの効能、つまり疲労による精神の消耗のおかげ
である。

206 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:46:04
 郁雄も手伝いにやってきた。ここは罪滅ぼしにもいいところを見せねばなら
ない郁雄は、積極的に東一郎の看病を買ってでる。このようにして、二人でひ
とつの物事に取り組むことは、お互いの距離を縮めるのにけっこう役立ったり
する。

 さて抜糸も済み、体力も回復し、もう退院してもいいというのに、東一郎は
なかなか退院しようとしない。病院の陰気くささがそんなに気に入ったのかと
いうとそうではなく、なんと、担当の看護婦(これが美人と決まっている)の
「浅香さんと結婚させなければ退院しない」 と、ふざけたことを言う。
 ところが本人いたって大まじめ、さすが凡俗のちりを厭う文士の風上、男女
のなれそめをしっぽり描くようなまわりくどい大根芝居はしない腹である。
 どうやら東一郎は、郁雄と百子がイチャついているのを見て、自分も献身的に
尽くしてくれるお嫁さんが欲しくなったらしい。それでもって、なんやかやで
浅香さんと東一郎は婚約してしまう。んなアホな(うらやましい)という話だが、
小説では書き方しだいでんなアホな(ねたましい)ことも自然にまかり通ってし
まうのである。
 まあ、この小説は書下ろしではなく連載なので、紙幅のつごうもあって筋の傍流
にかかずらっていられないというのが実のあらましであろう。一見強引な展開も、
人物の性格(造形)によってフォローされる。話の筋と人物の性格は、表裏一体の
関係にあるところを知徳してもらいたい。

207 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:49:42
 東一郎の結婚話に、がぜん乗り気で後押ししたのが宝部夫人だ。木田の夫婦は、
浅香家の素性が卑しまれて当初反対であった。けどそれがなんだろう。この豪腕
マダムにかかれば、白だって黒になるんだから。
 「私、御見舞いに行って浅香さんって人と話もしたけど、実にいい娘さんだと
思ったわ。美人で、気立てがよくて、働らき者で、落ち着いていて、あんな人は
今どき珍しくてよ。それに身分ちがいとは又、木田の御両親も、この民主々義の
時代に何て頭がお古いんでしょう」
 ベタぼめである。だが、この言いようは自らのブルジョア的偏見を一時的に棚上
げにしたもので、彼女は他人の色恋を自分のおせっかいで成就させたいだけなので
ある。そもそも夫人からみれば、たかが古書店の分際である木田家と貧しい浅香家は、
庶民の五十歩百歩でしかない。家柄云々なんてお笑い草よ。その上、この縁談は宝部
家とは直接関係しないところなので、変などぶ泥がこちらに飛び散ってくることも
あるまいという楽観があるのだ。だから、このいかにもさもしい 「民主々義」は、
のちにあっさりと転覆してしまうのである。

208 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:51:16
 なにはともあれ、東一郎と浅香さんは婚約し、宝部夫人は上機嫌で、郁雄と
百子を連れて熱海の別荘へと避暑に向かうのであった。物語は、しあわせそうな
風を受けて順風満帆にすべりだすかと見えるも、季節は夏にしてこの国土、避け
るに避けられぬ凶風の、やがて来たることを予感する。


209 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 17:53:53
 ではまた来ます。年内に、必ずや、その決意で、いやホントよ。

210 : ◆YgQRHAJqRA :2005/11/29(火) 18:19:50
 <知徳→知得> また間違えてるし。

211 :名無し物書き@推敲中?:2005/12/11(日) 11:49:08
f

212 :名無し物書き@推敲中?:2005/12/11(日) 13:44:17
間に変なレス入ったら見にくいので、レスを控えていましたが、
秋頃にこのスレ見つけて全部読みました。続きも楽しみにしてます。

213 :名無し物書き@推敲中?:2005/12/20(火) 23:01:46
     ____
    /∵∴∵∴\
   /∵∴∵∴∵∴\
  /∵∴∴,(・)(・)∴|
  |∵∵/   ○ \|
  |∵ /  三 | 三 |  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |∵ |   __|__  | < うるせー馬鹿!
   \|   \_/ /  \_____
      \____/


214 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/26(月) 15:12:57
>>212 ありがとうございます。なにかひとつでも糧になるものがあればと思います。

215 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/26(月) 15:17:02
          〔前回からの続き〕

 熱海では、郁雄の誕生パーティーが催された。昔なじみの友達が四、五人女子
同伴でやって来た。その友達の一人が吉沢である。
 吉沢には、夏の若者のハツラツさとか、浮かれた馬鹿さ加減といった稚気はなく、
宝部夫人に言わせると、「あの人はなんだか神秘的」 で 「あなたの友達の中ぢゃ
一番魅力があ」り、「あの人に比べれば、あなた〔郁雄〕なんか、ガラスの箱み
たいなもんだ」
 連れの彼女は三十がらみの美人であるが、どうも吉沢への惚れようが尋常の様子
になく、性格もギスギスしていて、百子はこの女が好かなかった。だが、吉沢は
ちょっと気になった、のだけれど、彼はなぜか百子を避けた態度をとる。

 夜にダンスがはじまって、めいめいパートナーを替えながら踊るのであるが、吉沢
はここでも百子を無視していた。私がもう予約済みだからって興味のないふりをして、
カッコつけて(そりゃたしかに顔はいいけど)、バカにしてるじゃない?
 《『いいわ。いちばん後で申込んできたら、きっぱりことわってあげるから』
―― ところがこんな百子の決心を見抜いているように、吉沢は最後から二人目
に百子に申し込んだ。》
 そして、吉沢はダンスをしながら、百子に打ち明ける。
 「僕ね。あの女のおかげで、めちゃくちゃにされてしまいそうなんです。秋
まで命があったら、会いましょう」
 「大げさね」
 「本当ですよ、秋まで生きていたら、あなたに会いたいな。僕、こんな精神
状態で、あなたみたいなイキイキとした人に会うのが辛かったんです。だから僕、
あなたを避けていたんです」

216 :名無し物書き@推敲中?:2005/12/26(月) 15:19:28
cdr

217 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/26(月) 15:19:36
 百子とつた子が明と暗の対照であったように、郁雄と吉沢も同様のちがいがある。
となれば、物語の力学はまたもや類同する危機を演出するだろう。しかし、単に鏡写
しのエピソードを反復するような構成では、芸がなさすぎる。事は少々入りくむ。
そして残された紙幅はあと四回分、のんびりと話を進行させる余裕はない。

 九月になって、やっぱり吉沢は生きていた。あっさり死ぬような人物に焦点を当て
たりはしないので、ここはお約束どおりである。
 吉沢は偶然を装って百子の前にひょっこりと現れた。百子には吉沢と会う義理など
ないのだが、あの女との関係がどういう顛末になったのか、そのことが気になって
つい話に付き合ってしまう。
 女は、自分を裏切るようなことがあれば、毒を密かに盛って吉沢を殺し、そのあと
自分も毒をあおって死ぬ、と本気の形相。ハンドバッグに毒薬を常備する物騒な女
であった。 「僕はそれまでさほど深入りしていないつもりでいたこの情事に、すっ
かり溺れてしまったんです。いつ殺されるかわからないっていうスリルと、セックス
が一緒になったものって、あなたにはまだおわかりにならないかもしれないけど、
(この一言は百子のプライドをいたく傷つけた)、一寸今まで経験したことのない、
すごく暗くて甘い、魅力のあるものだったんです。それに僕が浮気をしなければ殺さ
れる心配もなくなるわけですから、無理にも浮気をしましたが、又その浮気のスリル
たるや、何ともいえないんです。」
 その女も、九月はじめに父親の仕事でアメリカへ行ってしまった。つごうよくこの
厄介な情事から解放されたので、こうして元気を取り戻して百子に会いに来たという
わけである。そしてこの男は、次のスリルを百子に求めたのである。
 吉沢の下心は見え透いたが、殺すの死ぬのという男女の生々しい話と雰囲気にあて
られて、百子はうっかりまた吉沢と会う約束をしてしまう。

218 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/26(月) 15:21:49
 約束の日になってみると、百子は一度踏み外した足をしっかりと元に戻していた。
アバンチュールといえばなにか都会的な耳当たりのよさがあるけれど、現実的な立場
から百子の良心はそれを許さなかった。郁雄のしでかしたまちがいへの意趣返し、
好機到来とほくそ笑むような、心根の腐った女ではなかった。しかし、別に腐った女
が一人いた。
 浅香つたである。東一郎と浅香さんが婚約して以来、彼女はなにかと木田家に出入
りしていた。木田の夫婦がいろいろと世話を焼いていたからだが、百子は直感的につた
を信用していなかった。つた≠ニいう名前もいやな連想を(読者に)させる。
 百子は、風邪をひいたから行けないと、ていのいい断りの電話を入れた。吉沢とは
これでおしまい、と思う。いかにもそんな少女らしい目算が通るほど、吉沢は純情で
はなかった。
 店先に吉沢がやって来たのを見て、百子はうろたえた。家には、百子のほかつた
しか居ない。
 「吉沢さんって方の御約束をお断りしにくいので、私病気ということにしてあり
ますの。そう仰言って、断っていただけないかしら」
 百子は仕方なくつたに頼んだ。つたも承知した。


219 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/26(月) 15:23:31
 面従腹背。つたは断りを入れるどころか吉沢に、百子が嘘をついていること、
そしてまんざら吉沢に気がないというのでもないこと、あることないこと、しゃ
べくり散らし、あげくのはてには百子を三万円で世話すると言ったときには、
さすがの吉沢もこのやり手ババアに呆れたが、そこで話を打ち止めにするほど
の道徳家でもなかった。ふむ、百子を三万でものにできるなら安い。

 そして十月、いよいよ吉沢とつたの毒手が百子に迫る。つたは百子を食事に
誘う。よもや自分の純潔が三万で取引されているなどとは、いくらつたに心を
ゆるしていない百子とて、想像の埒外である。百子はつたの誘いを断らなかった。
 「―― 小綺麗な料理屋なんですのよ。今夜はお嬢さま、仲良く一杯やりま
しょうよ」 と言うところの店には、「割烹御旅館」 という看板がかかっていて、
どことなく連込み宿っぽい色があったが、女二人のこと、百子は気にとめなかった。

220 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/26(月) 15:27:43
 ここにいたって読者は、もうテクストから目が離せなくなっているだろう。
娯楽小説とはこう書くんだよ、諸君。やに下がった三島の台詞が聞こえてき
そうだ。
 このあとどうなったかは、読了している方はすでにおわかりだろう。未読の
方は、立って本屋に走るか図書館に駆け込み、本文をご覧あれ。
 『永すぎた春』 は、昭和31年1月号〜12月号の 「婦人倶楽部」という雑誌
に発表されたものである。どのような読者を相手にしていたか、察しがつくだ
ろう。性風俗に対して、今日の女性ほど免疫は高くなかったろうから、エロス
したたる描写や不道徳きわまる筋書きといった煽情性は無用である。そんな
制限のなかで小説を書くのは、文学者の名折れであろうか。商業主義への迎合
であろうか。その答え、いましばらく引き伸ばしたい。

221 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/26(月) 15:33:49
なかなか本題に入っていきませんね。年内、ヤバいぞ。
でも、たぶん、大丈夫でしょう。また来ますよ(ちょい弱気)


222 :名無し物書き@推敲中?:2005/12/26(月) 17:20:17
このスレなんとかしてくれ

レイプ前科あるけど、なんか質問アル?
http://ex14.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1135584112/


223 :名無し物書き@推敲中?:2005/12/26(月) 20:09:35
楽しみに読んでいた者です。
時折書き込みもさせていただきました。
「ボバリー」「異邦人」とためになりました。
しかし、今回、何故これなのか、と疑問に思っていましたので、
あえて書き込ませていただきました。

224 :名無し物書き@推敲中?:2005/12/27(火) 03:22:00

      :: _, ,_
     :(゙( ^ё^)'):  アッ!!
    :ノ⌒', −、'^', 
    :(,,人,_,,ω,_人,,)




     _, ,_
   ( ^ё^) ヤダァ、見ないで!恥ずかしい…
     (つ/ )
      |`(..イ ミ サッ
     しし' ミ





225 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/28(水) 15:45:38
>>223 なぜ『永すぎた春』なのか。ということですか?
まあ、ほかのもそうですけど、単に私が面白いと思ったものを使って
いるだけですw
 解説の趣旨に対する疑問であれば、今回の一連の解説は、読むことの多様性
を示したいというのが一番にあります。今までは、「どう書くか」 を主眼
にしていたわけですが、「どう読むか」 ということもひとつの技術といって
いいかと思います。この二つは実際別々の次元にあるのではなくて、読める
ことが書けることにもつながっていくでしょう。
 ここ二回の解説は、ちょっと粗筋を追う形になっているので、本文を読みつく
した人にとっては退屈だったかもしれませんね。
 でも単純にストーリーが面白かった、よかったというだけの解説で終わら
せるつもりはないので、よかったら次も読んでやってください。

226 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:42:28
ぎりぎり間に合ったー。ちょっと息あがってます。
ではつづきです。

227 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:44:37
       〔前回からの続き〕

 「浅香つたのやったことは、実際は間の抜けた結果におわったが、意図としたら
可成まじめなもので、彼女は永年にわたる階級的なひがみを爆発させてみたかった
のである。」

 つまりこれは資本階級(ブルジョア)である木田家に対するプロレタリア(つた)
の階級闘争なのだ。と声を大にして言えば、この悪事もなんだかもっともらしく聞
こえてくるのか。否、それは単におのれの醜陋(しゅうろう)さを政治思想に転嫁
しいるにすぎない。つたの悪意を説明するには、いささか説得力に欠ける。三島も
テキトーだ、とあなどるには合点が早い。でもそこは少し横に措いて(なんだかす
でにいろんなものが横に溜まっている気がするが)、話を進めよう。

 つたの、吉沢を使って百子を手込めにする計画は破綻したが、これで危機が去っ
たわけではない。つたは、計画の失敗を取り繕うために宝部家を訪れ、この事件に
関してのデタラメを郁雄に吹き込んだ。この時点で、つたは最初からすべてを破壊
する確信犯というわけではなく、典型的な小悪党の小心さとずるさとがうかがえる。
階級云々なんて思想が、このバアさんの行動原理でないことは明白である。
 つたの話を聞いて、郁雄は打ちひしがれた。この苦悶が郁雄の内部にとどまり、
物語がそこへ反転して落ち込んでいくならば、物語はもっとよどんだ方向へと流れて、
いかにも文学然とした手つきになるかもしれない。
 だが、そこには宝部夫人がいた。困ったときの神頼み。郁雄は当然悲しみの一部
始終を母に吐露する。あわれな息子のために、夫人はこの事態の解決に介入する
こととなるが、これがさらなる危機の引き金となってしまう。

228 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:46:12
 翌日に郁雄は百子と会って、じかに事の真相を聞いた。それはつたの非道を物語る
ものだった。百子とつたの言い分のどちらを信じるかは、問うまでもない。郁雄はこ
のことを母に報告するため、家に戻った。もちろん宝部夫人は百子の潔白を信じて
いて、「そらごらんなさい。そんなことだと思ったわ。」 と、案外とあっさりした
様子。そしてもうじき吉沢がやってくると言う。
 つたの姦計にのって百子を買った張本人が、郁雄の前に現れる。さすがに死線を
越えてきた男だけあって、この気まずい状況にも吉沢は落ち着いていた。むしろ生
き生きしているくらいであった。
 吉沢の話は、百子のそれとたがわなかった。いよいよつたの破廉恥ぶりが動かし
がたいものとなる。
 「僕をなぐってくれ」
 吉沢は友情にもとる行為の罰を求めた。ここは黙ってなぐり倒すのが男のロマン
というものだが、太宰嫌いの三島の頭にふと 『走れメロス』 がよぎったか、郁雄
はなぐらない。
 「いいんだよ。なぐる理由はないんだ。僕は一度も百子を疑っていないんだから」
 「こいつは一本まいったな」


229 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:47:34
 ちぇ、つまんないの。とこっちが盛り下がる一方で、逆に盛り上がっている人間
がいた。宝部夫人である。かねてより贔屓(ひいき)にしていた吉沢もつたに利用
されていたと知ると、いきおい宝部夫人の憤怒はつた一人の上に降りかかることと
なった。
 「つたなんて下劣な、醜悪な、おそろしい、溝泥(どぶどろ)のような女! 世界
中で一番汚い女! ―― 私はあんな女と親戚になるのは絶対イヤですよ。金輪際おこ
とわりよ」

 変などぶ泥が思わぬ方向から飛び散ってきて、宝部夫人の逆鱗に触れたのである。
こうなるともう自然現象と同じで、だれにも止められない。事態は最悪の方向に動き
だし、物語は佳境に入る。

 《つまり夫人は、あんなにまで積極的に自分がまとめた浅香さんと東一郎との婚約
を、破棄させようと心に決めたのである。それは忽ち、百子と郁雄との婚約も、浅香
さんと東一郎との婚約が破棄されない限り、夫人の手で断たれてしまうことを意味し
ていた。》

230 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:48:59
 宝部夫人の胸ひとつで、どちらかの結婚が御破算になる。そんなの横暴だ、許さ
れない、と思うのは現代人の理。この 「民主々義」 の時代に、そんな封建的なや
り方が通ってはたまらない。しかし思い出してほしい。夫人は親の言いつけを守っ
て、好きでもない男のところへ嫁いできたことを。東一郎が浅香さんを諦めるのは、
夫人にとってなんら不思議のない道理なのである。個人の幸福よりも家の沽券が
優先される。

 東一郎は激怒した。この暴君に真向から反抗した。しかし宝部夫人も一歩も譲ら
ない。
 「とにかくあなたの仰言ることはよくわかりましたよ。ブウルジョア的偏見、ブ
ウルジョア的けちくさい護身術のために、人を踏みにじることなんか何とも思わな
い……」
 「おや、あなたが共産党だったとは初耳ですわ」

 これは宝部夫人との口論に登場するセリフである。もうひとつ、百子に語る東一
郎のセリフ。

 「―― 今さらその破談を強制して来て、それを条件にお前の結婚を邪魔するよう
な、あんなブウルジョアの我儘婆アなんか勝手にしろ。」

231 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:50:48
 よく考えると、東一郎がブルジョアを批判するのはおかしい。宝部家はたしかに
ブルジョアと呼ぶにふさわしいが、木田家とて無為徒食の息子を養ってなお結婚さ
せてやるだけの財力がある。その富の上に、当の東一郎もあぐらをかいているので
はなかったか。
 つたの階級的ひがみといい、こうしたイデオロギッシュな言辞は、物語自身の圧力
から出てきたものではないといえる。それは、三島の政治姿勢と当時の政治状況の
背景から投入されたのである。
 非時間的な物語の読みから、私は再びこの小説をテクストの外部へと開こう。歴史
のなかへ。

 1950年代、アメリカは 「共産中国」 への恐怖と警戒心で凝り固まっていた。まる
で致死性の未知なるウィルスにおびえるのに似ていた。赤いものに触れると共産主義
に感染するといったら笑われるだろうが、そんな迷信も通用しそうなくらいの過剰反
応である。GHQは日本政府政府に命じて中国との貿易を一部禁止にし、戦略物資の対中
禁輸措置をとった。
 この時代に吹き荒れた 「レッドパージ(赤狩り)」 はすさまじく、民主主義とは
なかば反共産主義の代名詞であって、反共のためなら自由や権利の拡大といった理念
は平気で反古にされた。日本もそうした風潮の例外ではなく、共産的思想の持ち主と
された人々が次々と職場を追放され、公民あわせてその数は一万三千人を上まわると
される。
 そして1955年、つまりこの小説の舞台背景となっている時代に、保守合同による
自由民主党が成立し、今日につづく五十五年体制が発足する。これによって、反共の
防壁としての日本の政治体制はゆるぎないものとなった。


232 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:53:45
 いまでは共産主義などと言うと中国人ですら笑う時代になったが、当時は、いつ
革命が起こるかということに本気でおびえていたのだろう。それが、この半世紀の
没落・妥協ぶり、笑えるといえば笑える。そして、『資本論』をろくに 「読めない」
懶惰(らんだ)な共産主義者どものおかげで、一般にマルクスまで白い眼で見ら
れがちなその憤懣(ふんまん)を、例えば柄谷行人に語らせてみれば一冊の本にな
るだろう。
 三島がマルクスをどう捉えていたかはとりあえず、共産主義を毛嫌いしていたこと
はつとに有名で明らかである。
 例えば、百子のファッションに対して郁雄が次のように独白するとき、
 『どうしてこんな芝居じみたことをするんだろう。赤いベレエなんか、ちっとも
似合わないのに』
 実はこのベレエが似合わないのではなく、まさしく 「赤い」 とわざわざ書き
込まれるその色ゆえに、ブルジョアの百子に似合わないという意味になろう。
つまり、学問的な思索とはほとんど無縁であるはずの浅香つたが、なぜ階級的な
ひがみを持つ必要があるのか。自らもブルジョアに位置する東一郎が、なぜブル
ジョアを批判し、宝部夫人から 「共産党」 のレッテルを貼られ 「向こう側」
につくならこちらから手を切ると宣言され疎外されるのか。その答えがみえて
くる。
 まさにそれは、三島のイデオロギーの表出であり、時代の(歴史の)圧力に
よるものなのだ。しかもそれは明確な反共としてではなく、ほとんど自然にテ
クストに織り込まれているため、読者は知らずのうちにこうした反共的イデオ
ロギーに巻き込まれていくのである。
 すくなくともこれは、ただ軽いだけの娯楽小説の筆つきで成されるものでは
ない。文学的筆力というものが、単に面白く書くことや巧みな比喩を創出する
能力にあるのではないということに、あらためて感服するのであった。

 気分よくここで終わりたいところだが、もうちょっとつづけよう。

233 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:56:06
 二者択一の困った問題に、郁雄と百子もなんとかいい解決法はないかと、宮内に
相談してみるも、なかなか現実的なアイデアは出てこなかった。それでも、二人は
いま自分たちの幸福を噛みしめるくらいの余裕があった。デカイ山を二つも越えて、
今度もなんとかなるという妙な楽観思考が身についたのだろうか。
 のっぴきならない境遇に神経をすり減らしていたのは、やはり東一郎である。
浅香さんはあの事件以来、木田家に顔を出さなくなっていた。東一郎は、浅香さん
の家に行くことにした。しかし独りで行くのは心細く、百子に一緒に行ってくれる
よう泣きついた。
 いかにも貧しいたたずまいのアパート。

 「まあ、いらっしゃいまし、ようこそ」
 つたは悪びれる様子もなく、さらぬていで二人を迎えた。百子は、すっかりひな
びた老女に、たいした恨みを感じなかった。口が達者なところは相変わらずで、く
だらぬ世辞を並べたりしてしゃべくるのだったが、浅香さんは突然耐えかねたかの
ように、
 「母さん、もうやめて! 黙ってて頂戴。みんな私からお話するから」
 
 浅香さんは、もうすべてを承知していた。そして、努めて他人行儀に、東一郎と
はもう会わないとむげに答えた。食い下がる東一郎に、しまいにはつたと一緒になっ
て悪たれ口をきく。
 浅香さんの愛情を信じていた東一郎は、この仕打ちに狼狽した。

 「それじゃ、君は僕を全然愛していなかったんだな」
 「さあ、全然ってこともないでしょう。でももうおしまいなのよ。帰って頂戴
ね。おねがいだから」

234 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 20:58:24
 そこで持ち前の癇性に火がつき、東一郎は席を蹴った。このやり取りを横で眺めて
いた百子だけが、浅香さんの悲しみに沈むうつろな目を見ていた。例によってこの
最後のセリフに、すべてが表現されている。
 ある意味をはっきり言うことがはばかれると思うとき、人はよく否定表現や婉曲表
現のレトリックを使う。
 例えば 「まずい」 と鋭く言うかわりに 「おいしくない」 とやんわり言い、さらに
思いやりをこめて 「まずくはない」 と遠慮がちに言う。
 宝部夫人の性格は彼女もよくわかっているのだろう。目の前の百子を見て、「おね
がいだから」 あなたも妹のしあわせのために諦めて。浅香さんは、自分が憐憫をみ
せれば、東一郎が決断できないことをわかっているのである。
 「全然ってこともないでしょう」
 これが浅香さんの、東一郎に対する辛苦に満ちた最後のやさしさ、愛情なのだった。

235 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 21:01:12
 「バカにしてる! アバズレ女め!」
 鈍感な東一郎は、浅香さんの真意を読みきれず、事態は一気に解決へと向かう。その
足ですぐさま宝部家にのりこむと、浅香さんとの婚約解消を夫人に宣言した。

 百子は、東一郎の鈍さにつけ込んで自分の幸福を選んだことに気が引けていた。浅香
さんの真意を知れば、東一郎は心変わりするだろう。郁雄はその話を聞いて、それはそ
れでいいじゃないか、またぞろ話をややこしくする必要はないよ。(もうあと2ページ
しかないんだから) そして、T大生らしい見識の深さを披露してみせた。
 「僕は思うんだけど、兄さんは知っていたんじゃないだろうか? 浅香さんを訪ねれ
ば、浅香さんがいつわりの愛想づかしを云うことを。そしてその場に君がいれば、兄さ
んは心おきなく怒って諦めて、次の行動に移れることを」

 つまり、東一郎はみんなわかった上で、この決着劇を演じてみせた、と読者にもうひ
とつの読み方を提示して終わる。むろん、それを確証させるような証拠はないから、読者
はこのどっちつかずの結果に引きずられていろいろな思いをよぎらせることになる。
東一郎と浅香さんの物語は、終わりのない想像へと流れてゆく。
 なぜか。黙説の技術>>70 がここで炸裂し、読者を物語の空白に引き寄せているからで
ある。それも東一郎という人物を構成しているその性格や文学というパーツが組み込まれ
てあるからこそ、例えば文学を書こうという者が人間観察においてそんな鈍感であるは
ずがないとか、いや、いきなり浅香さんと結婚させろなどとド直球を投げる東一郎がこ
んなできた芝居をするはずがないとか、まさに物語を物語る言説を方々から導くことに
なろう。なるほど、よくできたカラクリである。

 だが、もう少しむごい分析をしてみよう。最近世間を震撼させている偽装建築ではな
いが、もし、三島がこの小説をもとから解体させるような仕掛けを仕組んでいたとしたら?

236 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 21:03:38
 それはAprilにあらわれる。

 《すでに四月、あたりには蝶が飛び、桜の花時が来て、新しいランドセルの革の
匂いをさせ、その尾錠のきらめきをはねまわらせて、私たちの横を小学校の新入生
が ―― あの三月の確執の成行きを、私たちはもう少し辿ってみなければならない。》

 《……こうして私たちは、のどかな四月の光りの中にいるわけである。》

 しかしいったいどうして、この小説のなかに 「私たち」 がいるのだろう。この小説
は三人称視点である。よくよく考えると、これはあまりのどかな景色ではない。
 小説とは、嘘をまことしやかに語って読者に信じ込ませるひとつの幻想である。どん
なにうまく書いても、読者の協力なくしては、小説はうつろな言葉の羅列でしかない。
このくらいの文体のほころびは、寛宥(かんゆう)に読み流すのがよい読者。

 《さて四月のある日の、銀座でひらかれていた個展にまつわる話のつづきである。》

 話? つづき? あんただれ?

 《ここで作者ははじめて打明けるのだが、郁雄は童貞ではなかった。》
 《折も折、作者がこの物語の中で表立って登場させたことのない兄が、盲腸炎で
入院するというさわぎが起こった。》

 作者様でした。やっちゃった。いや、郁雄のことじゃなくて。
 どこかの社長なら、見逃せと言うかもしれないが、私は見逃さない。今までさり
げなく示していた虚構性というものを、ここでついに、おおっぴらに、表立って登場
して 「打明ける」 のである。
 俺が作者だ!

237 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 21:06:09
 これはまさしく、物語を物語る、どこからが本当の物語なのかを決定しえない、
メタフィクションの手口に通じる。要するに、ご婦人方やお嬢さん方が心ときめ
かしたこの恋愛譚、結局はすべてお芝居だったのさ。というなんともいぢわるな
解釈上のぶち壊しを三島は施していた。現にこの小説は、「芝居」 という言葉が
何度も出てくるのである。
 いやらしいのは、語り手はこれ以降ではしれっと三人称のポーズをとりつづけ
てボロを出さない。お話のうわずみのおいしいところだけを楽しみたいと思って
いる読者の期待は裏切らない。だが、この文体につまづく論理的な基盤を持つ者
には、この小説は娯楽性を破壊して 「文学」 たることを突きつけるのである。

 この二重のカラクリを読み解いたとき、なんて作家だと、私は驚き、三島由紀夫
の前に、「天才」 という、だいぶ濫用されてすり減ってしまった言葉を、あえて
使うのも悪くないと思うのだった。

 ちなみに
 「ときどき、天才だとかなんとか言われますが、小説なんて、才能じゃない、努力
なんですよ。ぼくも血みどろの努力をして小説を書いているんです」
 とは、天才三島由紀夫の告白である。


238 : ◆YgQRHAJqRA :2005/12/31(土) 21:09:36
これで 『永すぎた春』 の解説は完了です。
次回はいよいよ最後の解説となります。また近いうちに会いましょう。

では、よいお年を

239 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/05(木) 21:50:51
 ちょっと思い当たったことを別枠で書きたいと思います。

 「私たち」 という一人称複数形の語りは、小説ではあまり使われることのない形式
ですが、かの 『ボヴァリー夫人』 はこの 「私たち」 から始まるのでした。
 「語り手=作者=私」 という図式が成り立っていた19世紀の小説では、物語の冒頭
にこの三位一体のナレーションが入るのは珍しくありません。その後に三人称の手筋
で書くことになっても、それは一時的な非一人称としての語りであって、確固とした
形式がそこで守られる保証のない書き方といえます。
 読んでもらえればわかると思いますが、『ボヴァリー夫人』 の「私たち」 は、物語
から超越した存在ではありません。シャルルが入学してくる学校の、一生徒の視点から
それは始まります。物語の内側にいる 「私たち」 によって、主人公シャルル・ボヴァリー
の登場が語られるわけです。教室での一連のシーンが終わると、この 「私たち」 も
消去されて三人称の語りへとスイッチしてゆきます。フローベールのことですから、なん
らかの意図があってのことでしょう。(ここから先は、たぶんフランス語の文体論が
必要になると思われます)

 先の解説では、「私たち」 という語が作者と結びつく古典的な原理を逆手にとって、
小説の虚構性を前景化する手法をみました。たとえるなら、カメラマンをわざと鏡の
前に立たせるようなやり方です。




240 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/05(木) 21:51:54
 この一人称複数形にはもうひとつ別の顔があります。エッセイなどの、書かれた
ものと作者の同一性が前提されている読物では――分析哲学の上からはこのことも
否定されるのですが、それはともかくとして――しばしばレトリカルな使い方をさ
れます。例えば、「人間」 とか 「人類」 といった語を用いるといかにも大仰で、
かえって文意の信憑性を損ねるという場合、つまりはそういう言語感覚が働いたと
き、「全体」 としての抽象性を保ちながら印象としてはさほどでしゃばらない感の
ある 「私たち」 や 「われわれ」 といった一人称複数形を持ちだします。また、
たち≠ニいう類には、それをいま読んでいる読者自身も含まれるニュアンスを与
えます。例えばどこかの立派な学者が、「私たちの抱えている問題について云々」
と表記するとき、読者はなんとなくこの立派な学者と同じ問題を共有しているかの
ような感じになり、自分も立派にその言説に参加しているような気になるでしょう。
ひいてはそれが、どのテクストへの肯定感を呼ぶことにもなりましょう。もちろん、
最初から否定的な構えで読む読者には、そうした効果は期待できませんが。

 使い勝手がいいのでつい多用してしまいがちになるのですが、決まりきったかのよ
うに使う、読む(聞く)ことには注意が必要です。ラディカルに 「われわれ日本人
はァ」 などと弁をぶつとき、はたしてそこに子供や女性、老人、障害者などの社会的
弱者までが含まれているのか、在日朝鮮人やアイヌ民族といったマイノリティーを射程
に入れているのか、安易に同調する前に一歩立ち止まってみなければなりません。
暗黙の差別が、「われわれ」 にはいつもつきまとうのです。

241 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/05(木) 21:53:52
 さて、『永すぎた春』 の解説は特定の技術について考察するものではありません
でした。ひとつの小説を材料に、どこまで 「読み」 を広げられるかという試みで
した。
 そんなの小説を書くことと関係ないや、と思う方もいるかもしれません。まったく
他人の本を読まずに小説を書くということも、やってやれないことではないかもしれ
ません。 でも、自分の文章を読まずに書くということはできませんね。批評性を持
たねば、自分はいったいなにを書いているんだろうという珍事を招きます。
 私たちは書きながら、同時に読み解くわけです。 だれしも自分の文章には甘く寛大
になるものです。大事なのは、自分の文章にあ然とする感覚、文体に対する感度です。
フローベールなら、「文章はだめ。まったくだめだ。とにかく 『ボヴァリー』 がさ
しあたり発表できないのは残念だ。どうしたものだろう」 と友人に愚痴をこぼすで
しょう。
 「自分を描いてはならない」 「人目についてはならない」 「いまこそ厳密な方法
により、芸術に物理学の正確さを与えるべき」 だと彼は考え、それを 『ボヴァリー
夫人』 において実行したわけですが、もともと叙情趣味の強い 「わたしにとって一番
むずかしい問題は、それでもやはり文体であり、形式であり、イデアそれ自体に由来し、
プラトンのいうように、真なるものの輝きである、定義しがたい美ということになるの
です」
 情の流れるまま、思いつくままに筆を走らせる自然主義的筆法から決別することで、
フローベールは近代小説の文体の一生面を切り開いたのでした。

242 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/05(木) 21:54:58
 話を戻して、読みの多様性が必要と説いてみても、それだけでは具体的な実践性に
欠けます。ガンバレ、と言っているのと同じようなものですね。
 じゃあ、その多様な読み方ってやつをここでドドーンと紹介・解説してくれるのかな、
なんて期待してはいけません(笑) 私も物好きでこうやっていろいろなことを書いて
きましたが、そこまではできません。
 なので、文芸批評をするのに押さえておくとなにかと役に立つ知識、学問等を、テク
ストへのアプローチ別に、三つのカテゴリーに分けて紹介するにとどめたいと思います。
あとはみなさんの努力に任せます。

243 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/05(木) 21:56:16
 
 作品と個人 ―― 形而上的アプローチ
  (経験・印象・恣意性) 現象学 実存主義 作家論(伝記含む)
  心理学 倫理学


 作品と言語 ―― 共時的アプローチ
  言語学  形式・(ポスト)構造主義  脱構築論
  記号・テクスト論


 作品と歴史・文家 ―― 通時的アプローチ
  ジェンダー  サブカルチャー  神話 宗教 イデオロギー
  マルクス主義 (ポスト)モダニズム  (ポスト)コロニアリズム


244 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/05(木) 22:01:33
 もちろん、ここに挙げたもの以外にも、それこそ学問なんて腐るほどあるわけで、
考えようによったら生物学や量子論なんてものも批評手段に使えるでしょう。けど
そんなこと言いだすとキリがないですからね。
 この三つの分類も絶対というものではありません。例えば社会言語学なんかは、
文化的な要素なしには語れないでしょう。まあ、わかりやすくカテゴライズすると
こんな感じになりますよ、ということです。

 「作品と個人」 の、経験と印象と恣意性がマル括弧でくくってあります。これが
学校作文の範囲、嫌な言い方をするとガキの作文ってやつですか。みんなここ
から始まるんですから、バカにしちゃいけないんですけどね。
 でも、読みの多様性や批評の強度というものを上げるには、この括弧を開かなけれ
ばならないのです。それは、理屈っぽい主知主義になれというのではありません。
印象や経験だけに閉じこもっている感性を、悟性へと開きつなげていくことなのです。


 次回大喜利に出でますは、ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)の代表的作家、
クロード・シモンであります。読むということを考えずに読むことのできない
小説について、語りましょう。


245 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:03:16

 ある文学がそこで手をつけられるまさにその瞬間に、すでに変性は
 始まっているのだ。終わりが始まる。
 終わりが始まる、これは引用である。たぶん引用だろう。
                    ―― ジャック・デリダ


246 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:06:37

   『フランドルへの道』 クロード・シモン 平岡篤頼 訳


 そして彼の父は依然として、まるで自分自身に話しかけでもするように
しゃべりつづけ、あの何とかという哲学者の話をしていたが、その哲学者の
いうところによれば人間は他人の所有しているものを横どりするのに二つの
手段、戦争と商業という二つの手段しか知らず、一般に前者のほうが容易で
手っとりばやいような気がするから、はじめ前者のほうを選ぶが、それから、
といっても前者の不都合な点危険な点に気がついたときにはじめて、後者す
なわち前者におとらず不誠実で乱暴だが、前者よりは快適な手段である商業
を選ぶもので、結局のところあらゆる民族はいやおうなしにこの二つの段階
を通過し、イギリス国民のように外交販売員の株式会社的なものに変容する
前に、それぞれ一度はヨーロッパを兵火と流血のちまたと化しており、いず
れにしろ戦争も商業もどちらも人間の貪婪(どんらん)さの表現にすぎず、
その貪婪さ自体先祖伝来の飢えと死との恐怖から導きだされた結果で、そう
考えてみれば殺人盗み略奪も売買もじっさいはおなじただひとつのもの、た
だの単純な欲求自分の安全を保ちたいという欲求にすぎず、ちょうど腕白小僧
たちが夜森のなかをとおり、自分を勇気づけるために口笛を吹いたり大声で
歌をうたったりするのとおなじで、なぜ合唱が兵器の操作や射撃練習とおな
じ資格で軍隊の教育課程の一部をなしているかもそれで説明がつき、それと
いうのも沈黙ほど手に負えないものはないからだが、とそこまでいい、その
ときジョルジュがかっとなって 「わかってるよ、そんなこと!」 というと、
彼の父は相変わらず見るともなしに薄明のなかにかすかにわななくはこやな
ぎの木立を眺め、たなびく夕靄(ゆうもや)はゆっくりと谷底に沈んでいっ
てポプラの木々をひたし、丘々がますます影を濃くし、「どうしたのかね?」
というので、彼 「どうもしませんよぼくはとにかくむやみやたらに意味も
ない言葉ばかり並べ立てる気持ちはありませんねそもそもお父さんだってそん
なことには飽きあきしないんですか」、すると彼の父 「どんなことにかね?」、
そこで彼 「駄弁にですよいくらまくしたてて……」、といいかけ口をつぐみ、

247 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:09:30
明日出発するのだということを思いだして自分をおさえ、彼の父はいまはだまっ
て彼を見つめ、それから見つめるのもやめ(トラクターはいまや終点にたどり
つき、騒音をたててあずまやのうしろを通過していて、作男は高い位置にあ
る運転席に坐り、そのシャツのぼんやり明るい色だけが木陰の濃い闇のなか
にわずかにほの見え、まぼろしのように宙にふわりと浮いたまますべりすぎ、
遠ざかり、穀物倉の角にかくれて見えなくなり、そのあとすぐにモーターの
音がやみ、すると沈黙が寄せかえしてきて)、彼にははや老人の顔も見分け
がつかなくなり、輪郭のおぼろな顔面だけが、肘掛け椅子にぐったりした巨大
なぼんやりした肉塊の上に宙づりになっていて、こころのなかで 「しかしお
父さんも悲しんでいてそれをかくそうとしやはり自分の気持ちを引き立てよ
うとしているんだなだからこそこんなにしゃべりまくるんだなにしろ彼が頼
りにできるのはそれだけつまり他人が彼のかわりに学んでくれた知識つまり
本に書いてあることは絶対にりっぱなことだというあの鈍重で執拗で迷信的
な軽信――というかむしろ信仰――だけだからなお父さんのお父さんはただ
の百姓だったからそんなむずかしい言葉は読んでもわからずそれでそんな言
葉に一種の神秘的な魔術的なちからを仮定し想像していたっけ……」 彼の父
の声はあの憂愁、あの手のほどこしようのない破れかぶれのしつっこさ、自
分の言っていること自体の効用とか真実性とかまではいわないが、すくなく
ともその効用を信じるというそのことの効用だけでもなんとか自分自身に信
じこませようとするしつっこさをみせて、依然としてまったく自分ひとりの
ために―― 子供が闇につつまれた森を横ぎるとき口笛をふくようにと彼自身
もいったが――執拗にしゃべりつづけ、それがいまも彼の耳にまで聞こえつ
づけるのではあったが、そこはもはや八月のどろりとよどんだ暑さにひたる
あずまやの薄暗がり、なにかが決定的に腐敗つくして、すでに悪臭をはなち、
うじむしでいっぱいの死体のようにふくれあがりやがてくずれだし、あとに
まったく意味もない残滓(ざんし)、もうとっくになにひとつ判読すること

248 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:11:48
もできなくなっている新聞紙の山(目じるしになる文字や記号さえ、センセー
ショナルな大見出しの文字さえ判読できず、灰色の紙面にいくらか灰色が濃
いだけのおぼろな汚点(しみ)、影となって見えるだけで)そんなものしか
存続させない腐臭ただよう夏の薄暗がりではなく、(その声、それらの声は)
いまは冷たい暗闇、目に見えないながらもまるではるかの昔から行軍をつづ
けるかのような馬たちの、長い行列が延々とつづいている暗闇に立ちのぼり、
あたかもそれは彼の父が決して話しやめるということをせず、ジョルジュが
その間に通りがかりの馬の一頭をつかまえ、まるでただ椅子から立ち上った
だけとでもいうふうにその馬にとび乗り、有史以前の大昔から歩みつづける
そのまぼろしのひとつにまたがって、老人がからの肘掛け椅子に向かってな
おもしゃべりつづける間に遠ざかり、姿を消してゆくかのようで、老人の孤独
な声だけがそれでもなお執拗に、なんの役にもたたないうつろな言葉を発し
つづけ、秋の夜をいっぱいにみたすなにかありのひしめきのようなもの、荘
重で冷ややかな足音のうちにすべてをひたし沈めてゆくありのひしめきのよ
うなものと、押しつ押されつしながらいつまでも

249 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:13:58
 
 つづく言葉の散弾、あるいは瓦礫、というか吐気。
 だれよりも熟読しているはずの訳者も、こと解説に臨んで語りぐさにできる
人物、情のもつれはなく、むしろ一番もつれているのは、テクストのほうであった。

250 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:16:42
 つまり
 「年代記的順序にしたがって巧みに展開された筋、終始一貫統一がとれ輪郭
のはっきりした作中人物、人間の心理も因果関係も社会のメカニズムもすべて
見とおす力をもった神の視点からなされる分析や描写、そういった約束ごとか
ら成り立ついわゆる 《伝統小説》 に慣らされた読者が本書を読んで感じるもの
は、まずおどろきであり、当惑であろう。」
 それは
 「《いくらかあきれはてた、しかしいくらか感嘆と非難とが同時にこもった一種
の茫然とした感じ》 ならまだしもで、《茫然自失というか、絶望というか、落ち
つきはらった嫌悪》 であるかもしれない。」
 だから
 「《小説とはこういうものだ》 という固定観念をもって筋だけを走り読みし、
なるほど、人間とはこういうものか、世界とはこういうものか、という図式的
理解を得て自己満足にひたる読者のために書かれたものではなく、現実の不可
解で不条理な生にたいするとおなじように、安易な期待を満足させてくれない
からといって目をつぶらず、虚心に一字一句をたどってこの小宇宙の構造と意味
をさぐろうとする読者しか相手にしていない」
 わけで、シモンいわく
 「記憶のなかではすべてが同一平面に位置し、会話も、感情も、まぼろしも
同時的に共存します。ぼくが意図したのはそうした物事の見方に適合し、現実
には重層化しているそうした諸要素を逐次的に提出できるような構造をつくり
あげること、それによって純粋に感覚的な建築構造を再現することだったんで
す。》」
 そう
 「つまり虚無の深淵を 《描く》 のではなく、言語そのものが虚無の深淵の
構造をもっている。」

251 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:18:08
 なるほど、シモンの小説とはそういうものか。と、おおむね大体、頭と尻尾
の位置くらいはわかったような気になろう。解説とはそういうものだ。
 宇宙のはてから河原の石ころまで、人の理解の矛先はどこにでも向けられる。
いくらかあきれはれるくらいに。

252 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:21:28
 日頃、私たちがなにげなく 「小説」 と呼んでいるその体裁の輪郭を破り、
型枠の外へドロリと流れでる文=体。ゆえに、シモンの小説は大衆をよろこば
せる媚態を一切放棄している。俗耳に入りやすい感動話をふりまいて賛辞を頂
こうなどとは、これっぽちも考えていない。
 「去年のわたしの印税は、全部でも五十万円〔邦貨に換算して〕ぐらいだっ
たよ」(1995年当時)とは、ヌーヴォー・ロマンの旗手にしてノーベル文学賞
受賞者(シモン)の弁である。

 『路面電車』(クロード・シモン)のあとがきで、訳者の平岡篤頼はこう気炎
をあげる。

 「ヌーヴォー・ロマンがあまりにも技巧を弄し、小説を窮屈で息苦しいもにし
てしまった結果、小説の息の根をとめたとするたぐいの批判がしばしば行われる
が、むしろ 《早く読める》 わかりやすいタイプの小説だけを 《小説》 と呼び
たいならば、ヌーヴォー・ロマンは小説と呼ばれなくても差し支えないのでる。」

 たしかに、自分にとっては格別の価値を持つ物でも、他人にはそれがゴミや
ガラクタにしか見えないということがある。そういう他人のものさしをへし折っ
て粉砕してやりたい気持ちになることも少なくない。
 さもありなん、そうした 「容易で手っとりばやい」 野蛮なやり方がネット上
でも(あるいはだからこそ)好まれているようにみえる。その不毛さと蒙昧さは
千古より人間の宿痾(しゅくあ)としてはびこっているのだけれども、最近になっ
てなんとか知恵をつけてきた人間は、それに替わるもっとスマートなやり方として、
交換という手段を用いる。よりよい物差しをショーケースに並べて見せることが
できれば、相手のものさしをわざわざへし折る(しかもそれは大抵うまくゆかない)
ようなことをしなくても済むだろう。外在する物と同じように、内在する価値観
(ものさし)も交換することができる。

253 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:26:24
 柄谷行人は言う。
 《古典派経済学者〔アダム・スミス〕にとっては、一つ一つの商品はすべて
使用価値と交換価値を持っている。が、それは現に交換されねば存在しないの
だ。この使用価値と交換価値の 「綜合」 は、キルケゴールがいう、「有限と
無限の綜合」 に類似するものである。たとえば、売れなかった商品とは、他者
との関係に背を向け 「絶望的に自己自身であろうとする」(『死にいたる病』)
もののことである。》

 マルクスが唱えるように、「その人間労働が他人にとって有用であるかどう
か、それゆえその生産物が他人の欲望をみたすかどうかを証明してくれること
ができるのは、商品の交換だけである」
 その表現(プロの作家にとってそれは商品である)が、交換性を有して、そし
て現に交換されて他者に知覚(所有)されなければ、言葉は言葉としての機能を
十分にはたすことがない。その意味で、私たちはすでに引用され与えられている
ものの、他者の言葉しか持たないというのは正しい。

 されば、市井の垢とかすにまみれた銅貨に似て、すっかりその輝きを失った
表現というものもある。その交換性の増大は、文芸において陳腐であり、月並み
であり、ステレオタイプであり、価値の下落を意味する。ここに奇妙な逆転、
いうなれば価値の弁証法があらわれる。飛躍が、そこに求められる。

 すでに競争は始まっているのだ。

254 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:29:11
 自分の言葉で書け、とはよく説かれる作文の要諦である。言い換えれば、他人
の言葉で書くな、ということである。
 自分の言葉とはなにか。それはもはやひとつの思想であり、柄谷は文学の倫理
という。>>102 〔補足:最大多数の理解(利益)を求めることがはたして最大善
となるのかという問題―倫理〕

 しかし、どこまでも自分自身であろうとする在り方を求めると、結果的に
はどれも似通った姿となる。人知を拒み、人の理解を超えるもの、何者の容喙
(ようかい)も許さず、脱商品化されることの逆説的な価値観を絶対視する
こと。そこにあるのは、絶望(孤独)であり、他者(外界)の否定であった。
いわゆる芸術家や原理主義者、民族主義者などがよくおちいる陥穽(かんせい)
といえる。文学的には、例えば 『午後の曳航』(三島由紀夫)の少年たちや
エヴァンゲリオンの世界観となってそれはあらわれよう。

 使われない細胞(言葉)が、まさに死(語)にいたるように、言葉は、人と
人との間を流通する状態において、その価値を作り出す。そのなかで、詩的言語
の営みは常套化したパターン(技巧)を鋭く嗅ぎわけるだろう。大事なのは、
そのパターンを拒絶するのではなく、多様な幅を持つずれ(差異)をそこにも
たらすことである。無限にずれ行く変化。それは、バルトのいう 「テクストの
快楽」 やデリダの 「差延」 と呼ぶところにもまた接続するだろう。

255 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:31:13
 いかな本好きといえども、シモンのテクストには難儀するにちがいない。三
ページ目には挫折を感じ、不覚にものび太の境涯をここに悟ってしまう。まち
がっても読書感想文にこれを選ばない。
 「よくわからなかった。」 と一行に書き捨てるほかないからだ。
 交換不可。見なかったことにしよう、と無視を決めこむ。それが一番安全な
処世術である。
 もしインテリがそんなていたらくであれば、文学―芸術はすぐに自己満足と
内輪うけのたこ壺に安住してしまう。そのたこ壺に揺さぶりをかけることが、
メタ言語たる批評の役目であろう。もちろんそれは、根拠もなく悪口雑言を
並べ立てることや、ろくろく味わいもせずに 「うまいうまい」 とわめく味覚
のたぐいをいうのではない。

256 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:33:02
 ひところ福田和也が流行らせた点数批評も、彼の師である江藤淳の言を借り
れば、「文壇というか文芸ジャーナリズムというのは、ひどいことになってい
るなと思う。もう骨までしゃぶって、賞を出したり褒めそやして、何も自分じゃ
頭を働かせないで、――スカスカにな」った書き手と読み手ばかりなら、あえ
て視覚的、直観的にわかりやすい点数でもって、掛け値なしに小説の価値(ね
うち)を決めつけたってOKだろ? という福田流のあてつけ(皮肉、その他
もろもろ)であった、が、なにやら点数をつけるというその 「お手軽」 なと
ころだけを取り入れて、いっぱしの批評を気取る二番煎じ、またそれをヘヘーと
拝受するような神経は、やはりいただけない。そんなところに、なにかを構築
するような力はない。
 余人が語りがたいその暗闇を語る術をもつことが、文学(批評)の感性≠ナ
あろう。

 《望ましいのは、「感じる」 ことと 「考える」 ことを分離してしまうので
はなく、「考える」 ことを 「感じる」 ことに基礎づけるか、あるいは 「感
じる」 ことを言語化(思想化)することである。》
 と柄谷行人は言う。


257 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:35:05
 はっきり言って、シモンの小説は面白くない。面白かったら、つまらないの
だ。その倒錯した文体によっていやでも気づかされるのは、私たちがいかに
「小説」 というものの形、コード、典型的な構造性を意識せずに空気のよう
に呼吸しているか、ということである。
 シモンの小説が息苦しいのは、いつものように電車で運ばれていくような、
楽な読書行為を読者に許さないためだ。どこへゆくとも知れぬ路面電車のあと
を追いかけて、さあ走れ、と尻をひっぱたく。
 読書は運動だ!

258 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:37:00
    『路面電車』 クロード・シモン 平岡篤頼 訳


 そしてふたたびそれが起こったが、べつに出しぬけというわけではなくて
言うなればじわりと寄せてきたのであり、つまりわたしがそれを意識したとき
にはすでにそれは始まっていて、わたしがそこへきて二度目か三度目だがまる
でとぐろの輪を巻いた蛇とでもいったものが徐々に腕を締めつけてきて、その
作動はなにかの自動記録装置、ちょうどある種の精密機器の展示ケースに見ら
れるようなゆっくりと回転する円筒上に記録された気圧や気温の曲線みたいな
ものに従っているらしいと了解し、漠然とながら(といってもべつに痛みはな
く)病院のなかで誰かが一時間ごとにそれを監視する役をつとめ、いつでも駆
けつけようと身構えているのだろうか、それとも朝の回診の前にそれを一瞥する
だけなのだろうかと自問するのだったが、しかしわたしはべつに痛みもなく、
顎までシーツを引っぱりあげて仰向けに寝ていて横向きでなければ眠れないわ
たしは寝つけず、だから眠れなかったのだと了解しといっても

259 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:38:18

 やっぱりなんのことやらすんなり呑み込めない。とりあえず要約すると――
病院のベッドの上で寝ていると、血圧やら心拍やらを自動で計るような装置が
また作動して、蛇みたいに巻きついているバンドが腕を締めつけてきた。その
装置に関して、とりとめもないことを私は考える。仰向けに寝かせられている
せいで、どうもよく眠れない。

 こう書けば多少とも意味は通りやすくなるが、わずらわしくもこうして文章
を平明に整え直して読むほどヒマじゃないと、たいていの読書子は思うにちが
いなく、仮にそうしたところで、この小説の面白さが倍加するわけでもない。
まず必要なのは、根性と気合と忍耐力であり、趣味が読書という堂々たる文系
の人間にはおよそ似つかわしくない汗臭さである。だから、従来の小説の楽し
さを味わおうとする構え方からして心得違いであり、そのためにがっかり(と
いうかげっそり)するのはもっともなことである。

260 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:45:06
 言うまでもなく、シモンの小説を特徴づけている常軌を逸する息の長いセン
テンスは、ジョイスの 「意識の流れ」 と地下茎でつながっている。言葉の意味
とイメージは生成するそばから次の言葉によって塗り替えられ、ゆさぶられ、
分裂し、ちぢこまり、押し流されてゆく。骨格なき語りのアメーバ。記号の絶え
間ない流入と散逸の構造による非線形のエクリチュール。
 当然、この脱コード化の模様から、ポストモダニズムやポスト構造主義といっ
た言説を導き出すこともできるだろうが、私の稚拙な筆をふるって学究的な論を
展開する由はないので、そこはほかに譲りたい。

 書き方そのものは、根気さえあればだれにでも模倣可能だ。放縦に、闇雲に、
言葉をただ連ねていくのは、むしろたやすい。
 昔、書店でひょいと手に取った本をパラリと開くと、この手法で、映画の評論
とおぼしきものが延々と書かれてあった。なかなか血迷っている。外見上は、シ
モンやジョイスのそれと同じく見える。だが、文学的な強度まで安く簡単にまね
できるほど甘くはない。そんなものは前衛趣味のちんけな模造品(「SQNY」とか
「HONGDA」とか)にすぎず、所詮はその場限りのたれ流し、二束三文の仕業なの
である。

 斬新な手法の形式化は陳腐化を促進させもする。
 個性を前面に押し出したスタイルは、概してその作家のみの、あるいはその
作品のみの一回性の芸術として成立し、他の追随を亜流やまがい物にしてしまう。
ピカソの画風をいくら上手にまねしたところで、それは 「ピカソっぽい」 域を
出ることはないだろう。同様に、シモンやジョイスとはちがうベクトルで文体
を異化させなければ、文学の新たなパースペクティブ(展望)にはならないので
ある。
 なにもこうした高踏的でストイックな文学を勧めるわけではないが、安易に
奇態な造形に走ることと個性の表出とを履きちがえてしまわないようにしたい。


261 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:46:23
 いつだったか(TVで見たのだが)ロシアの高名なアニメーション作家、
ユーリー・ノルシュテインが来日した折、好きな俳句として小林一茶の

 「痩蛙 まけるな一茶 是に有」

 という有名な句をあげ、その蛙はきっとこんなふうに鳴いたのだと、池のほ
とりにカエルポーズでしゃがみ込み、ギィェー ギィェー と奇怪なオノマトペ
を披露してみせた。あごが落ちるのを禁じえなかったが、なんだろう、古きよき
社会主義リアリズムでも表現したかったのであろうか。
 彼は日本語を解せないから、一茶の句をロシア語訳で読んだのだろう。そして
ロシア語の詩として、なにがしかの感銘を受けたのであろう。

 日本語はローカルな言語である。非漢字文化圏の外国人にとって、かな漢字混
じりの日本語のテクストは、決してやさしくない。よって翻訳に頼るのは当然で
ある。しかし翻訳の難として、もとの言語が背負っている文化や表現の機微、ま
た技巧の効果が減じたり脱落してしまったりする場合がある。このことは、今まで
の技術解説のなかでもいく度か触れているので、細かく説明する必要はないだろう。
 ここで、ことさら翻訳の不可能性を取り沙汰して自国言語を美化するとか、そ
んなせせこましい話をしたいのではない。大体、日本語を母語とする現代人にし
ても、予備知識なしに江戸時代の文脈をその字面だけから読み取るのはむずかし
い。その意味では、翻訳で読んでいるロシア人と大差はなかろう。

262 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:47:50
 「痩蛙」 を、一茶の感傷的な擬人化として捉える人は多いかと思う。俳句の
心は、言外の趣を誘いだすことにある。ならば、痩蛙からどんなイメージを浮
かべようが、解釈しようが、自由ではある。とはいえ、実のところこの蛙、池
のほとりで独唱するのでも、一茶の感傷的自己投影でもなかった。

 岩波文庫の 『一茶俳句集』 によれば、くだんの句には次のような前書きが
ある。

 「蛙たたかひ見にまかる、四月廿日也けり」
 その 「蛙たたかひ」 の注解。
 「蛙合戦。蛙が群集して生殖行為を営むこと。一匹の雌に数匹の雄が挑みかかる」

 発情期の蛙の雄どもが、ぬめぬめした体をぶつけ合い、本能むき出しで雌に
襲いかかるのを眺めるという、その有様を想像するに、あまり気色のいいけしき
ではなさそうだ。まあ、一茶も男だし、江戸の世には刺激的なビデオなんてもの
はないわけだし、別の想像力をたくましくすれば、そんなのでもけっこう興奮
しちゃったりするのかもしれない。そこで、一茶は、おそらく体の小さい弱そ
うな雄蛙に肩入れして、例の句を詠んだのだ。
 「一茶 是に有」 も、軍談・講釈などの口調に擬したもの、という注解があ
る。もはや清らかな情緒を語れる場所に一茶はいない。
 やや下劣な意訳をすれば、こうなる。

263 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:54:32
 「痩蛙 ち○ぽぶちこめ まけるなfuck 一茶がここについてるぞ」

 これに眉をひそめるのが、たしなみある大人の品性である。一応、そういう
ことになっている。
 俳句のようなミニマルな定型詩は、みだらでグロテスクで毒々しい表現、良
くいえば野性的な俗趣を描くのに向いていない。そうしたリビドー・エナジー
は、そもそも小さな型に押し込められるものではないからだ。雅趣繊細の引算
とは逆なのである。

 常識的には、上のごとき句は俳句の名に値しないし、かような意訳をほどこ
す眼識に憮然とする御仁もいよう。それは、シモンのような小説を訳してなに
が伝わるのかという疑問、こんなもの文学じゃないという非難、無理解にも通
じるところがあるだろう。
 もっと世界とか人間とかの、わけのわかるドラマ性が欲しい。そういう心情
は、一般感覚としてよくわかる。まったくもって文学の徒には、「素直」 の
二字が抜け落ちて、替わりに 「衒気」 の二字がはめ込まれてあったりする。
あるいは 「反俗」 かもしれない。だから売れないんだと言われれば、その通り
だろう。難解=高級とする浅薄な思いちがいもあるだろう。
 しかし、やはり「世界」 やら 「人間」 やらというのは、もともとが解かり
にくくて伝えがたいものではなかったか。その深淵を、美妙を、あるいは絶望
を、本来言葉では言い尽くせないそのものを、あえて言い表そうと試みること。
語りえないことの孤独を越えて語りだす、その解りにくいエクリチュールもまた、
世界であり文学なのである。

264 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:56:40
 「翻訳ではわからないが、現在分詞のおびただしい使用もシモンの文体の大
きな特徴で、それに関してはすでに一篇の論文さえ書かれている」 「そのよ
うな文体論的興味をそそるシモンの言語の特殊性を、意識的だからといって知
的遊びとか形式主義と断じるのは早計で、むしろ作品内容そのものが、こうし
たはてしない模索と問いかけの文体を生んだといっていい。」 「このような
特殊な文体で書かれた作品を、言語構造のまったく違う日本語に移すことは予
想以上の困難を伴ったが、また予想以上の喜びを味わったことも告白しなけれ
ばならない。」(『フランドルへの道』)

 私たちがシモンのような作品に触れる機会を得るのも、翻訳者の奮闘があっ
てこそである。言語と言語のはざまで 「押しつ押されつしながら」、訳者は
相互の共鳴を図ることに肝胆を砕いておしまない。「なんの役にもたたない
うつろな言葉」などひとつとしてない。それは、「虚心に一字一句をたどって」
創られた、もうひとつの小宇宙なのだ。

265 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:57:20

   2005年、平岡篤頼は五月に、またクロード・シモンは七月に、
   鬼籍に入られた。


266 : ◆YgQRHAJqRA :2006/01/08(日) 01:59:12

ながらく惰性的につづいてきた私めのちょこ才な解説も、これをもって
幕となります。
いやしくも芸と名のつくものであってみれば、そこには陰に陽に働く技術
のあることを書きつけてきました。文章表現の新たな広がりやひらめきを、
ここから得てくれたなら、これ以上の喜びはありません。
そして、なおいっそう飽き足らず、文芸の道に励まれんことを


267 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 08:50:15
z

268 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 08:52:06
馬鹿なコテだ。

269 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 08:58:13
未消化のままうんこ垂れ流してるわけだ。

まあ、ちょっと読んでみるか。流しで。やっぱやめとくか。

ショーペンハウアーが書いてたがヘーゲルを読むと馬鹿になるそうだ。

意味もない無茶苦茶な概念で頭がいっぱいになってその何の意味もないもんで物事を見ようとしてしまって。
そんで完全な馬鹿になるらしい。

まあでも暇だからちょっと読んでみるか。それに桃白白がこうも言っていた、
「殺しのプロの恐ろしさに気づいたときにはすでに遅かったわけか」と。

270 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:06:11
やっぱ読めんかった(笑)

>◆YgQRHAJqRA

ぐだぐだ言ってねーであんたの理論をもとにさっさと小説書いて、晒してみろ。

271 :覗く男:2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ

272 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)

273 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

274 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:19:55
創作技術、作品の評価

覗く男>>>>>>>>>>>悪夢聡史
これはこの板の共通認識

275 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:20:33
馬鹿だな。
オレの名作群をよんでねーだけ(笑)

276 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:22:18
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ


272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)


273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)


277 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:23:00
アリのクソ作家代表w


278 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:24:44
覗く男と>>273『地獄』が繋がっていない件について。

279 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:29:44
アウトサイダー列伝:アンリ・バルビュス
http://www.geocities.jp/colin_webson/outsider/barbusse.html

280 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:30:32
『蠅車掌』『変な涙』『退屈だし。恥辱。だが愛。だが気のせい』『marker world』『互いの傷を癒しあうように研ナオコとファッくしたい』『自然死ボールZ』

この順で読んだとしても、俺の全貌の5分の1もわからない。それほど深い。

281 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:32:09
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ
272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)
273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)
278 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:24:44
覗く男と>>273『地獄』が繋がっていない件について。
279 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:29:44
アウトサイダー列伝:アンリ・バルビュス
http://www.geocities.jp/colin_webson/outsider/barbusse.html

282 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:32:53
outsiderは部外者、傍観者という意味だが?
どこが「そのまんま」なんだ?

283 :バルビュスそのまんまのコテ名だなって(笑):2006/01/08(日) 09:34:29
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ


272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)


273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

284 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:34:35
アウトサイダー列伝 w
「列伝」の意味くらいわからないのか?
困ったやつだ。
いいからロムに徹しておけ>悪夢聡史

285 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:34:39
雑談でやれ

286 :バルビュスそのまんまのコテ名だなって(笑):2006/01/08(日) 09:35:33
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ


272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)


273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

287 :バルビュスの『地獄』そのまんまのコテ名だぜこいつ(笑):2006/01/08(日) 09:36:59
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ

272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)

273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

279 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:29:44
アウトサイダー列伝:アンリ・バルビュス
http://www.geocities.jp/colin_webson/outsider/barbusse.html

288 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:37:07
つくづく恥ずかしい人間だなw
悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ


289 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:38:00
作品名に『覗く男』などないだろwww

290 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:55:49
バルビュス『地獄』について。『バルビュス 地獄』で検索してみんももっと、もっとこの名作について知ろう。語ろう。

http://66.102.7.104/search?q=cache:KqTDatrYjSsJ:blog.melma.com/00083282/20040806+%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B9+%E5%9C%B0%E7%8D%84&hl=ja

291 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:58:40
『地獄』≠『覗く男』だろ
詭弁もここまでくると見苦しい。
消えてくれないか、このスレから。

292 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:58:42
269 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 08:58:13
未消化のままうんこ垂れ流してるわけだ。 まあ、ちょっと読んでみるか。流しで。やっぱやめとくか。
ショーペンハウアーが書いてたがヘーゲルを読むと馬鹿になるそうだ。 意味もない無茶苦茶な概念で頭がいっぱいになってその何の意味もないもんで物事を見ようとしてしまって。 そんで完全な馬鹿になるらしい。

271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ

272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)

273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

293 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 09:59:38

291 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:58:40
『地獄』≠『覗く男』だろ
詭弁もここまでくると見苦しい。
消えてくれないか、このスレから。


294 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 10:00:42
>>291
>『地獄』≠『覗く男』だろ

『地獄』>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>『覗く男』だしな

あんな馬鹿はとっとと消えて欲しいもんだ

295 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 10:10:43
フシハラ=悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ は基地外

みんなほっとけ


296 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 12:39:41
>>266
お疲れ様です。

小説の解説、もしくはネット上の書評や批評なんかでは
みんなに当たり前のように使われていながら、
実は適当に使われていることが多い、そんな基本的な事柄が、
解りやすく簡潔に説明されていて、非常にためになりました。
ためになるだけではなく、実に刺激的で楽しく読めました。
また読み返したりもするとも思います。

ずっと続きを楽しみにしてたので終わってしまうのは残念ですが、
こういうスレに出会えて本当によかったです。

297 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/08(日) 13:11:30
うるせえぞ美香自演すんな。きもい。

298 :名無し物書き@推敲中?:2006/01/15(日) 05:51:50
z

299 :みすず:2006/01/16(月) 18:28:46
ageるのでR

300 :名無し物書き@推敲中?:2006/02/04(土) 18:01:54
日常→戦闘→日常→戦闘→以下ループ
な構成で、ストーリー展開していくんだけど、構成の繰り返しってやっぱマズイですか?
それぞれ、話は繋がってて違うエピソードなんだけども。

301 :名無し物書き@推敲中?:2006/02/04(土) 23:42:04
実作を読まないと何とも言えないが、
繰り返しでも構わないだろう。それが発展的なものであれば。
まずいのは同じような調子で、ただループしていくことだ。
本人がそういう疑問を持っていること自体が、その可能性が大きいとは言える。
書き手が面白いと思えなければ、読み手はもっとそう感じる、
と見なした方がいい。

302 :名無し物書き@推敲中?:2006/03/01(水) 13:00:59
石でも詰まってる

303 :名無し物書き@推敲中?:2006/03/21(火) 10:34:43
ワープロ写経

304 :名無し物書き@推敲中?:2006/04/09(日) 11:32:00
読もうよ

305 :名無し物書き@推敲中?:2006/04/24(月) 11:37:29
いや、書け

306 :名無し物書き@推敲中?:2006/04/27(木) 12:46:41
好みに合わない

307 :無名草子さん:2006/05/26(金) 12:03:01
どこへ行っても

308 :名無し物書き@推敲中?:2006/05/27(土) 01:23:56
朝日新聞夕刊06/5/24
陣野俊史「ある下読み担当者の呟き」

ある小説賞の下読みをやっている。下読みとは集まった応募原稿の
中から、私のようなフリーの本読み(ちょっとヘンテコな表現だが)
が百篇なら百篇読んで、数篇に絞り込む作業。………

応募しようという人のためにいうと、今はエンターテイメントも
純文学も区別ない状態で小説は読まれる。だから、歴史物ならば
主人公がどれくらい現代人としても魅力ある人物か、
ファンタジーならその独特の世界観がどれぐらい精密にできているか、
現代小説ならそこで扱われている問題に解答が与えられているか、
が問われる。

私は少なくともそういう判断基準で選んだ。

意外と多いのがいじめを扱った小説。
「野ブタ。をプロデュース」以来の傾向かもしれない。
だが、たいていはいじめに対して解決策がない。
解決がない小説はエンターテイメントとして成立していない。
陰湿なだけだ。

エンタメ小説を志す方々、心されよ。


309 :名無し物書き@推敲中?:2006/06/22(木) 13:36:11
hou

310 :名無し物書き@推敲中?::2006/07/22(土) 11:00:45
絞り込む作業

311 :名無し物書き@推敲中?:2006/07/27(木) 04:20:07
あげ

312 : ◆YgQRHAJqRA :2006/08/23(水) 18:43:15
久しぶりにカキコ。
保守してくださっている人(たち?) 
どうもお手をかけさせてすみません&ありがとうございます。
しかし
書くべきか 書かざるべきか それが問題だ。

313 :(^o^)/ Катюша ◆6d2EwylCkI :2006/08/24(木) 08:17:36
お久しぶりです!
ゆっくりで構いませんので、ぜひ、書いてください。
よろしくお願いします。
私のほうは、
カフェを復活すべきか、せざるべきか、从^ 。^从

314 : ◆YgQRHAJqRA :2006/08/24(木) 23:32:55
わあ懐かしい(って変か)
あたたかいお言葉、胸に沁みます。

 ぜひ
この一言だけで作家はきっと勇気百倍です。ご飯三杯おかわりです。
言葉の不思議とまたおそろしさ。
私からも、お返しの
 ぜひ
をあなたに。

315 : ◆YgQRHAJqRA :2006/08/24(木) 23:43:09
たまには自分であげとこ

316 : ◆YgQRHAJqRA :2006/08/26(土) 20:59:27
「文体と語り」
というテーマでなにか書こう。
企画倒れにならなければいいんだけど。(無計画)
では、基本的に、マッタリのんびりとお待ちください。

317 : ◆YgQRHAJqRA :2006/09/07(木) 00:14:38
スレッドを新しく立てるのも不経済のゆえ
前は前、これはこれとして一筆とりまして
再びお目汚しの拙文をこのように晒す運びとなりました。

318 : ◆YgQRHAJqRA :2006/09/07(木) 00:18:08
        ―― 文体と語り ――


 物が形をともなうように、文章には文体がともなう。一口に文体といっても、
その指すところは多様である。文体の中身を広げると、ざっと次のようになる。

 【文章の装飾、修辞、技法。個人の言葉の癖や特徴。標準的文章。集団内や
ジャンルにおける言葉遣いの一貫性(たとえば方言、時代劇など)。文法、語彙、
音韻の構造的形態(たとえば詩文の韻律の分析)。】

 いわゆる文体論というのは、種々の言語学問の知見を横断的に利用しつつ文章が
どのように文体を獲得しているか、いうなれば私たちがどのように文体を認知して
いるか、その仕組みを研究し論証するものである。
 私は、もちろん言語学者でもなんでもないから、しかつめらしいアカデミックな
論の唾きを飛ばすというわけにはゆかない。しかし、情報技術の革命的発展によって、
私たちには自らの言葉を解放するトポス(場)を得た。表現の自由は、もはや専門家
やアーティストばかりが享受する権利ではなくなった。
 言葉を綴る人は、意識するにしろしないにしろ、文体と無縁ではいられない。
いっちょ小説でも書いてみるか。そんな人はなおさらであろう。

 日常、日本語を操ることにさして不自由を感じていなければ、品質はどうあれ、
現代語で小説を書くことに特別な訓練や素養は必要ない。それは、話し言葉と
書き言葉の隔たりが小さいということ、いわゆる言文一致の恩恵であり、共通語が
全国的に普及しているおかげであると言えよう。
 ここまで来るには、先人たちの苦心と模索があった。私たちが日頃つらつら造作
なく書いている文章も、およそ140年前に端と発した文体革命の上に立っている。
独自の文体を云々する前に、私たちの書き言葉の根幹である言文一致体の、その
成り立ちを概観しておこう。

319 : ◆YgQRHAJqRA :2006/09/07(木) 00:23:12
 明治維新前後、西洋から摂取した小説、学問書がおおむね言文一致体で書かれて
いるのに対して、それを翻訳表現する当時の日本語には、それに見合う言文一致体
の書き言葉がなかった。それどころか、西洋文化の鍵概念である 「社会」 「自由」
「個人」 「権利」 「哲学」 といった訳語も定まらず、それらの概念を説明する
言葉にすら不自由する有様で、日本語を使っていては文明開化など成しようがない
と悲観し国語廃止論さえ出たが、1500年以上にわたる自国の言語文化を、一昼夜の
うちに滅ぼそうなどという日本沈没的暴論が受け入れられるはずもなく、とにかく、
地道に国語を改良していく外はないと、知識人たちの苦闘がここから始まった。
 難解な漢文体や和漢混淆の文語文は、新時代の知識博覧、文意平明の用に適さない。
かくして、だれかもが平易に読み、書ける、言文一致の新文体の創出が叫ばれる。

 話されている言葉をそのまま書き言葉にして写すといえば簡単そうに聞こえるかも
しれない。統一的な話し言葉、言い回しでみながしゃべっていたのなら、たしかに
苦労はなかっただろう。しかし人は、なかなか行儀のよい言葉遣いをしないもので
ある。言文一致とはつまり口語体のことであるが、この口語体というのは日常談話的
口語体(俗文体)ではなく、あくまで 「話すように書く」 書き言葉である。
 無論、まったくの想像で新しい文体を創るのはむずかしいから、一応、東京の教育
水準の高い人たちが用いる上品な話し言葉を基として文章の口語化が企てられた、
と同時にそれは、書き言葉の側からも話し言葉の変化をうながし、両方を接近せしめる
ということも視野にあり、国語の標準化とも並行する言語の革新運動であった。

320 : ◆YgQRHAJqRA :2006/09/07(木) 00:24:48
 言文一致の理論には大きく二つの方向があった。話し言葉と書き言葉の完全な一致
を提唱する人たちと、ある程度書き言葉的な部分も残そうという人たちである。
当初、言文一致といえば前者の試みを指していたが、時代を経るに後者が優勢となり、
そのうち言文一致=話すように¥曹ュ、という直喩的な認識が主流となった。
それは、言文完全一致の文体が、拙さもあって冗長で要を得ない文章になりがちで
あったためとみられる。

 明治維新から始まった言文一致運動は、1946年、敗戦を機にそれまで旧文体を墨守
していた官庁の公用文、新憲法が口語体に改められ、全的に完了したとみる。
 新旧の文体転換は、日本の歴史における近代の全期間を費やしたのである。

321 : ◆YgQRHAJqRA :2006/09/07(木) 00:25:41
次に、近代文学史上での言文一致の流れをみたいが、ひとまず今回はこれまで。

322 :名無し物書き@推敲中?:2006/09/07(木) 22:59:29
このスレでまた始まるのか。素直にうれしいな。

323 :名無し物書き@推敲中?::2006/09/14(木) 11:47:50
当たり

324 :名無し物書き@推敲中?:2006/09/14(木) 16:13:13
どうでもいいよ。

325 :一受講生:2006/09/20(水) 09:47:25
ここではなく、ミクシィなどのソーシャルネットをご利用なさいませんか。
ご招待いたします。

326 :一受講生:2006/09/20(水) 09:57:19
>>322
もし引っ越しすることに決まりましたら、ご一緒しましょう。

327 :名無し物書き@推敲中?:2006/09/20(水) 13:15:04
町の自治会に情報部会というのがあって、各ご家庭にパソコンを無料貸し出しし、
今でいうソーシャルネットをやっていました。8年ほど前のことです。
お目付け役の女子大の先生が、なんでもご自身への匿名攻撃に憤慨で、原則
実名使用のこととなっていました。アドレスに地域名入っていましたし、いま考えると
オソロシイ。。。
以前は町のホームページからも入れたのですが、現在は消されています。

ミクシィですが、出会い系サイトと勘違いされている方が多そうです。詳しくは、
2ch内のソーシャルネット板へどうぞ…

328 : ◆YgQRHAJqRA :2006/09/22(金) 01:48:23
 [訂正] 漢字を用いた日本独自の表記法(音訓混淆)は、8世紀はじめの
『古事記』 が濫觴(らんしょう)でありました。
 >>319の<1500年>は、いかにも私の無知なる妄断から筆をすべらしたものです。
 なので、当該箇所は500年ばかし削り落としてお読みください。m(__)m


 ご好意まことにありがたく存じます。以前にも、ブログで書いてほしいとの
ご意見がありました。ミクシィもたいへん人気なようで、会員が500万人だとか、
最近株式を公開してストップ高だとか、なにやら景気のいい話は耳にしております。
私もそんなITの波に乗れればいいんだけど…。

 ただ、あるとき、私はネットのために時間を消尽するのは止めようと思い立って、
ネットの魅力的なコンテンツをずっと避けるようにしています。自分の意思の薄弱さ
はよくわかっているので、これは徹底しないといけません。もちろん、これはネットや
ネット社会を否定するという意味ではありません。
用があるときだけちょっと使う、2chくらいが私にはいいのです。

 そんなわけなので、申し訳ありませんが、またしばらくここで書かせてください。
私の長たらしい愚考拙文を読んで下さっている方には、まことに感謝しております。


329 :名無し物書き@推敲中?::2006/09/28(木) 11:45:19
no

330 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:36:40
 散髪廃刀、四民平等、開明の治政20年になんなんとして今だ旧態依然の言語観は
市中にはびこり、明治18年に意気軒昂たる坪内逍遥が筆鋒 『小説神髄』 は、西洋
写実主義に範をとり日本も負けじとこれに倣い追いつき追い越せ、和歌やら詩やら
古文やらにふける文学のごときは閑人のもてあそびにして学問に非ずとこれを卑しき
地位に貶めた福沢諭吉に目にもの見せてくれるためにも、小説は美術でなくてはならぬ。
さては洋装和魂の文士、キラリと一剣ひるがえし江戸戯作の流れをくむ勧善懲悪の益荒男
をバサリ、返す刀で娯楽滑稽に浮かれ転げるやじさんきたさん斬捨てて、もって今こそ
人情世態の写実に目を開くべしと近代小説への自覚を促せる。しかれども、文体において
逍遥は言文一致体の必要認めがたく、もっぱら雅俗折衷体(地の文を文語調で書き、
会話文は平俗な話し言葉で書く)の洗練に努めよと説き、自らもその実践として
小説 『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)を世に問えば、これなかなかの好評
を博して先生ご満悦の体。。
 来たる二年後の明治20年(1887)。露語に長け、ベリンスキーの小説論に学んだ
24才の青年、二葉亭四迷が創発 『浮雲』 現れて、とうとう言文一致体の曙光が文壇を
照らすとき、逍遥(にしても29才)は小説家としての道に挫折をする。
 後年、逍遥はこのように述懐している。
(こなれた口語体で書いているところに隔世の感がある)

331 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:39:18
 「――わるくおぼえ込んだ、下手な、だらしのない馬琴調まがいの七五体だけは、
どうしても脱けず、論をするにも、訳をするにも、作をするにも、その下手な、
我慢の出来ない、いやな七五調ばかりで書いていた。『小説神髄』の文体がそれ
であり、リットンの訳やスコットの訳がそれであり、『書生かたぎ』 その他の
戯作物の地の文がやっぱりそれであった。」
 「我れながら気障な文体だ、いやだなと思いながら、どうしても蝉脱〔せんだつ:
旧い習慣から脱け出すこと〕が出来ず、あれから後何年も、十何年の後までも、
ひどく苦しんだ。小説の筆を抛(ほう)ったのは、二葉亭の新作に驚かされて、
深く前非を自識したからでもあったが、一つは、到底、こんなたまらない様式では、
何を書いたとて物にはならぬと煩悶したからであった。」
 「今の人は、それは、たかが文章の形式上の事ぢゃないかというであろう。が、
明治十年台から二十年台の終へかけての文壇のストラッグル〔悪戦苦闘〕は、半ば
以上この形式上の問題に繋がっていたと言える。言文一致と呼んでいた、今の口語体
の前身の産苦なんぞは、それはそれは痛ましいものであった。」


332 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:40:45
 ある作家に心酔し、そのテクストを何度も読し、しまいには文体まで似てくる、
ということは珍しいことではない。言葉の習得とは、畢竟、反復と摸倣の業に他
ならないからだ。
 しかし、おのれの精神と言語を相即と考える者にとって、他者の文体とのあからさま
な酷似は、等閑にふすことのできない問題として葛藤を生む。逍遥が感じていたのは、
まさに文体=主体の、今様に言えばアイデンティティの喪失感であったろう。
その実感が、二葉亭の新しい文体に触れていよいよあらわに自分に迫ったのではないか。
これは、一人逍遥の懊悩ではなく、ある意味近代病ともいえる 「個」 の意識にはらまれる
懊悩であり、多くの作家が昔から、そして今も、「文体を持つ」 ことに苦しんでいる。

333 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:43:41
 二葉亭に先んじること一年前、山田美妙が 『風琴調一節』(ふうきんしらべのひとふし)
という小説で言文一致を試みている。けれども、これはどうも芳しくなかったようで、
美妙いわく、
 「世間の攻撃というのは非常で、当時の主なる学者や識者の白眼(にらみ)が、
ことごとく私の一身に蝟集(いしゅう)するのでありました。その攻撃の主要点はと
云えば、すべて 『俗だ』 『下品だ』 と云うのにあったのです。〔語尾の「だ」調が
とにかく不評だったため〕私は一工夫加えて 『です』 調を用いてみました。」

 この作は美妙の主要作から外れているので、単に文体だけの問題ではなかったのか
もしれないが、目を通せてないのでなんとも言えない。だが、すでに完成された表現形式
に沿うことこそ上品だ、美しいと信じる言論人がまだまだ幅を利かせていたらしいという
ことは窺がえる。

334 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:46:36
 『浮雲』 は明治20〜22年にかけて三篇が発表された。会話文は、人物の個性を
反映するかなりくだけた、ちょっと俗に過ぎるくらいの表現をとっている。
地の文は、さすがに今日の読者の目から見ると時代を感じさせ、一向読書欲を
そそらない文面と映ろう。

 現代では失われてなかなか共有することのできない明治の文物。ルビなしには
読みがたい漢字や当て字。ともすると韻文的な調子を帯びたり、事務的な感じに
なるため、現代の小説では避ける傾向にある体言止の多用。さらに、当時は文書記号
の用法も恣意的で一定しておらず、『浮雲』 初版本では会話文の終わりに閉じ( 」)
が施されてなかったり、句読点も――読みやすさのために打つなんて親切心とは無縁の
もので――第一篇には申しわけ程度にしか打たれていない。欧文のセミコロンを擬した
らしい 「白点」 などは、今では用いられない記号だ。
 と、なじみのなさを挙げればきりがない。『浮雲』が言文一致の試みであるしるしには、
「たり」 「なり」 「けり」 といった文語調の語尾、助詞・助動詞の類を排し、不安定
ながらも今日同様の 「る」 「た」 「だ」 の語尾を使用しているところにある。
このような文体は、当時として画期的なことであった。
 第一篇は、冒頭からして対象描写による本格的な写実への意気込みがみられる。次に示す
描写は、客観的写実性という意味では少し手並みがちがうが、『浮雲』 のなかでも異彩を
放って印象的な場面なので取り上げてみたい。
(振り仮名の煩雑さはご勘弁を)

335 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:48:54
 「庭の一隅に栽(うえ)込んだ十竿(とも)ばかりの繊竹(なよたけ)の葉を分けて出る
月のすずしさ 月夜見の神の力の測りなくて断雲一片の翳(かげ)だもない 蒼空(あおぞら)
一面にてりわたる清光素色(せいこうそしょく) ただ亭々皎々(ていていこうこう)として
雫も滴るばかり 初めは隣家の隔ての竹垣に遮られて庭を半ばより這初め 中頃は縁側へ
上(のぼ)ッて座舗(ざしき)へ這込み 稗蒔(ひえまき)の水に流れては金瀲艶(きんれんえん) 
簷馬(ふうりん)の玻璃(はり)に透りては玉玲瓏(ぎょくれいろう)、座賞の人に影を添えて
孤澄一穂(ことういっすい)の光を奪い 終(つい)に間(あわい)の壁へ這上る 涼風一陣
吹到る毎にませ籬(がき)によろぼい懸る夕顔の影法師が婆裟(ばさ)として舞い出し 
さわ百合(ゆり)の葉末にすがる露の珠(たま)が忽(たちま)ち蛍となッて飛び迷う、」

 〔補注:《稗蒔の水に――》青田に見立てた盆栽の水面に月光が波と崩れてきらきら輝き
  《簷馬の玻璃に――》月が風鈴のガラスに透るとその光と音は玉のごとく澄みわたり
  《座賞の人に――》月光は、座して景色を観賞している人の影をそこにつくり、灯火の
  わずかな光を無に等しくして  《さわ》たくさんの 〕

336 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:50:59
 月が庭のそこかしこにきらびやかな光―言葉をまきこぼしながら空を上っていく。
この動的描写はすばらしく、特に 「蛍」 につながる部分は、今でいうマジック
リアリズムにも通じよう。
 言文一致からはだいぶかけ離れた表現、というか上の筆致はほとんど散文詩であり、
まさに美術である。これはおそらく、逍遥の助言に答えたものだろう。逍遥は、二葉亭
が小説を執筆する際に、俗語ばかり用いず漢語や美文素も取り入れたほうがよかろうと
助言したのである。のちに回想(「余が言文一致の由来」)で書いているように、
二葉亭はこれに不満であった。だが、無名の若僧が小説を出版するには、逍遥(春の屋)
のネームバリューと推薦を必要としたのも事実である。


337 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:53:25
 二葉亭は、第三篇を書き終わった時点で、それ以上 『浮雲』 を書き進めること
ができなくなった。続きの構想はあったものの、文章をうまく書く自信がなくなり、
嫌気がさして作品を未完のまま放擲し、小説家であることからも身を引いてしまった
のである。図らずも 『浮雲』 は、やがて小説界を席巻することになる自然主義の
予兆的結構を呈している。つまり、アンチクライマックス―無解決性という断筆であった。

 二葉亭の文才は、むしろ翻訳のほうにほとばしったのかもしれない。明治21年に
発表された、ツルゲーネフの 『あいびき』 の翻訳文体は、現在私たちが読んでいる
小説文体にかなり近い。無論、二葉亭はこの訳にも言文一致で臨んでいる。
 ヨーロッパの小説は、基本的に過去形で書かれている。日本語は印欧語のような
はっきりした時制表現や文法をもたないが、二葉亭はこれに 「た」 形をあてて再現した。
原文の文体をなるべく忠実に日本語へ写すことを旨としていたため、「る」形の語尾を
無闇に交ぜるなんてことはしなかった。そうした書法が功を奏して、文体の緊張感、
安定感は 『浮雲』 の比ではない。なぜ自作の小説にこれを応用しなかったのか不思議
だが、あまりに先に行き過ぎた文体はきわもの扱いされてまともな評価を得ず、この点
でも自信を失うことになったのかもしれない。
 しかし、この 『あいびき』 は、のちの自然主義作家となる若者たち(独歩・花袋・藤村ら)
に少なくない衝撃を与えていたのであった。

338 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:55:33
 文体は大事だ。でも小説にはもうひとつ、欠かせない大事な要素がある。
そう、「語り」 である。
 『浮雲』 は、今でいう三人称小説として書かれているのだが、第二篇から三篇
にかけて作者の焦点は次第に主人公、内海文三の内面に当てられていき、そして語り
までが文三の 「内向性」 に同調してしまうと、「語り手」 と 「登場人物」 の
けじめがつかなくなって語りの相対性を失ってしまうのである。この第二編と三篇
を練り上げるのに、二葉亭はロシア文学、ドストエフスキーとガンチャロフを参考に
した。その影響が語りの面に強く表れてしまったのだろう。現に 「想の上においては
露国の小説家中ドストエフスキーが一番好きであった」 と彼は述べている。

 ロシアの作家というと、やはりトルストイよりもドストエフスキーが好きという人は多い。
あの一種独特の心理の彩に、日本人は乙女のようにのぼせてしまうのだ。すると、いかにも
カルシウムが不足しているらしい文三の激発性や、なんだかじめじめした性格も、なるほど
ロシアゆずりかしらと思うところがないではない。

 「語り」 については、またあとでまとめて考察することにして、話を進めよう。


339 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/01(日) 00:56:58
 といきたいけど、今回はここまで。


340 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/03(火) 18:35:59
>>330 洋装和魂→和魂洋才 と書くべきだった。

慣れない文体で書くもんじゃないなと思った秋の夜の(´・ω・`)ショボクレ

341 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2006/10/06(金) 21:18:12
やさしいね 陽のむらさきに透けて咲く 去年の秋を知らぬコスモス …俵万智



342 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/07(土) 21:43:44
最近忙しかったので全然来られなかったけど、やっと読めた。

続きを楽しみにしています。

343 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/17(火) 00:17:07
 [訂正] >>333美妙の言文一致の処女作は、非公売の同人誌「我楽多文庫」に
載せた『嘲戒小説天狗』(こっちが明治19年作)で、『風琴調一節』は明治20年
の作です。
 美妙が後者を19年作と勘違いしていたんだけど、そもそもミスったのは資料を
読み誤ってノートとっていた私のせいです orzメンボクナイ 
 文体の不評を買ったのは「伊良都女(いらつめ)」に発表した『風琴調一節』で
合ってると思います。年数は忘れても、批判の槍ぶすまに晒された作品を間違えたり
しないでしょう。

 なお、引用文は、仮名遣いや漢字などを適宜現代的表記に改めています。
今後も同様のものとご了察ください。

  お茶と両手に ため息ひとつ 秋は深まり

344 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/17(火) 00:21:06
 お茶と→お茶を

もうヤダ(T-T) 

345 :一受講生:2006/10/23(月) 23:02:56
【実は】本当の文学の評価教えます【つまらん】
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/bun/1160484750/

これは創作文芸板に立てられたスレッドです。
釣りか偶然かは、わかりません。

1 ペンギン ◆od0qY8Ss/. 2006/10/10(火) 21:52:30
川端康成『雪国』 ★
文章もストーリーも何もかも駄目。読むだけ時間の無駄。

フランツ・カフカ『変身』 ★
作品も作者の名前もとても有名だから、初めて読んだときは、そのあまりのつまらなさに
すぐに失望して読むのをやめた。でもこれは難解な小説ではなく、実はギャグとして
書かれたというエピソードを聞いて先日読んでみると、最後まで読み通せた。

宮本輝 『泥の河・蛍川』 ★
泥の河は冒頭、かなり悲惨な描写があって、そこは凄いと思った。
蛍川は最後がわかりにくい。(一説によればキスした2人に蛍がたかってるらしいが)
なんにしても方言が臭い。

346 :一受講生:2006/10/24(火) 00:05:04
個人の矮小な物差しで、「本当の評価」 とは…
2chを象徴する書き込みだと思います。

外は雨です。秋霖かな。

347 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/24(火) 00:45:11
放っておけばいいのでは。
個人の物差しの比較検討系は荒れる元になるし。

348 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/25(水) 22:35:13
 表現の暴走地帯でセーフティードライブを心がけましょうと訴えても、ひき逃げ逆走
自爆は2chの花と言わんばかりですからね。うまい人はやっぱりサーキットで走るわけ
で、「イニD」はやっぱりマンガなわけで、現実はこういう有様なわけで、えっと、
つまり、何の話をしてるんでしょう。

 とりあえず、クルージングモードで更新だ。

349 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/25(水) 22:37:53
 二葉亭四迷、山田美妙、他に嵯峨(さが)の屋おむろ などが牽引役となって
にわかに盛り上がりをみせた言文一致の小説も、二葉亭が去り、美妙の人気も
衰えると下火になってしまった。
 児童書の翻訳では、若松賤子(しずこ)が敬語による言文一致で 『小公子』(明23)
を著し、名訳と謳われた。そのなかで、「ませんかった」 という語尾を使用する
も、これは定着しなかった。
 ちなみに、「であります」 というのは軍人がよく使っていたもので、当時
軍隊には長州(山口)出身の者が多く、彼らの口癖(方言)が定着したもので
あるらしい。

 明治20年代、社会的には、急速な欧化政策への反発が一方であり、それが国粋主義
という形で現れはじめた時期でもあった。文壇では、井原西鶴〔さいかく:主著
『好色一代男』(天和2-1682)〕 が再評価され、それに倣った擬古典主義と呼ばれる
小説を生む。尾崎紅葉や幸田露伴、樋口一葉がその代表者で、特に紅葉は、硯友社
〔けんゆうしゃ:文学結社。「我楽多文庫」を発行〕 設立に共にたずさわった美妙が
他誌に流れ、硯友社を裏切ったことへの私憤もあり、言文一致体への対抗心に燃えていた。
 紅葉の出世作は、明治22年(1889)に発表した 『二人比丘尼 色懺悔』(ににんびくに
いろざんげ)である。紅葉はその序文にこう記している。

 「文章は在来の雅俗折衷おかしからず。言文一致このもしからずで。色々気を揉みぬいた末。
鳳(ほう)か鶏(けい)か――虎か猫か。我にも判断のならぬかかる一風異様の文体を創造せり。」


350 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/25(水) 22:39:37
 文体は一様に雅語を基調とした文語体であるが、句読点――といっても句点と
読点の区別なくすべて( 。)で打たれている――を文節の要所に多数打ち、その
描法のきびきびとした筆致は西鶴に学んだもとみられる。
 敗残となった武士の自害、そしてその妻と妻になるはずだった許婚が尼となって
出会ういきさつが語られるこの時代小説は、いかにも作り物めいた話で、「涙を
主眼とす」 と前置きしているように、紅葉の若気なるロマンチシズムに満ち、人物も
型にはまったというかわざとらしいくらいの劇画調で人間像に深みがない。近代
以後の文学観から見ればこのようにあしらわれてしまう内容であるが、構成と文体の
妙に助けられ、エンターテイメントとしては上々の出来映えを示している。
 これで人気を得た紅葉は、この年の末、帝国大学に在籍したまま読売新聞に入社、
同紙の看板作家として意欲的に作品を発表しまたたくスターダムにのし上がり、
面倒見のいい性格から多くの門弟(泉鏡花・徳田秋声が有名)を抱え紅葉山脈と称され
るまでになり、明治36年(1903)、35才で死去するまで文壇の重鎮的存在であった。

351 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/25(水) 22:41:19
 明治23年には森鴎外の 『舞姫』 が書かれ、一人称小説の開拓もはじまった。
 「わたくし」を主題とする小説は、必然的に自己の内面、生き方に文学的な価値
を見いだす契機を与える。やがてそれは、作家自身の 「告白」 という文学を受容
する土台を作り、性や心の問題に深く切り込んでいくことになるだろう。そのとき、
人称の形式がどうであれ、文体は口語体で語られるほうが有効であると気づく。
文語体の、書き言葉としての気取り方に、もはやリアリティを感じられなくなるのだ。

 ヨーロッパの近代小説に触れながら、その写実性に対する文語体の行き詰まりを
紅葉も感じていた。そして 『二人女房』(明25)でとうとう言文一致体に筆を染め、
「である」 調の作品をその後いくつか書くことになるのだが、明治30年に畢生の大作
となる 『金色夜叉』 に取りかかるときには、ルビと漢語のポリフォニック(重層的)
な表現を駆使した文語体を再び採用し、内容面でも前時代的な精神性を引きずった。
ある意味、それは読者にとって安心できる読物であり、そこに紅葉の限界があった
とも言える。

 時は20世紀に入り、紅葉の死とともに硯友社は解体され、かび臭い文学を真向から
否定し、革新すべく現れたのが自然主義であった。言文一致が発展するのもこの頃
からである。

352 : ◆YgQRHAJqRA :2006/10/25(水) 22:42:04
次回へつづく

353 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/26(木) 08:03:15
     )   ノハヽヽo∈ 
    ((   (‘。 ‘ 从 l |   おつかれさまです
    ゝ━(]ィ_[i^l:lr´_j⌒、-ィ
   (_=_)  (^ノハ!_!_ヽ/
  ζ   ζ     | |  /
 [[ ̄] [[ ̄]   し'し'

354 :吾輩は名無しである :2006/10/29(日) 11:02:15
発展する

355 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 00:56:33
  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ´∀`) < 寒くなってきましたね
 ( つ日と)  \_____
 と_)_)


356 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 00:59:54
 イノベーション(革新・新機軸)。安倍首相のこのスローガンは、昨今使い
すぎるとの批判もあるカタカナ語だったので横文字に弱い高齢社会の共感を呼ば
ない気味があったが、青年社会明治の文化革新の機運はおのずからに発し、もれ
なく俳壇にも起こった。

 正岡子規は、小説家を志していた。「月の都」 という小説の草稿を抱いて、
明治25年2月あこがれの露伴を訪う。が、無情にも露伴これを認めず、小説の夢は
あっけなく破れ果てる。やっぱり自分は俳人として一家を成そうと、前年より手が
けていた 「俳句分類」 の蘊蓄(うんちく)ひっさげ勇ましく、近時に瀰漫(びまん)する
俳風を、マンネリ化した 「月並」 と攻撃して俳句の革新に乗り出す。自然を
ありのままに描き新しい絵のモチーフを見つけだす、「写生」 という画法を
洋画家から聞いた子規はこれに触発され、俳句に写生を取り入れることを唱えた。
 虚子いわく 「今まで古人が詠じていなかったばった螽(ばった)とか、林檎とか、
蚕(かいこ)とかいう類のものも、写生的に俳句を作れば、面白い所の見出せる
ことが分かった。すなわち陳腐な材料には新しい境界が発見され、新奇なもの
には、異なった趣味が見出し得られた。そこで、写生は俳句の一大生命となった。」

 明治28年頃には、「空想」 よりも 「写実」 を重視する子規一派の写生俳句
が俳壇に確立された。明治31年に俳誌 「ホトトギス」を創刊すると、散文もその
写生論でやろうということになった。画家のように、「鉛筆と手帳」 をたずさえ
て写生文素を収集しに出かけたりした。病態が悪化してすでに床から起き上がれ
なくなっていた子規は、同人たちの写生文をよろこんで、これを勧めた。
 子規は 「叙事文」(明33)という論文でその方法をこう説いている。

357 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 01:01:51
 「文章は絵画の如く空間に精細なる能(あた)はざれども、多くの粗画を幾枚
となく時間的に連続せしむるはその長所なり。しかれども普通の実叙〔写生と同意〕的
叙事文はあまり長き時間を連続せしむるよりも、短き時間を一秒一分の小部分に切って
細かく写し、秒々分々に変化する有様を連続せしむるが利なるべし。」
 「文体は言文一致かまたはそれに近き文体が写実に適し居るなり。言文一致は
平易にして耳だたぬを主とす。」
 「言文一致の内に不調和なるむずかしき漢語を用いるは極めて悪し。」
 「写実に言葉の美を弄すれば写実の趣味を失うものと知るべし。」

358 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 01:03:57
 子規の論は文の冗漫を避けるための模範的な文章論である。描写の伸長を文学的
表現効果を持つものと考えるまでには至っていないが、描写が単に知覚上の克明な
叙述というだけでなく、「時間」 の性質を帯びることに言及している。これは、
俳句が事象の一瞬を切り取る文学であると早くから認識していた子規の鋭い洞察と
いえよう。時間を操作するテクニックは、このスレッドのなかでも紹介してきたので、
散文を時間の構造とみる子規の観点には十分得心がいくことと思う。
 さらに子規は、いたずらに言葉を飾り立てることに対して、強く戒めている。
 >>335 の例のように、それは虚飾的な美観であり、写生の目指すところとは逆のもの
である。難解美麗を競うことだけが文学ではない。俳句は、ことに芭蕉のあの有名すぎる
古池の句は、その神髄を示しているといえよう。


359 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 01:08:19
 明治34年(1901)、言文一致会の機関誌で幸徳秋水〔こうとく しゅうすい:
無政府主義を標榜し、天皇暗殺を企てた「大逆事件」の首謀者として明治43年逮捕。
翌年処刑される〕は、新聞の文章を言文一致に変えるよう提唱している。

 「今日程文体の多種に渉(わた)って乱雑な時代は少ない」
 「一枚の新聞を総て読み得ようとすれば漢文にも和文にも洋文直訳体にも雅俗折衷体
にも盡(ことごと)く通じていなければならぬ、随分厄介な話しではないか」
 「各新聞紙ともに最早時勢の必要に馳られて多く言文一致を用ゆる傾向があるは賀す
べきである」 が、「やむを得ずというのでなくて、むしろ我より進んで可及的速やかに
言文一致を採用する」 べきだと述べ、「全国の文体統一の期を早め」 「多数に知らせ
多数を動かし多数を教ゆる目的にためには」 まず軟派な三面記事からでも言文一致体に
し、「次いで徐々に全紙面を挙げてかく改めんことを希望するのである。」

 さまざまなメディア媒体が肩を並べる現代とちがって、この時代の新聞紙面の価値は、
テレビ欄や折込チラシに負けないものであったはずだ。有名紙の文章ともなれば、その
波及効果は学校教育に劣らずテキメンであろう。言文一致を推進させる論としてこれは
的を射たものである。
 抜粋した文には、「用ゆる」 や 「改めん」 といった動詞の活用に文語の影はちらちら
と見えるけれども、さすがにこの頃になると、『浮雲』 のような試行錯誤的な文体のぎこ
ちなさからは脱している。言文一致は文芸的にも十分使えるレベルに達して、小説も漸次
書かれているのだが、文語体もがんばって簡単にはシェアを明け渡さない。その理由を、
島村抱月〔ほうげつ:「早稲田文学」の論客。自然主義勃興に大きな役割を果たす〕は
「言文一致の三難」(明35)と題して次のように言う。

360 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 01:09:22

 「第一、言文一致は野卑である」
 「第二、言文一致はだらだらとして締りがない」
 「第三、言文一致は含蓄の味に乏しい」
 「この三大欠点を補うの修辞的工風が、在来の文章よりも遙かに困難である」


361 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 01:11:50
 野卑とか締りがないとかいうことの一部は、今日でも俗談的口語体に対して向け
られる非難かもしれない。内容や場所に応じて適切な文体を選ぶべきは言うまでも
ないことだが、小説の場合、その 「野卑」 や 「だらだら」 は別の一面から見て
表現上の迫力となったりある種の心理を描出するのにうってつけであったりして、
それを文章の含蓄と呼べない、とは言えない。「修辞」自体、西洋から輸入された
ものであることを考えると、口語だから特別修辞が難しくなるということもないだ
ろう。仮にもっと広い意味で、その修辞を美辞と捉えるとしても、そもそもそれは
言文一致の土俵で取るべき相撲でないことは、子規が教えているとおりのところである。
 では、言文一致に対する批判の本質はどこにあるのか。それは、書き言葉としての
「威厳を欠いでいるから」 この一言にほとんど尽きているのではないか。
 長い間、日本のインテリの文芸といえば漢詩・漢文をものすることであった。女子供や
平凡人でもスラスラ読めるようなものは程度が低い。そんな風に考えるインテリかぶれ
はいつでもいるものだし、役所と役人が最後まで文語体を使っていたということは、
なるほどその余喘(よぜん)を保つ場所としては最適であったのだ。
 
 ともあれ、抱月は、この 「威厳」 ばかりはどうにもならないので、「社会と年月との
協力に待つ」 しかあるまいと現状の解決を保留し、その代わり、言文一致は 「赤裸々
の思想の美で、これを補い、これを圧倒」 する。そして、「大文豪出でて、言文一致
の大文学を盛んに出だした後に至り、始めて言文一致の語句も文学的背景あり趣致ある
ものとなるのである。」 と。


362 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/21(火) 01:12:56
筆がのろくてなかなか進みませんけど、つづく。

363 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2006/11/22(水) 08:14:21
                    \ おつかれさま〜! /
|
|        ⌒)              /\_,ヘ,   
|          ``)    ズサー !    ☆ノハヽ
|          `)⌒`)           从‘ 。‘)   草枕や虞美人草が浮かんできます
|         ≡≡≡;;;⌒`)≡≡≡ と⌒  ⊇ ⊃ 


|
|    ,ヘ_/\     トテテテテ・・・
|   ノハヽ☆ 三
|   (‘ 。‘从二  ≡
|    ⊂⊂ ヽ 三 =  =
|     `@@ ー 二


|
|  サッ
|彡
|
|
|

364 :名無し物書き@推敲中?:2006/11/22(水) 19:36:40
更新キター

365 : ◆YgQRHAJqRA :2006/11/24(金) 22:08:51
旧千円札の人も、もうすぐ出てくるけどね。
残念なことに抱月の言う大文豪は、「猫」の中の人じゃなかったんだ。
明治の文壇は、この抱月の期待より四年後に、大転換するんだね。
その話しはまた次回。

366 :名無し物書き@推敲中?::2006/12/03(日) 11:22:35
as

367 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2006/12/09(土) 08:17:30
おはようございます。

ずっと正座していましたので、そろそろ足がしびれてきました。。。
初期の漱石さんの、「俳句をつなげたような文体」 には、本文とうしろの注解、
双方にしおりを挟んで行ったり来たり、「読書は運動だ」 を実感させられます。
でも、「おみくじを引くように、ぱっと開けて、開いたところを、漫然と読んでる
のが面白いんです」

>>363のあと、藤村の『破戒』を読みました。それから、抱月といえば須磨子、
須磨子といえば…… 
久しぶりに『復活』を開いています。

368 : ◆YgQRHAJqRA :2006/12/10(日) 19:06:42
しっかり読んでおられますね。
いやはや運動不足な私としては見習いところです。読み返すのメンドクテ・・・

最近、ゴムをビヨーンビヨーンてやるやつを買って、プチ筋トレなどをしま
したら、大胸筋とか二の腕が・・・イテテであります(´・ω・`)
なので次の更新は遅れるかも、というのは冗談だけど、年内ギリギリになり
そうな予感も。

   ああ年の瀬くりくりかえすデジャヴかな

369 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2006/12/14(木) 01:38:16
こんばんは。

パートさんのお話。
女って、一度はおなかをふくらませて痛い思いしていますから、
ダンナのぐうたら脂肪太りには、プチ腹が立つそうな。
独身ならなおさら、読者の空想を破壊しないためにも、筋トレ、
がんばってくださいませ。
私のほうは、いまだに会社勤めで、エロかっこいいエロかわいい後輩たちを
こき使… 指導するのに忙しい毎日です。
書くのはパソコンとの無制限にらめっこですから、じりじり後ずさり
して読書のふり。

  ああ年の暮れ柱時計のおちこちす  返歌 从^ 。^从

今日も1日おつかれさまでした おやすみなさい

370 : ◆YgQRHAJqRA :2006/12/27(水) 10:57:30
どんな想像をされているのかしらんw
幸いにして要メタボリック対策な体型ではないので、ご安心ください?

今年は暖冬のようですね。
「地球温暖化」 はもう挨拶のようです。そこで一句。
 ―温暖化対策― 
  小さなことからコツコツと きょうも自転車 無灯火だ

すみません。いまから一生懸命書きます。

371 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2006/12/30(土) 21:30:16
こんばんは。

今日からお正月休みに入りました。
こちらも暖冬で、帰省する予定のない時に限って、雪も氷もありません。
私も温暖化対策ということで、

小さなことからコツコツとって 紅白歌合戦さえぎり その目配せは何

とりあえず、ゆっくり眠りたい。。。

372 :名無し物書き@推敲中?::2006/12/31(日) 12:39:01
wt

373 : ◆YgQRHAJqRA :2006/12/31(日) 20:08:52
文体明治編、完結は明年に持ち越しとあいなりました。
案配する材料が多くて難儀しておりします。
冬晴れの温い日が多いですが、心境はこの句がぴったりかな。

  降る雪や明治は遠くなりにけり 中村 草田男


一年お疲れ様です。ゆっくりお休みください。
寡黙な372さんもありがとう。
ではまた来年お会いしましょう。

374 :平野啓一郎:2007/01/01(月) 13:19:39
俺の小説を読め!!
http://www.google.com/search?hl=ja&rls=ADBS%2CADBS%3A2006-49%2CADBS%3Aja&q=%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%80%80&lr=

375 :名無し物書き@推敲中?::2007/01/13(土) 12:38:55
1

376 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 01:58:22
全部書き上げてから更新しようと思っていたのですが、細かいところをちょこちょこ
いじっているとなかなか前に進まないし、きりがないし、あんまり間が開くのも
なんですので、途中までだけど続きをUPします。

明治後半から大正は、日本文学の一番華やかな時代であったと言えるでしょう。
私のへっぽこな筆でこの時代の沸騰を十全に描き出すことなどは容易ならざる
ことでありまして、立派な講義はどこぞの文学博士にまかせましょう。

文体のことはけっこういい加減な感じになっていたりします。

377 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 01:59:10
 日本の自然主義は明治30年代半ばのゾライズムに恥じまる。これは前期自然主義とも
呼ばれ、小杉天外・永井荷風・田山花袋・国木田独歩・島崎藤村などの作品が含まれる。
その要点は、概ね次のようなものである。

378 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:00:28
 自然主義文学の一つの典型がフロオベエルの 「ボヴァリイ夫人」 であることは
今更いうを用いない。どのような意味でそうなるのか。ゾラによれば、三つの点に
おいて「ボヴァリイ夫人」 はバルザックの巨大な作品群中に散在した近代小説の
要約であるという。近代小説の第一の性格は、ロマネスクな要素を排除した生活の
正確な再現である。これにくらべればバルザックの諸大作もなお、物語の趣味から
脱しない。第二に小説が平凡な生活の描写をするようになると、大型な人物がなく
なり、人物は現実に即応するように小型になる。バルザックは大型だが、「ボヴァ
リイ夫人」 はそうでない。第三に、自然主義作家は作品の背後に完全に身をかくす。
作家はモラリストでなくなり、人間の屍体の中に見るものを記述する解剖家となる。
これは小説を変貌させた新しい手法であるが、この点 「ボヴァリイ夫人」 はその
ような好標本である。
 以上のように要約したゾラは、以後の作家はこの小説のきりひらいた道を、追うべき
であるとしたのである。
『自然主義の研究』 吉田精一


379 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:03:13
 現実を直視し、ロマンチックな趣味を排する点で、自然主義は写実主義の延長に
ある。なかでも科学的自然主義をうち立てようとしたゾラが、その冷徹な筆致から
「メスの先で書いた」 とも評された 『ボヴァリー夫人』 を見逃すはずはなかった。
当のフローベールは、なにかの主義のために 『ボヴァリー夫人』 を書いたわけで
はなく、自分が自然主義の立役者のような扱いをされているのに憤慨していた。
 しかし、そんなことは問題ではないのだ。批評は、往々にして作者の思惑を度外視
する。小林秀雄の言を借りれば、それは、「己れの夢を語ること」 に他ならない。
日本でそのもっとも強力な夢を語ったのが、島村抱月を中心とした 「早稲田文学」
であり田山花袋(たやま かたい)である。

 日本の文学史的に自然主義と言う場合、明治40年前後の展開を指す。本格的に
「自然主義」 の名称をかかげて起きた40年代のムーブメントは、フランス自然主義
の単なる着せかえでない、日本独特の自然主義文学を生んだ。30年代のゾライズムは
その前哨である。

380 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:05:21
 明治34年(1901)、田山花袋は 『野の花』 の序文にて自然主義的考えを表明する。

 「今の文壇は余りに色気沢山ではあるまいか。一方にはロオマンチシズムの幽霊
のようなのがあれば、一方には不自然極まる妖怪談のようなのがある。一方には当込
沢山の、色気たっぷりの作品があれば、他方には写実を旗幟(きし)にしてそして
心理の描写をすら怠って居る一派がある。」

 一時は硯友社の末席にいてなじめず離脱した花袋は、暗に紅葉率いる硯友社一派を
批判して、明治の文壇はもっとモーパッサンやフローベールに学ぶべきだとし、
「人生の秘密でも、悪魔の私語でも、勝手次第に描くようになって欲しい。」
と志の高いところを述べる。
 ところが、自身の実作(『野の花』)はなんともめそめそした恋愛話で、

 「あゝあれが西丘、あれが松原、あれが三角渡……、もう恋しい故郷は見えなく
なって了った。/ああ夢!」

 とつまらない詠嘆を入れてみたり、

 「隣の娘が横からあのような烈しい恋を為懸(しか)けなかったならば、自分
は染子の神聖の愛を十分に受ける事が出来たであろうに、二人から恋せられた為
に自分は二人のどちらの恋をも得ることが出来なかった。悲しいのは運命!」

 などと絶句してしまうあたり、無自覚なロマンチシズムに毒されているのは
花袋のほうであり、彼の考える文学と実践にはまだ大きな隔たりがあった。

381 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:07:00
 直接ゾラに感化された小杉天外も、『はやり唄』(明35)の序文で自然主義の宣する。

 「自然は自然である、善でもない、悪でもない、美でない、醜でもない、ただ或
時代の、或国の、或人が自然の一角を捉えて、勝手に善悪美醜の名を付けるのだ。」
 「小説また想界の自然である。」
 「詩人またその空想を描写するに臨んでは、その間に一毫(いちごう)の私をも
加えてはならぬのだ。」

 しかし天外は文学者としてその道を貫くことができなかった。胃病悪化のせいで
『金色夜叉』 の執筆が進まず、またかねてより折り合いの悪かった読売新聞を紅葉
が辞めると、その後釜に座ったのが天外であった。新連載の 『魔風恋風』 のヒット
は、天外に思わぬ人気作家の地位をもたらした。どうかしてこの人気を保ちたいとい
う欲心のゆえか、天外はやがて通俗作家となって文学から離れていった。

382 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:08:06
 同じ頃、永井荷風もまたゾラに傾倒していた。その影響の下に 『野心』(明35)、
『地獄の花』(明35)などを著す。
 明治36年、数え年二十五歳の荷風は、息子の立身出世を願う父親の意向により
単身アメリカへ留学する。だが荷風は、厳格な父親に反抗するように、異国の地
で文学と愛欲のデカダンスに溺れ、そして憧憬していたフランスに赴いてまもなく、
父親の斡旋した銀行を勝手に辞職し、自由な文学生活を望んだ。
 この体たらく。父親は放埓な息子に帰国を命じ、荷風はパリを去ることとなった。
 明治41年の春である。

 「自分はバイロンの如く祖国の山河を罵って一度(ひとたび)は勇ましく異郷に
旅立ちはしたものの、生活という単純な問題、金銭と云う俗な煩いの為に、迷った
犬のように、すごすご、おめおめ、旧(もと)の古巣に帰って行かねばならぬ。
ああなんと云う意気地のない身の上であろう。」(「巴里のわかれ」)


383 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:10:29
 島崎藤村は詩人としてすでに名を売っていたが、いくら作っても実入りのない詩に
見切りをつけて、まともな報酬の見込める小説家への転身を図った。
 明治35年にまず 『旧主人』 を発表するも姦通を題材としてため発禁となり、これを
載せた 「新小説」 は回収処分となった。当時、性関係をあからさまに書いたものは
公序良俗を糜爛(びらん)させるとして公売を許されなたっかのである。
 「性」 は、人間の本性をえぐり出さんとする文学の社会に対する挑戦的テーマであり、
旧道徳への芸術的カウンターパンチであった。今のように、なにかというとちんこやら
まんこやらをむき出しにする、安っぽいエロティシズムを大売出しできるほど社会は性に
寛容ではなかったのである。検閲に引っかからないように書くことも、作家の技量のひとつ
であったろう。
 明治37年には 『水彩画家』を発表した。結婚前に別の恋人に書いた妻の手紙を発見し、
夫の画家が嫉妬に狂うという話だが、いいようにデフォルメションされたモデルの画家、
丸山晩霞(ばんか)は怒り心頭で藤村に抗議し、小説の 「モデル問題」 が取り沙汰さ
れるに至った。

 藤村の創作手法は、のちに 「私小説」 と呼ばれるものの走りであった。自分とその
身辺の人間関係に材をとり、それをほとんどそのまま写し取って小説に仕立てる。
語り手、主人公は作者その人であり、そこにありのままの自己(人間)の真実(リアリズム)
を実現する。これは日本的自然主義の基本スタイルともなってゆく。
 「告白」 「懺悔」 「自意識」 といった言葉に代表される、作者と小説を一体化
させる自伝的創作手法は、しかしまだこの時点では不完全なものであった。藤村はモデル
を形代(かたしろ)にして自己投影を試みたため、作者の都合でいちじるしく晩霞の
人格を毀損し非難を浴びることとなった。
 こうした習作の曲折を経て、藤村はいよいよ乾坤一擲の長編小説 『破戒』 の執筆にとりかかる。

384 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:11:57
 明治37年2月、自然主義の考えをさらに深めていた花袋が文壇に投じた 『露骨なる描写』
は、旧文人勢力への過激な宣戦布告であった。

 「文士がいずれも文章に苦心し、文体に煩悶した結果、果ては篁村(こうそん)調とか、
紅葉調とか、露伴調とか、鴎外調とかいう、一種特別な形式に陥り、自ら自己の筆を束縛
して、新しき思想を有しながら、しかしその一端をもその筆に上すこと能わず、空しく
文章の奴隷となっている者の多いのを見もし、試験もして、少なからず遺憾に思った」
花袋は、紅葉・露伴・逍遥・鴎外にみられるわざとらしい技巧に過ぎた作品を、時代はずれ
のメッキ小説と軽侮する。

385 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:13:53
 「今の技巧論者は想に伴わざる文章を作り、心にもあらざる虚偽を紙上に連ねて、
以ってこれ大文章なり、美文なりと言おうとして居るようである。」
 「美術鑑賞家、この人たちの言うところに従えば文章はあくまでも綺麗でなければ
ならぬ。思想はあくまでも審美学の示す処に従わねばならぬ。自然を自然のまま書く
ことは甚だしき誤謬で、いかなる事でも理想化すなわち鍍(めっき)せずに書いては
ならぬというのである。」
 「けれどいわゆる技巧時代には、天衣無縫、雲の行き水の留るがごとき自然の趣を
備えたる渾円(こんえん)たる製作品を得ることが出来たか」
 「拙なかろうが、旨(うま)かろうが、自分の思ったことを書きえたと信じ得られさえ
すれば、それで文章の能事は立派に終るのである。何も難しい字句を連ねたり、色彩
ある文字を集めたりして、懊悩煩悶するには少しも当らぬ。」
 例えばダヌンチオなどを読んで、「文章の技巧のみを見て、さすがは文章家だと喜ぶ
人もあるかも知れぬが、自分の見るところは全くこれと観察を異にしている。ダヌンチオ
の書を読んで、痛切なるあるものを感ずるのは、決してその文章が巧妙であるからばかり
でなく、その描写があくまでも大胆に、あくまでも露骨に、あくまでも忌む所がない
からである。」
 「自分の考では、この露骨なる描写、大胆なる描写――即ち技巧論者が見て以って
粗笨(そほん)なり、支離滅裂なりとするところのものは、かえってわが文壇の進歩でも
あり、また生命でもあるので、これを悪いという批評家はよほど時代おくれであはあるまいか」

386 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:14:52
 このセンセーショナルな論考は、花袋一人だけが胸に懐いていたような珍論妄言
ともいえない。文壇の足踏み的状況を打開しようとする自然主義の土壌は、「竜土会」
のメンバーである花袋・独歩・藤村・泡鳴・白鳥らのなかで確実に醸成されていた
のである。
 この同じ月、日露戦争が勃発した。

387 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:16:43
 花袋は従軍記者として明治37年3月東京を発ち、戦地の遼東半島に赴いた。
およそ半年間の従軍生活で、花袋は戦争というものの現実を目のあたりにする。

 「数多の死屍(しがい)は或は伏し或は仰向になりつつ横(よこたわ)って居るのを
見ては、戦争そのものの罪悪を認識せずにはどうしても居られぬ。ことに、砲弾に斃れ
たるものの惨状は一層見るに忍びんので、或は頭脳骨を粉砕せられ、或は頷骨(がんこつ
:あごの骨)を奪い去られ、或は腸(はらわた)を潰裂(かいれつ)せしめ、或は胸部
を貫通する等、一つとして悲惨の極を呈しておらぬは無い。」 (「第二軍従軍日記」)

 このような戦場で、一個一個の死様に慟哭していては精神がもたない。死の尊厳
などと言ってみたところで、強暴な物理力は人間をやさしく殺してはくれない。そこに
あるおびただしい惨劇は景色である。そばでは菖蒲(あやめ)が紫の花をみごとに咲かせ
ていた。同行の記者と、この自然の取り合わせの妙を語った。
 「実際、戦争そのものより、この戦後の悲惨なる光景がはなはだしく自分らの不健全
なる頭脳を狂わしめた」(同上)

 この戦場体験が花袋の文学的転機となった。彼のなかのロマンチックな夢の色は褪せ、
傍観者的な態度を養うこととなった。

388 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:18:14
 自然主義的文学観は文体の上にも反映される。客観描写の重視から対象を歪曲する
よけいな文飾は排除され、センテンスは短く、難解な漢語表現を控える文章へと傾いた。
なにより自然体であるためには、言文一致の平易簡明の趣が必要であった。心理描写に
おいても、言文一致体のほうが文語体より表現の柔軟性で優れていた。加えて、傍観的
視点をもつ過去形、「た」 の助動詞の働きを得たことが大きい。「た」 形の文体が
語り手の直接性を薄めるのである。20年代初期、二葉亭が試みて冷評された 『あいびき』
の文体が、ここにきて小説文体の主流になりはじめるのである。

 一方、明治37年以降、学校教育では国語の教科書に丁寧体の 「です」、普通体の 「である」
の文章が採用されはじめる。また、「言文一致」 や 「俗語」 は 「口語」 という名称
に改められ、言文一致の流れは実用的な普及体制に入っていくが、学術関係などのお堅い
分野では依然として文語が好まれて使用された。

389 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:22:50
 明治38年に長谷川天渓(てんけい)が発表した 「自然と不自然」 は、自然主義の
自然さがいかなるものであるかについて言及した評論である。のちに(日本的)自然主義
の推進者となる天渓は、ここでは在来の自然主義に批判的に対している。

 「小説とは、ただ客観の模倣なり、性格の分解なり、行為の原因探求なり、一の生理史なり。」
 「善人となるも、悪人となるも、多淫となるも、落魄(らくはく)するも、これ命数〔変え
ようのない運命〕のみ、人は自由意志によりて行動するが如きも、実は遺伝性によりて束縛せら
れたるものなり、小説家たるものは、すべからくこの微細の経路を観察してそのままこれを描写
せざるべからずとは、ゾラ一派の叫びたる論旨なり。」

 こう自然主義を措定して、しかし現実をして不自然な、奇態なことは決して皆無ではないわけで、
科学の観察にもおのずから限界がある。

 「されどかの如く現実世界と、その因果律とに束縛せられなば、創造を以って生命とする文学は
死滅すべし。」 「創造の力によりて表現するは、小説家本来の面目なりと言うべし。」 「血あり、
肉ある人物を現すこと、これ作家の努べき要点なり。」

 と科学偏重の自然観(言うなればゾライズム)を批判。ちょっとややこしいが、ここに40年代の
自然主義から見た30年代の、つまり前期自然主義の否定がすでに内包されている。文芸上の自然の
眼目とは、常識はずれな事柄の排除にあるのではない。

 例えば、「『罪と罰』 のラスコルニコフを見よ。殺人は罪悪にあらずとの理由を前提として、
高利貸しの老婆を殺したる彼れは、現実世界には容易に認めがたき人物なり。然れども読者は、
彼れの一挙一動は頗(すこぶ)る自然なりと観ず。自然なりと観ずるが故に、これに無限の
趣味を発見するのあらずや。生命ある人物を表現せずして、どこにか小説の価値ある。」
 「想像によりて創作する場合も、現実より材料を獲たる場合も、共に心理の自然変化、即ち
原因結果の必然的関係を詳密に表現するにあらずんば、人物は悉く死相を以って表わるべし。」

390 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:23:35
 作中、人物の性質や心理の変化を顧慮せず、例えば貧乏人は決まって盗みをする、蛙の子は蛙
というような一種マニュアル化した人物の行動様式こそ、小説の不自然さにつながると。
 時代を超えて傾聴すべき言であるが、この生命ある人物を造形するというのは、はたして簡単
なことではない。このとき雌伏していた花袋や藤村は、ドストエフスキーのような想像力や文才
に恵まれた作家ではなかった。彼らが、唯一生々しい人物を描けるとすれば、それは 「自分」 以外
になかったのだとも言える。


391 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:25:16
 子規亡き(明35)あと、「ホトトギス」 を継いだのは高浜虚子であったが、子規の
俳句革新運動をさらに進め、俳句界の頭領となったのは河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)
であった。二人は同じ子規門の古い友人であった。しかし無季・破調の形式にとらわれ
ない進歩的な碧梧桐と、季語と十七文字の形式に俳句の独自性をみていた虚子では、
その行き方に相容れないものが合った。そして明治の俳句愛好者は、多く碧梧桐の
新しさを求めた。
 虚子は俳句より写生文に力を入れだした。子規と同じくもともと小説の志を持って
いたのである。「ホトトギス」 は俳誌というより文芸雑誌になっていった。

 明治36年、夏目漱石が留学地ロンドンより戻る。高校と大学で英文学の講師の職に
ついたが、一高では漱石の分析的な講義は人気がなく、不勉強な学生につくづくガッカリ
もし、不愉快にもなり、さらに追い打ちをかけるように教え子が投身自殺するなどして
神経衰弱がひどくなり、一時妻と別居状態にすらなった。

 明治37年、子規の朋友で長年ホトトギスに文章を寄稿していた漱石に、子規は小説を
書いてみないかと言った。

392 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:26:42
 発狂のうわささえ流れたロンドンでの不愉快な二年間、そこでひたすらに打ち込
んだ文学研究の蘊奥(うんおう)は、小説という自由な筆法のなかに出口を見出し、
この表現行為は漱石の精神を愉快ならしめた。
 この年の暮れ、それは短い読みきりの小説として書かれ、ホトトギス同人たちの前
で朗読されると、大いにウケた。今までにない変な小説であった。掲載が決まり、
タイトルをどうするかあれこれ思案されたが、結局書き出しの文句がキャッチーなので
それをそのままタイトルに据えることとなった。
 明治38年1月、「ホトトギス」 新年号に発表された 『吾輩は猫である』 は、たちまち
多くの読者を魅了し、はては 「吾輩もの」 と称される模倣品・パロディさえ生んだ。
百年たった今でも 『吾輩は主婦である』 なんてTVドラマが作られているのだから、
いやはや 「吾輩」 おそるべしである。
 これを皮切りにして、漱石のわずか十年余りの作家人生がスタートする。倦むことを知らぬ
筆は、連載化の決まった 「猫」 の続編、小品の短編小説、評論等を矢継ぎ早に発表。
その文名は弥増(いやま)しに高まり、一年のうちに作家漱石の地位は不動のものとなった。

393 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:28:16
 明治39年、発売前から大きな期待がかけられていた 『破戒』 が3月に自費出版されると、
初版1500部は即完売、すぐに1500部を増刷し三ヶ月で四版を重ねた。当時の小説市場で
これは大ヒットであった。
 教師の職を捨て、ただ 『破戒』 完成のために費やした藤村の二年は、一応報われた
かたちにはなった。だが、窮乏した生活のなか幼い娘三人を亡くし妻は栄養失調になるなど、
かくも芸術は非情なるかなという、他人事にも家族の不憫さが思いやられる。藤村は、
なにかとその人生態度、創作態度を問題にされる作家である。


 『破戒』 は、いわゆる部落差別を描いた作品である。
 「穢多」 「非人」 は近世封建社会が生み出した身分階級(士農工商のさらに
下の身分)で、一般民との婚姻を許されず、その居住区は部落として隔離された
ため近親婚が多く、彼らは汚らわしい人種として嫌悪されることが社会的常態と
なっていた。部落民は、幕府の民衆分裂政策の犠牲者であった。
 明治維新によってそうした身分制度や差別的呼称は廃止されることになったが、
現実には四民平等のなかに部落民は、文字通り抜け落ちた存在であったのである。
穢多・非人は事実上 「新平民」 と口当たりのいい蔑称に替えられただけであった。
均質な国民(労働者)をつくるため社会制度を新しく変えても、家柄―身分という
人々の古い社会意識は頑固に保持されたままであった。
 部落民による自主的な解放運動が始まったのは明治30年代半ばからである。
『破戒』 が書かれた背景には、こうした社会状勢も手伝っていただろう。

394 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:31:39
 部落出身の青年教師、瀬川丑松(うしまつ)をとおして近代の理想と地方の閉鎖性が
衝突し、その素性が知られれば教師を続けることも土地に留まることもできず、ついに
主人公のテキサス行きという、言うなれば丑松の敗走(追放)によってこの小説は
幕を閉じる。
 偏見と差別と教育心のかけらもない俗物の校長があるかぎり、丑松の居場所はない。
親友銀之助の友情やお志保の愛も、なぐさめ以上の力をもたない。万事解決の大団円、
勧善懲悪の予定調和。然(しか)あらず、因習の愚劣さが勝って才徳ある嘱目すべき
青年が失われる。残ったのは社会の不条理であった。

 社会小説としての意義は十分買えるが、主人公の行動や思想に底の浅いところがある
のも事実だ。よく指摘されるところでは、丑松が生徒の前で自分が穢多であることを
告白し、教室の床にひざまずいて 「許して下さい」 と謝る場面。素性を 「隠せ」という
父の遺言――「戒」 を破るこの小説最大の見せ場は、動機のかみ合わない、とってつけ
たようなところがある。安易な感激がある。

395 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:34:54
 「自分はそれを隠蔽(かく)そう隠蔽そうとして、持って生まれた自然の性質を
消磨(すりへら)していたのだ。そのために一時も自分を忘れることが出来なかった
のだ。思えば今までの生涯は虚偽(いつわり)の生涯であった。自分で自分を欺(あざむ)
いていた。ああ――何を思い、何を煩う。『我は穢多なり』 と男らしく社会に告白
するが好いではないか。」

 と、人間としての自尊心を取り戻した丑松の内的経路を無視して、どうして最後、
教室でのあのような卑屈な懺悔に筆を濡らすのか。>>389で天渓が示した、不自然の
失敗例がまさにこれである。
 藤村はこの差別問題に真剣な批判を加える思想性よりも、主情的な精神性に重きを
おいている。『破戒』 の主題は、近代的自我に目覚めた丑松の、その心理の葛藤劇に
あるのだ。部落民という烙印は、その葛藤をもっともビビッドに描くための有効な
材料ではあっても、藤村自身の 「生きた問題」 ではなかった。自然主義作家たちが、
多く 「家」 を対立軸にしたのは、それが個人主義と国家主義の間にあり、近代化する
日本社会のひずみの中心点でもあったからだろう。「家族」 の、長い崩壊のドラマは
すでに始まっていたのである。
 また、発表当初から、小説の構造が 『罪と罰』 に類似していることが天渓によって
指摘されている。藤村が英訳の 『罪と罰』 を読み込んでいたことも明らかになって
いるので、人物関係や筋を参考にしたことは確かだろう。

396 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:36:36
 漱石は、教え子の森田草平宛の私信で 『破戒』を

 「第一に気に入ったのは文章であります。普通の小説家のように人工的なよけいな
細工がない。そして真面目にすらすら、すたすた書いてあるところがすこぶるよろしい。
いわゆる大家の文辞のように装飾だくさんでないから愉快だ。それから気に入ったのは
事柄が真面目で、人生というものに触れていて、いたずらな脂粉の気がない。」
 「軽薄なものばかり読んで小説だと思っている社会にこんな真面目名なのが出現
するのははなはだうれしいことと思う。」
 「破戒読了。明治の小説として後世に伝うべき名編なり。金色夜叉のごときは二三十年
の後は忘れられてしかるべきものなり。破戒はしからず。僕多く小説を読まず。しかし
明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思う。」

 と評しほめちぎっている。小川未明が、

 「内容の乏しきにかかわらず、だらだらとして日記体に書かれていて引締まった
ところがない。従って期していたほど、深刻の印銘を読者に与うることの出来なかった
のを惜しむ。あっさりとした筆付は、読んで飽かすことのないかわり、人を魅する
魔力も見えない。」

 と合評で文章に手厳しくダメだししているのとは対照的である。逆に、「どことなく
醒めて、冷たく」 「あくまで批評的に距離を隔てて眺めているようだ。」 そう
はっきりと未明に言わせるほど、自然主義的な文体に接近していたということでもあろう。

397 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:38:19
 明治38年9月、イギリス・ドイツ留学から帰ってきた島村抱月は、日本の文学思潮の
立ち遅れを実感し、批評の側から文壇に小説の新しい方向性を示し促そうと考えた。
 もちろん西洋全体と東洋の島国では小説界そのものの厚みがちがうわけで、人材に
おいても、この時代真に二十世紀的な文学意識と筆力を具えていたのは漱石くらいだ
ろう。いくら知識や主義の主張があっても、実作でもってそれを表現できなければ
意味がない。批評家は理論面において作品を強化したり再編成したり、また作家に
示唆を与えることはできるが、とにもかくにも作品が出なければ何も始まらないの
である。

 抱月は明治39年1月に 「早稲田文学」 を復刊させ、その巻頭に 「囚われたる文芸」
を発表した。意の明確さを第一にすべきはずの論文の文章は、なぜか美文調で書かれ、
中身も西洋文芸史の概説に終始し、正宗白鳥(まさむね はくちょう)に言わせると、
「「我ら何をなすべきか」 について教えられるところはなかった。」 「文芸が世界的に
統一されるとか、東洋には東洋の文芸が起こるべきだとかいうような、空漠たる議論は、
当時青年であった私などには、何の刺激も与えなかった」 みたいである。
 抱月は時差ぼけで、小説界の空気が読めてなかった。論の終わりに、対となる
「放たれたる文芸」 を予告したが、これは書かれることがなかった。自分でも空振りした
のがわかったのだろう。それでもその該博な知識と論理力は、ひとつ抜き出たものがあり、
評壇の権威としての重みを有していた。

398 : ◆YgQRHAJqRA :2007/01/29(月) 02:39:58
 抱月は 『破戒』 を評して、
 「小説壇が始めて更に新しい回転期に達した」
 「欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝わった生命は、この作によって始めて
我が創作界に対等の発現を得た」

 と言い、いくつかの作法上の不備を突きながらも

 「もっとも鮮やかに新規運の旆旗(はいき)を掲げたものとして、予はこの作に
満腔の敬意を捧ぐるに躊躇しない。『破戒』 はたしかに近来の大作である。」

 ともちあげた。
 ヨーロッパの自然主義・象徴主義・神秘主義・ネオロマンチシズムといった思潮の
来し方を日本にも夢みた抱月は、これを好機と 「早稲田文学」 を挙げて 『破戒』 を
推し、藤村は自然主義の人と祭り上げ(あるいはなすりつけ)られることとなった。
こうして自然主義のくさびが文壇に打ち込まれたのである。
 しかし、自然主義が本当の意味で回転し始めるのは翌明治40年からで、田山花袋の
『蒲団』 の登場を待つ。

399 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2007/01/29(月) 03:02:22

     , -―- 、 *:.。 .:*: ・'゚:*:・'゚
     ,☆.ニYニl      おつかれさまです。
     レ´从ハヾ!〉
     リ从‘ 。‘从   * ・'゚☆。.:*: ・'☆'・:*:.。.:*:・'゚:* :・'゚☆
  . イ⌒(i7ノつつ
   Jjjiji く/州ゝ    私も昨年末から、このスレッドで教えていただいたことを実践しています。
       し'ノ~   上の方の、今日こそ誰かいるんだろうなゴルァ! をご覧下さい。
             まだまだ、未熟ですが。。。
では、おやすみなさい。

400 :名無し物書き@推敲中?::2007/01/31(水) 13:11:42
行くです

401 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2007/02/12(月) 00:33:57
こんばんは。
>>399の"実践"は継続困難となりました。
勉強し直して、いつかまた地下スレで再開します。

では、おやすみなさい。

402 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:44:55
>>401 ざっとではありますが当該スレ拝見いたしました。
多事忙殺につき返信の礼を失し申し訳ありません。

>書き込む時に意識しているのは、私の作品の文体と目指す作家の姿です。

目標を持って努力すること。大切ですね。
七転び八起きで理想の文章に日々近づかれんことを。

403 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:46:31
 国木田独歩は不遇であった。

 「予の作物は今日までの経過に依れば、人気なる者なし。今の人気作者に比ぶれば、
ただ僅に文壇の片隅に籍を加えるが如き観あり、これ甚だ面白からぬ事と謂うべし。」
(「独歩集」序 明38)

 ところが、『破戒』 が出、折から自然主義の風が吹きはじめた時を同じくして、独歩の
小説集 「運命」 が刊行されると、そこに収められた 『運命論者』 が自然主義の作風を
よく表していると評価された。独歩は藤村と並ぶ自然派の作家としてその地位がみるみる
と上がった。
 『運命論者』 は三年も前に発表した小説であった。そのときはまるで相手にされなかった
のである。自然主義の時流に独歩は懐疑的であったが、自然派として注目されるようになった
ためか、「自然を写す文章」(明39)という題で自身の文章論を語っている。

404 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:48:13

 「自然を見て自然を写すには、見たまま、見て感じたままを書かんければならぬ」
 「私は文章を上手に書こうとは思わん、自然を見て、感じたところをなるべく忠実に、
下手な文章を以て顕して行く、そうして人に、自分の感じたところを、感じさしさえ
すれば、それで成功したものと思って居る。」
 「自然を見て、それを写すのに、こてこてと文飾を施して、嘘を書くほど、いやなもの
は無いと私は思って居る。」

 このような言辞は花袋がすでに吹聴していることとさして変わらない。独歩は藤村と
同じく、自然主義の音頭をとったりはしなかった。それはもっぱら花袋の役柄であった
が、考え方は共通したものを持っていたとみてよい。しかし、次の点では自然主義の
行き方との相違がある。

 「自然というものは決して精細に、写せるものではあるまいと思う。ある主要なる一部分を
とって、それを描写すれば足りる。あとは読む人の連想にまかせるというのがよいとおもう。」


405 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:49:21
 独歩は描写の間に読者の読み≠フ介在を認め、描写を(広く文章を)万能の表現
とは、作者からの一方的な言葉の供給とはみなしていない。
いわゆるインターテクスチュアリティ(間テクスト性)という思想に通じるものだ。
無論この時代にそんな思想は流布されてはおらず、独歩のこの言葉のバランス感覚、
あるいは謙虚さはたいしたものである。
 自然主義の議論が活発になるにつれ、その 「真」 を描く表現方法としての描写が
やかましく論じられるようになる。そうして描写がまるで小説の本体であるかのような
奇妙な権威と意味の拡大を招くのだが、そのことはまた後述するとして、『運命論者』
について少し触れよう。

406 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:51:53

 「僕はどうしても悪運の児であったのです。ほとんど何人も想像することの
できない陥穽(おとしあな)が僕の前に出来て居て、悪運の鬼は惨酷にも僕を
突き落としました。」

 非常に小さな確率で起こる事態に出くわすとき、人はだれでも運命論者になるだろう。
 海辺で偶然出会った男から、<自分>はある秘密をかされる。<僕>は種ちがいの妹と知らずに
結婚してしまった。その事実を知るのは<僕>と母(妻の母でもある)のみであり、人倫に
背くことになっても<僕>は妹を愛するがゆえに別れることができない。
 きわどい内容だが幸い発禁にはならなかった。兄妹の近親相姦ものは、
小栗風葉の 『寝白粉』(明29)が早くあるが、こちらは妹をはらませる叙述があり発禁。

 小説の主部は、この<僕>の説話体(「です」調)による告白─物語りである。
その前後を聞き手である<自分>が挟んでいる。原稿用紙にして五十数枚程度の短編
にしては凝った構成で、<僕>の告白へともっていく流れや興味のもたせ方がうまく、
独歩の技術の高さがうかがえる。
 独歩の文章は、花袋の詠嘆、藤村の曖昧、といったときに欠点と映るような
クセが少ない。硬すぎずゆるすぎない自然な口語文体をものにしていて、自分で
「下手な文章」 と言っているのはもちろん美文調に対する当てつけである。文章力
そのものは花袋や藤村よりもすぐれたものを持っていた。

407 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:54:06
 『運命論者』 の魅力は、その率直でてらいのない説話体の語りにある。三人称形式の
小説は、基本的には読者との対話性をなくす方向で発展してきた。『ボヴァリー夫人』
を嚆矢(こうし)として、写実主義・自然主義は語りを透明なものにしようと努めてきた。
作品世界─語り手─読者、この真ん中の存在を極力薄めることで、語り手(作者)の介入
がなく、あたかも作品世界それ自体が読者の眼前で駆動しているかのようなリアリティ、
漱石が 「空間短縮法」 と呼んだ技法である。しかし空間短縮はなにも三人称形式の十八番
ではなく、むしろ一人称形式においてその効果は絶大である。つまり作品世界のなかに
語り手を隠すのではなく、語り手のなかに作品世界を沈める。

 <僕>の話は、小説上の人物<自分>に対して語られるものであるが、この<自分>は<僕>の語りに
ほとんど割り込んでこない。ここで告白という形式をとる説話体の威力が出てくる。<僕>が
自分=読者に相対して切々とその秘密を語ってくれている、読者はそんな錯覚をおこす。
人にもよろうが、これがかなり強い感情移入を招くことがある。深刻な様子をにじませていれば
なおさらである。読者との対話性を最前面に出すことで、読者と小説の間にある虚構感、どこか
向こうの話という隔たりが一気に縮まるのだ。二人称で語る小説もこれと同様の効果を期待して
いよう。
 ただ、日本語は、縦の人間関係を重んじる文化を反映してか英語のような中性的な二人称と
いったものはなく、老若男女、地位身分による自他の立場を鑑みもっとも適当な人称代名詞を
選ばねばならず、花袋はなれなれしくも紅葉を 「きみ」 呼ばわりしたがために遠ざけられたの
であって、目上の人に対して二人称はまず使えない。そういう日常的な使い勝手のわるさから、
必然的に 「先生」 や 「奥さん」 といった社会的な呼称がそれに代わって通用され、二人称は
ますます使うシチュエーションが狭くなり、よってアナタアナタと無闇にこちら(読者)に呼び
かける小説がはたして日本人の耳に心地よく聞こえるかは疑問である。もちろん小説中の対話は
日常会話のトレースではないので、二人称が入るとリアルじゃないとかおかしいと変に窮屈にとら
える必要はない。

408 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:55:09
 話がずれた。
 この種の説話体の威力は、あれこれ説明するより漱石の 『こころ』 や 太宰治の
『人間失格』 あたりを読めば実感されることと思う。その作品の心酔者の多いこと
をみてもわかるだろう。図書館で借りてみると、傍線やメモやコメントなどで
まあ汚いこと!
 仮に文語体で書かれていたらどれほどの読者を得られたか、口語体であるからこその
感化力といえる。
 しかし、一面それだけ通俗的な汚れがこの文体に付着してしまっているという
ことでもある。安直に用いてもありきたりなので、各自工夫して文体をアレンジ
してみてほしい。例えば、ちょっとした口癖的なもの──春樹の「やれやれ」とか──を
混ぜるだけでも文体の色味が変わるだろう。

409 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 01:57:19
 独歩は文壇で認められ、いよいよこれからまた創作に力を入れようとしたとき、
悪運の鬼は惨酷にも独歩を突き落とした。
 明治40年4月、経営していた独歩社が破産、心身の疲労重なり体調すぐれず、
8月医師から肺結核と診断される。結核は、当時不治の死病であった。一葉や子規を
若く黄泉路へと送った病である。

 「僕は衰えたよ。まるで骨と皮になったよ。君が見たらびっくりするぞ、ひいき目
なしにみて 「長くはあるまい」 が適評ならん。僕も少々くやしくなって来た今死んで
たまるものかと思うと涙がぼろぼろこぼれる。しかし心弱くしてはかなわじと元気を出して
これから大に病と戦い遠からず凱歌を奏するつもり也」(明治40年8月26日 小杉未醒宛書簡)

 この頃の作では 『窮死』 が傑作である。日露戦後、日本はロシアに勝利したものの
当てにしていた賠償金を得られず、すっかり国力を使いはたし、不況の嵐が巷に吹き荒れて
貧富の格差がひどくなっていた。
 『窮死』 は社会の底辺で生きる人間の末路を描いている。どん底にあってなおそこに咲く
人間の美質に独歩は光をあてる。しかしそれは容赦なく過酷な現実に圧し潰されてしまうのだ。
その筆致には、一抹の同情もない。だからこそ、人間そのものがそこに浮かび上がってくる
ように見える。当初、自然派が目指していた小説とはこれだったろうが、実際にはかなりちがう
方向へと自然主義は走っていくのだった。

 明治41年、独歩の評価は、「文豪」 の称を得るまでになっていた。これは自然主義全盛期の
過褒(かほう)ではないだろう。彼が健康でもっと永くその才筆をふるっていたならば、きっと
その称号は大げさな冠とはならなかったはずだ。
 同6月、国木田独歩は帰らぬ人となった。三十七歳であった。


410 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/14(水) 02:03:40
行きつ戻りつジワジワと、つづく。

411 :桜子 ◆6d2EwylCkI :2007/02/14(水) 18:34:51
>>402◆YgQRHAJqRA さん
こちらも年度末接近で慌しい毎日となりました。
忙しさに感謝しつつ、お互い頑張りましょう。
↓ラッピングしている途中なのですが☆ 本日お約束のチョコレートをどうぞ。
           
     /⌒ ̄ \     作品紹介は創作文芸板クリスマス祭りの参加作品が
.    ((.((.`、ト、ヽ.i    対象で、「アリの穴」 というサイトの81〜84ページに
     || |  | |.| |     公開されています。
    __ヽ. lフ くヾ!、    技術の勉強を始めてからは、作品を書いている作者の
  ⊂《__~/($)V~ヽ, ))   姿も目に浮かぶようになりました。
 く   \⊂《__,.イ|イ     取り急ぎ、ご報告まで。
  \ /レ' ヽ| ヽ!、
 ̄ ̄ (《`⌒) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     \/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

412 :名無し物書き@推敲中?:2007/02/14(水) 20:47:37
独歩はひとつも読んだ事がなかったので慌てて青空で二つ読んできた
「運命論者」と「牛肉と馬鈴薯」だ
なる程、文豪に生り得たかもしれないが、いわゆる自然主義とは違うのじゃないの?
疑問に思うので…

413 :412:2007/02/15(木) 21:43:20
独歩「少年の悲哀」 美しい、こんなに美しい小説があったなんて
おしえてくれてありがとう、もう三回読んだよ

414 : ◆YgQRHAJqRA :2007/02/16(金) 01:17:49
>>411
チョコレートどうもありがとう。
ますますガンバって書くぞっ。男って単純なのだ。

>>412
独歩は、いわゆる自然主義の、いわゆるその私小説的な作風には流れませんでした。
独歩の「嘘を書かない」という考えは、あくまで小説のフィクショナリティを土台と
したものであったのです。
たしかにその意味では前期自然主義の流れをくむ作家であって、そうした作風上の
区別で言えば、後期自然主義、一般に単に自然主義と言っているものには属さないよう
にみえます。
ただ文学史的には、広い意味での自然派の作家として位置づけられています。
私は独歩研究家ではないので、なお疑問な点はご自身で調べください。
もしなにか誤謬があったらご指摘していただけると幸いです。

415 :名無し物書き@推敲中?::2007/02/22(木) 13:23:22
なかった

416 :名無し物書き@推敲中?:2007/02/24(土) 02:35:33
スレッドの最初の方が面白いね。
例文と歯切れのいい技術的な解説が楽しい。

しかし最近の文芸評論っぽい書き込みは?

文学史的な「根拠」などいらないから、「文体」についても、
最初の頃のようにザクザク例文を切り刻んで解説すればいいのに。

417 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/01(木) 21:49:35
私も同感です(笑
喩えていえば、それは書くことの苦悩からくるテクストの苦味です。
それが熟成の珍味なのか、単に腐っているのか、本人も定かでありません。
なんてね。
よく筆が滑りすぎるとか浮ついているとか言います。
最初のころの文章は、やっぱり滑りすぎているという感じがして修正して
きたんですね。感覚的なものですけど、なんとなく嫌なんです。スラスラ〜
と書けると。
わがままでしょうか。

>>318からはじめた一連の解説は多分に講義的で、すでに相当の知識を
お持ちの方は読み物としての新鮮さはないでしょう。
ただ、412さんのような「発見」の一助になればよいと思います。

文体については、別枠でまた解説するつもりです。
歯切れが良くなるかはわかりませんが……

418 ::2007/03/02(金) 06:35:46
じゅつ

419 :416:2007/03/03(土) 17:20:44
>>417
「根拠」と言ったけど、「起源」でも「発生」でもいい、
そういったものを意識し始めるとスムーズには進まなくなるはず。

もちろん、スムーズに進むのが良いとは限らないわけで、
既知の主題についてスラスラと書けてしまうのは、
頭はいいが何も考えていないとも言えるわけで(笑)

しかし、「元」技術スレとしては、
既知の技術解説はそれなりに需要もあってよかったと思う。
「文体と語り」についても「根拠、起源、発生」をあえて「括弧に括る」
ということをしたうえで、技術解説に徹するという方向もありではなかったかと。

420 :416:2007/03/03(土) 17:31:00
>>419
もちろん断言した技術解説の「根拠」を問われた場合には、
「起源」なり「発生」なりを屈指して答えるなり、
無視するなり(笑)、
様々な対応があり得るわけだが。

さて416はこれで消えます。

421 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/05(月) 22:11:49
文学史や近代古典のちょっと眠い話が続いてなかなか終わりが見えない、という
のは書いてる私自身も感じているところでして(汗)、予想外に間延びして
しまっています。
たぶんもっと速いペースで更新できれば問題ないんだろうけど、まあそれが
出来ればとっくにやっているわけでして・・・

けれども、無駄なことを書いているとは思っておりません。
現代口語がどこから出発してどのような変化をたどり、近代の作家たちがどの
ように文学に取り組んだかを、大まかにでも知っておいて損はないでしょう。

とりあえずもう少し要約的に書いて今の解説を終わらせ、文体そのもの
に関する解説に移ったほうがいいかな。416さんと同意見だという声が
あればそうしたいと思います。



422 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/05(月) 22:27:36
いや、せっかく自然主義まで来たのだから、現代までの解説をきぼんぬ
ゆるゆるとでも構いませんとも、ええ

423 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/05(月) 23:04:44
すみません、現代まで行く予定はないのです。
近代文学の終わり、芥川が死ぬあたりかその手前くらい、言文一致運動が
一応の完成をみるあたりまでを予定しています。

424 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/05(月) 23:41:48
う〜ん、庄司薫の赤頭巾ちゃんって知ってる?
あれをサリンジャーのライ麦のパクリ(雰囲気)だと言ったら
あれはあれで日本語の第二次言文一致だと反論されて
んなバナナと思った俺がいるのだが、、そこまでは無理か…w

425 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/08(木) 12:46:46
文体とは何ぞや。
文体って何ですか。
文体? 何それ?
彼は文体が何かを問うた。

いくらでも書き分けられそうで、
ではいくつに書き分けられるのかとなると見当が付かない。

言い換えれば、文体の体系的な説明ができない(俺だけかもしれないが)。

426 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/08(木) 12:48:45
俺なんか、文法すら体系的な説明が出来ないよ。

427 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/08(木) 15:22:03
「体系的な説明ができない」のではなく、体系が無いのでは?
文体はもちろん、文法も。

文法については誰か有名な人が、そういう意味のことを言っていたはずだが。。。
システムを成す集合ではなく、ただの雑多な集まりだとか何とか。。。

文体についても同じかな(結構文法がベースに有りそうだし)。
人称と視点の問題とか、
描写/語りと現在形/過去形の問題とか、
科白と直接話法/間接話法の問題とか、
湿度と形容詞の問題とか。

でも文体論はよくわからんな。
ある種の物語論なら文法との関連は明らかなのにな。

428 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:28:03
桜子さんへ

|∧_∧
|・ω・`)
|o○o ・・・アメ食べる?
|―u


うう…こんなAAしか貼れません(つдT)

429 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:28:55
>>424
不勉強なもので庄司薫についてどうこうは言えないのだけど、
69年−『赤頭巾ちゃん気をつけて』におけるポップな口語体の「目新しさ」
と明治20年代における言文一致体の「革命性」を同列に取り込もうというのは、
左翼的な思惑が入っているのか単に言ってみただけなのか知らないけれど、
そりゃおかしいよね。

たしかに権威化したハイカルチャー(文学)に対して、サブカルチャーあるいは
ポップなスタイルが反逆性や批判性を持ちうることは認められる。言文一致体
も最初は軽薄なものとして守旧派から冷罵された。
その構図を69年当時の庄司薫とお堅い文学者に当てはめてみることは容易い。

しかし、その対立は、紙上における書記言語の領土を奪いあう明治期のような
対立では決してないし、そもそも言文一致体は「おしゃべり」を文章化しようと
したものではなかった。
庄司薫の口語体を、わざわざ言文一致体と言い換えるのは、なにか「特別」な
ものがそこに含まれているみたいでやはり胡乱だ、
 とひねた私見を添えてみました。


430 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:31:48
 竜土会のメンバーのなかで藤村、独歩に後れをとった感のある花袋であったが、
明治40年(1907)に発表した 『蒲団』 は、自然主義文学の指標となる斬新な
スタイルを確立した作品で彼の出世作となった。

 『蒲団』 の主人公、竹中時雄は花袋自身がモデルとなっている。時雄は、彼の
門下生のなりたいと熱烈な手紙をよこしてきた女学生芳子を弟子にする。上京して
きた芳子に会ってみると、これが思わぬ器量よしで、細君が動揺するほどであった。
あくまで師弟の関係と思いつつも、密かに激しく高まる時雄の恋情とその破綻まで
が描かれる。それらは、実際花袋の身の上に起きた経験をもとにし、それをほぼ
そのまま小説の体裁にして表出したものである。

 今では珍しくもないが、当時自分のことをもろに書いて小説にする手法、小説に
なるという発想は、それまでの 「小説」 の概念を変える新しい発見といってよい
ものであった。
 純然たる自伝とは異なり、作中の人物は架空の名前かイニシャルで表されるのが
普通である。そのため予備知識がない読者や作者周辺の人間以外は、その小説が
作者自身の言うなれば 「自画像」 であることに気づきにくい。実名では書きに
くいことも、匿名性があると書きやすくなる。大胆になる。露骨になる。書き手の
心理は今も昔もさして変わらないようだ。
 匿名性があるといっても完全なものではないから、自分(身辺)のことを小説に
するのはけっこう勇気がいる。また自分を飾らずに表現するには、自己の客観化が
不可欠である。たいていの人間は自分のことがかわいいため、己の醜い部分を直視
したがらない。無意識に美化したり表現をぼかす。偽善的になる。(藤村はこう
いう傾向であった)
 さらに、「正直」 は自分だけでなく他人をも傷つける場合がある。他人を描く
こともまた難しい問題をはらんでいて、プライバシーや人権意識の高まった今日では、
その取り扱いを軽く考えてはならない。恥知らずな暴露趣味が文学としてまかり通って
はなるまい。
 かといって、遠慮ばかりしていては読者に何も伝わらないのである。他者をきちん
と描けなければ、そこから独立した個我─私も実在的に浮かび立ってはこないだろう。

431 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:33:43
 この手法(私小説)には、花袋が 「皮はぎ」 と呼んだ苦しみが伴い、それが
また文学的強度ともなっていた。『蒲団』 からひとつ引用してみよう。

 「三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽くした」
 「出勤する途上に、毎朝邂逅(であ)う美しい女教師があった。渠(かれ:時雄)
はその頃この女に逢うのをその日その日の唯一の楽しみとして」いた。
 「細君が妊娠して居ったから、不図(ふと)難産して死ぬ、その後にその女を
後妻に入れることが出来るだろうかなどと考えて歩いた。」

 通常の、つまり作り事の小説であれば、上記のような主人公の心理を描いた
とて、なんてことはない。主人公は平凡な日常に飽きたらず、結婚生活の倦怠期
にあるのだ。
 しかし、周知のように 『蒲団』 は作り話ではない。妻子ある諸兄は、たとえ
嘘でも同じような裏切りを書き連ねそれを妻に見せて平気でいられるだろうか? 
もちろん、花袋にとって、あとからこれは冗談でした、潤色でしたと弁明する
ことは、自分の文学に対する背信となろう。
 ほかの若くてきれいな女と一緒になりたいから都合よく妻が死んでくれれば
いいのに、なんて考えていたことを、ありのままに書いてしまうのは怖ろしい。
これはプライベートな日記ではないんである。公に発表され、となり近所知人が
読むかもしれないのだ。もし世間の人に尊敬されたいと思うなら、こんなことは
書かない方がよいに決まっている。
 女弟子への劣情や憤りを抱いて悶々とする時雄=花袋の姿は、滑稽でもあり
憐れでもある。それは捨て身の自己表現と言ってよい。花袋の露骨なる描写、
自然主義はここに行きついた。

 文壇は、『蒲団』 を嗤(わら)って黙殺しなかった。不道徳な作法と排斥
しなかった。むしろこの作り事ではないリアリティ、切実さ、真面目さに感化
された作家は少なくなかったのである。
 ヨーロッパに発した科学的自然主義はここでまったく変形して、日本的・経験的
自然主義として小説界の一大トレンドとなってゆく。


432 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:35:30
 『蒲団』 の登場をみて抱月は、「日本では自然主義が正にプレゼント・テンスだ」
 「真にその意義を理解し味得するのはこれからである。」 と述べ、『蒲団』を
「赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」 「已みがたい人間の野生の声」 「自意識的な現代
性格の見本」 であると認めた。
 そして、「僕は自然主義賛成だ。」 とこの主義への肯定的態度を鮮明にした。
 「早稲田文学」 は自然主義評論の牙城となり、作に触れて論が起こり、論にまた
作が応えるという相互補完的な二人三脚によって、自然派は文壇をほぼ独占する勢力
に発展する。芝居的、技巧的、虚飾的な硯友社系の小説はまったく否定され、その
旧套(きゅうとう)を脱し得ない作家はしだいに追い込まれて居場所を失っていった。

 紅葉の一番弟子であった泉鏡花は、明治39年より体をこわして逗子に療養すると、
そのまま三年間中央文壇とは疎遠となり、乞食みたいな生活を余儀なくされた。
自然主義とは真反対の作風を示す鏡花などは、居ようが居まいがどうでもよいので
あった。もし居たとしても相手にされなかっただろう。
 同じ硯友社作家で名をなした小栗風葉や徳田秋声は、なんとか生き残るため作風の
転向に努めねばならなかった。そして、秋声は認められたが、風葉は認められず文壇
から去っていった。
 風葉の 『世間師』(明41)などは今読めば面白くていい小説なのだが、話が義理
人情に落ちて読後のすっきりするところなど、やはり自然主義ではないと低くみられ
たのだろう。
 「この〔自然〕派の人の言論には自分の見のみ正しくして、他はほとんど芸術家で
ないような口吻(こうふん)があるのは宜しくない。」 と上田敏(うえだびん)が
苦言を呈するも梨のつぶてであった。

433 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:37:29
 さて自然主義ではないと言えば夏目漱石もその一人であった。初期の代表作と
言えば 『坊っちゃん』(明39)をあげる人が圧倒的だと思うけれども、この頃は
「猫」 の擬人化小説をはじめ、二人のセリフばかりで進行する 『二百十日』(明39)
など、実験的な小説も多く、「文体」 という面でみれば 『草枕』(明39)を
素通りするわけにはゆくまい。


 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安き所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくい
と悟った時、誌が生まれて、画が出来る。


 『草枕』 を開いて五、六ページで挫折した人も、この書き出しだけは忘れて
いないだろう。直接読んだことがない人でも、智に働けば──の名文句はどこかで
耳にしたことがあるのではないかと思う。不覚にも今知ったという人は五、六回復唱
して憶えておこう。 

434 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:40:21
 これは、人間のもつ知・情・意の働きにとらわれた人づきあいほど煩わしいもの
はなく、そんな俗世間の煩わしさを超越した心境──この小説で説かれる非人情──
の内に芸術は生まれるのだ、というようなことを言い表しているのだが、そんな小賢
しい読みはしかしどうでもよく、この文章の本体はなんと言ってもその語路のよさ、
言葉の小気味よさにある。
 読者は、漱石の筆からしたたる言葉の美妙をそのまま賞翫(しょうがん)すれば
よい。そうして気持ちよく次のページに行くと、一転一般読者を寄せつけぬような
筆致が現れる。
 「摎鏘(きゅうそう:左側の字は正確には王ヘン)の音(おん)」 だとか
「霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を
清くうららかに収め得れば足る。」 だとか言われても、何の音だか何が足るんだか
さっぱりである。たちまち浅い美の感性は無知の知におびえだす。書いてあることが
解らないと嫌になる。解ろうと頑張ると苦痛でたまらない。
 それが読者の 「人情」 である。
 『草枕』 は非人情の芸術(文学)であるから人情で読むと挫折するのである。

 「小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいです。こうして御籤(おみくじ)
を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
 
 と作中主人公に語らせ、漱石自身 『草枕』 を 「ただ一種の感じ──美しい感じ
が読者の頭に残りさえすればよい。それ以外になにも特別な目的があるのではない。
さればこそ、プロットもなければ、事件の展開もない。」 と言い、これを 「俳句的小説」
と呼んでいる。
 この近代小説のフレームを破ろうとする実験は、スターンの 『トリストラム・シャンディ』
と向こうを張る文学を自分の手で創出しようとした漱石の野心による。ほかの作家が
近代のなかで人間の 「真」 をいかに描き出すかにもがいていたとき、漱石は半世紀先の
言語遊戯としての文学を夢想していたのである。

435 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:41:08
 『草枕』 は、写生文的な描写と主人公の饒舌な思弁で、異なる筆致を見せる。
ここで取り上げるのは、後者の文体、同語(類語・縁語)の連鎖・連想によって
構成される饒舌体である。次の文章はその特徴をもっともよく表していると言えよう。

436 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:42:12
 初めのうちは椽(えん)に近く聞こえた声が、次第々々に細く遠退いて行く。
突然と已(や)むものには、突然の感はあるが、憐れはうすい。ふっつりと思い
切ったる声をきく人の心には、矢張りふっつりと思い切ったる感じが起る。これ
と云う句切りもなく自然(じねん)に細りて、いつの間にか消えるべき現象には、
われもまた秒を縮め、分を割いて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なん
とする病夫の如く、消えんとしては、消えんとする燈火(とうか)の如く、今已む
か、已むかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨みを悉(ことごと)く
萃(あつ)めたる調べがある。

 〔春の恨み:漢詩の「春恨」の訳。春愁。春のものうさの意〕


437 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:44:27
 この連鎖語法はかなり意識的であるが、この文体はなにも小説用に新規に編み
だしたものではなく、作家になる前から漱石はこういう書き方をするクセがあった。
それを文学的なレベルまで高めたのが 『草枕』 である。
 核となる語の連鎖連想によってひとつの情景を展開させる技法は、古く連歌に
その源をみることができよう。喩えて言えば、初めの──、一文が発句ということ
になる。このうちの 「声」 と 「細」 をうけて後続の文が展開、変化されていく。
ここでは、細い→切れる→消える→死、と連鎖連想が働いている。
 「死」 への連想は作品全体にも及んでいる。いたるところで死が暗示され、
やがてそれは戦争という現実の形をとって迫ってくる。そして憐れのうすいこの
「声」 の主、エキセントリックな言動で周囲からキチガイと思われている那美の顔に
最後、──戦地に送られてゆく元夫の顔に出会って── 「今までかつて見た事が
ない 「憐れ」 が一面に浮」 くことにもなろう。
 しかし柄谷が指摘するように、『草枕』 の主人公は結局その現実をも 「画」 の
なかに回収してしまうのだ。

 このような反リアリズム、もしくは言語中心主義は、「心細さの細さが細る」
といった表現に端的にあらわれている。漱石は、「心細さ」 という意味を視覚的
な 「細さ」 に転化して、その 「細さが細る」 と表現を異化してしまう。
テクストの具体性をちぎり捨ててしまう。つまり漱石は 「細」 という文字その
ものに目を向け、通常の意味作用を脱構築してしまうのである。そこでは、文が
もつ論理性─筋が否定される。いわゆる 「意識の流れ」 との関連を考えてみても
面白い。
 難解な漢語表現も、美文やインテリを気取るために多用しているのではなく、
テクストを非日常化させるためのものだ。自動化された読み─意味はそこで断ち
切られ、文字はそれこそ 「画」 のようになる。もちろん親切な注解など当時の
読者は参照できない。

438 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:45:59
 小賢しい分析の正否はともかく、今でこそ、『草枕』 をこのように評価し、
文学的に解釈することも可能であるが、当時の(きっと今も)一般読者にはやはり
わけの解らない小説でウケは良くなかった。一部の知識人がそのペダンティックな
ところを珍重したくらいで、大方は失敗作と受けとめた。一言で言えば、早すぎた
のである。

 明治40年4月、漱石は教職を辞し、朝日新聞に入社して専業作家となる。その後も
『坑夫』(明41)や 『夢十夜』(明41)など、実験的な小説を書き、自然派からは
「余裕派」 「遊び」 と難じられ二流作家扱いされた。自然派のこうした態度は
愉快ならざるものであった。

 「いったい今の自然派はローマンチシズムを攻撃するんでなくて、積極的に自派
の主義を主張している。もうローマンチシズム対自然主義じゃない。絶対的に自然
主義万能論となって、その余のものは一顧の価値もなく擯斥(ひんせき)されてい
るのだ。」 「我々の書くものでは悪くて、自分たちの作物でなければ文学ではない
かのごとくなのだ。」
 と不満を漏らしたがどうにもならなかった。

 次回はその自然派の主張を取り上げたい。


439 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/15(木) 00:57:23
わかると思うけど一応訂正。

>>433 誌が生まれて→詩が生まれて

440 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/15(木) 20:56:37
今の私小説と言えば藤村からの私小説なのかもしれないが
一方で漱石からの私小説もあるのではないのだろうか?
夏目漱石→志賀直哉つう流れも考えていいのじゃないか?
漱石の明暗などは志賀の暗夜行路と同じテーマと思える

441 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/18(日) 00:39:12
草枕については上記のような感想ではなく
漱石が三十にして西欧的な教養のみならず、一種の悟りと言おうか
要するに全てを理解している事に感嘆した
たぶん、だから非人情なのだ、つまり唯物論だ、これが逝き着いた先
でもそこから本当の苦悩が始まるんだな、つらいな、現代人も同じだ

442 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/18(日) 00:42:15
ああ、何が言いたいのか、草枕が非人情ではなく
非人情の元だと言いたかったのだ

443 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/18(日) 20:25:55
>>440
藤村や花袋、その他自然派の作が私小説であることを裏付けるため(小説を
読んだだけでは、実際それが「事実」に基づいているのか確定できないため)
地道に調査取材した今までの研究結果が、みんな間違いだったという仮定に
たてば、そのような考えもできるかもしれません。
また、「私小説」は創作スタイルのひとつでありまして、作品の「テーマ」
の類似とはあまり関係がないと思います。

>>441
「唯物論」とはいいえて妙かもしれません。初期の漱石はそんな感じがしますね。
晩年になると「唯心論」みたくなっちゃうんだけどw

444 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/18(日) 21:52:32
何のための私小説か、つう問題がある
私小説にする理由は、心の奥底を探ろうとしてるのじゃないの?
そう考えれば漱石や志賀が私小説だと言ってもいいだろう?
むしろ本命だと思うのは私だけじゃないだろう

445 :名無し物書き@推敲中?::2007/03/20(火) 13:16:55
だけじゃない

446 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/20(火) 13:28:30
だけかもよ

447 : ◆YgQRHAJqRA :2007/03/23(金) 23:34:21
巷間流布されている文学史を否定する理由もない私としては、>>443のように答える
ほかありません。
でも>>444ではなんだか話がちがってますね。
自己の内奥を小説に事寄せて表現するというのは、なにも私小説だけに許された
方法ではありませんので、私小説の意味をそのように拡大しては何でも私小説
と呼べてしまいます。

漱石が自伝的スタイルで書いた小説は、『道草』(大4)でこれ以外にありません。
これとて、自伝風とか私小説風とか、なんだかお好み焼きみたいなこと言って、
はっきり「私小説」と明言する論者は少ないんだね。発表年も志賀直哉の
『大津順吉』(明45)よりだいぶあとです。自然主義の影響をまったく無視して
二人の関係だけをみるにしても、漱石→直哉と私小説が継承されたとするのは
無理があるでしょう。

私小説というスタイルは、誰がというより自然主義文学運動全体を通してつくり
出されたものだと考えたほうがいいと思いますが、一応その新生面を切り拓いた
作と作者をあげれば、花袋の『蒲団』ということになるようです。藤村の『春』(明41)
とする説もありますけど、どちらにしろ自然派が生みの親なわけです。

私小説についてはまた解説のなかで言及する予定です。

448 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/24(土) 23:05:49
芥川の「幻鶴山房」は漱石山房をもじったものだと思うが
逆に漱石の中の主人公の、あの高等遊民のモデルは
実は志賀直哉ではないのかな? 漱石自身ではないだろう
漱石は志賀の文章を認めていたらしいからな
その意味では漱石の文章の継承者は志賀と言ってもいいのでは?
私小説論、楽しみにしています

449 :名無し物書き@推敲中?:2007/03/27(火) 22:40:36
◆YgQRHAJqRA さんは渡部直己に私淑しているそうですが、
スレッドの前半に渡部の香りがしますね。スレッドの後半は柄谷でしょうか。。。
ところで、中条昌平とかはどうですか。あと、元灯台総長はお嫌いそうですね。
いや、独り言ですw 続きを楽しみにしています。

364 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)